はじめましての方ははじめまして。そうでない方はこんにちは。
例によって例の如く、ブログの方ではお久しぶりのあでのいです!
さてところでなんですが、過日、私あでのい、貴重な休日の昼下がりを使って、更新されてゆくtwitter(X? 知らない子ですねぇ)のTLをボケーっと眺めるという、素晴らしく有益な時間を過ごしていた訳なんですが、その際たまたまこんな記事を見かけました。
ベストバウト議論。それはバトル漫画における漫画議論の花型と言っても良いかも知れません。
飲みの場での与太話としても大いに盛り上がる格好の話題である一方で、不毛になりがちな最強キャラ議論に比べて、漫画読みとしての審美眼もそこではまた大いに試されます。
当然、日本漫画史に燦然と輝く名作バトル漫画ドラゴンボールにおいても、一体どのバトルが作中でも最も魅力的であるかを語ることは、いくら時間を尽くしても語り切れるものではなく、その意見は各人にとって様々な漫画観を提供することになるでしょう。
さて、そんな前置きの中で今日したいお話はと言いますと、私の場合、以前からドラゴンボールにおけるベストバウト議論になった時、個人的に毎回候補に入れておきたいヤツがありまして、それが何かと言えば
クリリンVS餃子戦
だったりします。
そう、作中2回目の天下一武闘会1回戦のアレです。超能力で腹痛起こされて最終的に計算合戦になるアレです。
まあこの時点で皆さん「えっ、何そのチョイス……」とお思いのこととは思います。
まあ正直なとこ、実際にこのバトルがドラゴンボール作中で「ベスト」になるとは本気では思ってないですし、ベスト5ですら入れるかって言ったら入れないんですが、一方で「ベスト5」ではなく「5選」みたいな意味合いでは入れておきたいバトルではありまして、個人的には番外枠として非常に思い入れがあったりします。
という訳で本日は、クリリンVS餃子戦がドラゴンボールという漫画の中で如何に重要かつ魅力的かという話をしていきたいと思います。
悟空は何故修業をするのか?
本記事のメイントピックであるクリリンVS餃子戦の話をする前に、その前段としてまずはドラゴンボールにおけるより基盤的なテーマ性についての話から始めたいと思う。
前置きで述べた通り、ドラゴンボールがいわゆる「バトル漫画」であることは当然かつ周知の事実であり、バトル漫画の常として、その主人公である孫悟空は、強さを求めて度々「修業」を行う。
しかしながら、「主人公が強さを求めて修業する」という、その筋書き自体はあらゆるバトル漫画において広く見られるものでありながら、ドラゴンボールにおけるそれはかなり強い特異性がある。
実はドラゴンボール以前以降どちらにおいても、少なくともヒット作と言える少年漫画作品の中において、ほとんど類型が存在しないとすら言えるのだ(無論、膨大に存在する世界中の漫画作品の中で皆無だと言い切るような暴論までは言わないが)。
悟空は一体何故修業をするのか?
8年前に書いた拙ブログ記事において、筆者は「悟空は一体何のために戦うのか?」という理由について、それがドラゴンボール全体のテーマそのものであるとして、魔人ブウ編にフォーカスしながら論じたことがある。(余談だが、いまだに拙ブログにおける最大のPV稼ぎ頭の記事だったりする)
少し長くはなるが、まずは当時の記事からセルフ引用してみよう。
またもや一旦少しだけドラゴンボールそのものからは離れて話を進める。ドラゴンボール連載終盤に差し掛かった丁度90年代半ば辺り以降から、少年向けバトル漫画において主人公の戦う理由がかなりシビアに問われるようになっていった印象がある。細かい個別論は避けるが、ジャンプ漫画に絞っていくつかタイトルを列記すると、
るろうに剣心 ダイの大冒険 HUNTER×HUNTER ONE PIECE NARUTO BLEACH 銀魂(これも一応カウントしておいて良いだろう)
となる。「何故戦うのか?」の問いに対する答えに関しては作品によって千差万別ではあるが、概して言えば「誰かを守るため」というのが正しい「戦う理由」として認められる傾向にあると言える。
その点で興味深いのが上記のベジータの台詞で、ここで明らかにドラゴンボールという漫画は「敵を倒すための戦い」と「誰かを守るための戦い」との間に線を引くことを拒否していることが分かる。
(中略)
では「守る」ことと「倒す」ことの間に線を引かないドラゴンボールは、一体どこに線を引いているのか? それはベジータの台詞の中でハッキリと述べられている。「勝つために闘うんじゃない。ぜったいに負けないために、限界を極め続け闘うんだ…!」
