えー、Gレコ遂に終わってしまいました。もう木金に夜ふかししなくて良いんだと思うと嬉しさで涙が零れんばかりです。
まー各話感想が完全に滞った状態でどーしたもんかなーと思ったんですが、熱が引かない内にとりあえず今考えてる事は一通り吐き出そうと思った次第です。
結局Gレコとは一体何だったのか? これは良い意味でも悪い意味でもひどく不明瞭な部分が大きい。Gレコでは非常に多岐に渡るテーマ性が同時並行しながら描かれ、しかも台詞などで直接に説明される事がほとんど無い。そういう意味ではGレコを簡単に総括するって事はほとんど不可能に近い。それでも何らか言語化できる内容はあるので、とりあえず現時点でのいくつかのまとめを列記する。
【Gレコとは世界を知る旅の物語だったのだ】
仮に私が誰かに「Gレコって何が面白いの?」と聞かれたとする。細かい演出レベルでなら「画面の情報量が高くて楽しい」とか「モブにいたるまでキャラが生きてて凄い」とか「MS戦が定番の決めポーズや決めアクションに頼らず凝ってて飽きない」とか、まあいくらでも答えられるんだけど、物語全体に対するマクロな魅力を端的に述べるとするなら、世界が広がっていくのが面白いんだよね、というのに尽きるかなと個人的には思う。
Gレコって話数が進む度に本当にドンドンドンドンと世界が広がっていく。物語の初期だと、地球の人間達からしてみればキャピタル・タワーの終着駅ザンクト・ポルトくらいが「噂に聞く世界の果て」くらいの認識だったはず。それがおとぎ話も同然くらいのトワサンガにまで辿り着いて、かと思えば今度は金星にまで向かう。そこでベルリ達は今までの常識がドンドンと崩れていくのを目にする訳だ。
その何に痺れるかって、まずザンクト・ポルトってスコード教っつう主人公達が心の拠り所にしてる宗教の聖地な訳だよね? それなのにいざ行ってみたらそこは単なる観光地くらいの勢いで、そこにいる職員も所詮ただの公務員的な人間だった。トワサンガだって、地球人達にとってはおとぎ話に出てくるほとんど伝説の地だった訳で、一般市民レベルはそもそもその実在すら胡散臭がっていた。実際にそこから送られてくるフォトン・バッテリーによって生活していたにも関わらず、だよ。それこそ何だか訳の分からない天上人みたいな有り難い人達が下々の我々に生活の糧を授けてくれる、みたいなイメージだったんじゃないかなと思う。実際1話冒頭におけるスコード教の聖堂でのお説教はそういう内容だった。
けど実際にザンクト・ポルトに現れた月の人間も大して自分達と違った所なんてなくて、そこで行われてるのは地球でも散々見た大人同士の腹の探り合いにすぎなかった。だもんで姫様は勢い次はトワサンガを目指す。こんな所で腹の探り合いやらパワーゲームやってた所で埒が明かないんだから、いっそ奴らの本拠地に行ってしまおう、と。
その姫様のモチベーションって何だったかって言ったら、それこそ「ラスボス倒しにいくぞ!」的な発想ですよね。そうやってトワサンガを目指して、実際にトワサンガに着いてしまった訳だけど、そこで待っていたのは別に「世界を裏から操っていた黒幕」でも「驚くべき世界の真実」でもなんでもなかった。結局月でも地球と同じように意見の対立でいろんな人が仲違いしてるし、そもそも何がガッカリって、フォトンバッテリーを授けてくれる人、という話だったのに、実はトワサンガ人もどうやらヘルメス財団からフォトンバッテリーを受け取って地球に運搬してるだけの仲介業者に過ぎなかった。
じゃあそんなら今度はフォトン・バッテリーが生産されてるっつうビーナス・グロゥブに行ってやる!とクレッセントシップに乗り込んだ訳だ。トワサンガ人がビクついてる金星人達は一体どんな奴らなんだ?と。
で、いざビーナス・グロゥブに辿り着いたら、やっぱりそこでも人々は内部分裂起こしててロクにまとまっちゃいない。しかも、だ。地球は月からフォトン・バッテリーを頂戴する立場だから頭が上がらない。月は金星からフォトン・バッテリーを頂戴する立場だから頭が上がらない。じゃあ大元の金星の連中はどんだけ偉い奴らなのかと思ってたら、金星は金星で「何でこんな大変な目に合いながら地球にフォトン・バッテリーを送り続けなきゃいけないんだ」と悪態をつくかの如きだ。ビーナス・グロゥブの人々にとってはむしろ何もせずにフォトン・バッテリーを貰える地球人の方がよっぽど「既得権益」に見えていた訳だ。
とにかく徹頭徹尾Gレコはそんな物語だった。物語の当初のベルリやアイーダ達にとって、世界は精々自国の中だけで完結しており、同じ地球の中であっても互いの国の生活や思想をリアルには想像できていなかったに違いない。となると「月」や「金星」なんて、それこそフワフワとしたイメージだけだ。でもそこにもちゃんと人がいて、生活があって、政治も、主義主張も、諍いもある。
世界の果てまで旅してみても、そこには結局現実が待っているだけだ。でも、結局の所そういう事こそが「世界を知る」という事なんじゃないだろうか? この世界をスッキリ説明してくれる「真実」や「黒幕」なんて、どこにも存在しない。地続きの現実がどこまでも広がっている。
ベルリ達の旅とは、世界の広さと、そして広い世界が地続きで繋がっている事を知るための旅だったのだ。そしてそれは、Gレコという物語そのものを意味する。最終回のラストシーンで、ベルリはクレッセント・シップを降りて、一人シャンクで旅に出る。遠い宇宙の国まで旅したベルリが、今度は自分ひとりで大地を歩いて地球一周をする事に決めた訳だ。
Gレコとは世界を知る旅の物語だったのである。
という訳でとりあえず1テーマについて語った所で次回に続く。とりあえず4分割くらいで1週間程かけて書ききる予定。
→その2