話は大きく過去へと遡る。
悟空がブルマらと一緒に初めてのドラゴンボール集めを終えた後、彼は亀仙人のじっちゃんの下に弟子入りする。基礎トレーニングや勉強だけでなく拳法を教えて欲しいと頼む悟空とクリリンに対し、亀仙人は諭して言う。そしてもうワンシーン。これはさらにもう少しだけ時間を遡り、悟空とクリリンが初めて亀仙流の修行を開始する際のシーンだ。
悟空は何のために戦うのか。悪の敵を倒すためではない。仲間や市民を守るためでもない。悟空は戦うことを通してより良い人生を送るために、人生をより良いものとするためにこそ戦うのだ。「不当な力で自分もしくは正しい人々をおびやかそうとする敵」に「ズゴーンと一発かます」のは、あくまでそのついでに過ぎない。
ベジータが言う「だから、相手の命を断つことにこだわりはしない」とはそういうことだ。
それこそが亀仙人のくれた教えであり、ドラゴンボールという漫画における数少ない「正しさ」だ。
エッセンスとしてはこの引用で全て書いてると言えば書いてるのだが、本記事では少し角度を変えたアプローチで、上記の内容をもう少し深掘りしてみたい。
元々悟空は武術の達人である孫悟飯の孫として育てられ、当然幼少期からその薫陶を受け、日常的に修業は行っていたであろうことは推測される。
しかしながら、漫画ドラゴンボール作中で描かれるストーリーの中で見た時に、悟空が正式に作中で「修業」を始めるのは、ピラフ一味相手のドタバタ劇、すなわち1回目のドラゴンボール探しの冒険を終えた後のことだ。
フライパン山での牛魔王親子との一件の際に、悟空が自身の一番弟子の孫悟飯の孫であることを知った亀仙人が、自身の元での修業に誘い、それに悟空が応えたことで、ドラゴンボールにおける最初の「修業」が始まる。
ドラゴンボールが非常に特殊なのは、この「修業」に確たる目的が存在しない点だ。
上記の8年前の記事よろしく、ここでも同世代の主要なジャンプバトル漫画を例にとり、それらの作品における「修業」シーンの始まりについて列記してみよう。
キン肉マンがプリンスカメハメに弟子入りしたのは、打倒ジェシーメイビアとハワイチャンピオンベルト獲得のためであり、浦飯幽助の幻海への弟子入りは暗黒武術会を生き延びるためだ。
ジョナサン・ジョースターの波紋の修練は石仮面によって吸血鬼化したディオに対抗するためであり、聖闘士星矢の場合は血の宿命による強制があった。
比較的近年の作品からも挙げておくと、竈門炭治郎は妹を救うために強くなる必要があったのが修業の理由だ。
概して言えば、修業を行うに当たって何らかの明確な達成目標があるのが普通だ。
と言うより、「物語」という特性上、普通は主人公には明示的な目標が常に求められるはずである。
が、ドラゴンボールにおける亀仙人の元での悟空の修業には、それが無い。
上記の悟空のセリフから「強くなるため」という文言を引き出すこと自体は可能だが、その答えはほとんど同語反復に等しい。
結局「強くなる」ことの明確な目的・目標が悟空には特に存在していないのだ。
一応、修業が始まった際に天下一武闘会という目標が与えられはするが、あくまで後付けの理由に過ぎず、もっと言えば、亀仙人のセリフからは、天下一武闘会のために修行するのではなく、より修行に励むために天下一武闘会に出る、という理屈が読み取れる。
亀仙流において、あくまで主体は「修業」の方にあるのである。
試合とは「試し合い」を意味し、その目的は自身の技量の確認であり、勝敗はあくまでそこに付随するついでのものでしかない。ドラゴンボールにおける亀仙流のこういった思想は、現実世界にも通じる一種の理想論ではありながらも、他のバトル漫画はおろかスポーツ漫画においても少なくとも少年漫画の範疇で言えば、ほとんど共有されることがない。
「悪の魔王を倒すため」「世界を守るため」「仲間を守るため」「甲子園優勝のため」「ライバルを打ち倒すため」「夢を叶えるため」「遠い日の幼馴染との約束を果たすため」
修練、トレーニング、特訓、練習、名前は作品によってそれぞれ異なるが、基本的には漫画における「修業」とは、明確に設定された物語上のゴールポイントへと到達するための「手段」なのである。
では、修業に当たってのゴールポイントが設定されない悟空の修業が、一切説得力の無い唐突なものなのかと言えば、それは違う。
そもそもドラゴンボールとは、閉ざされた山奥にて自給自足の狩猟採集民的な生活を営んでいた孫悟空が、ブルマと出会い外の世界を旅するようになるという筋書きで始まる。
悟空自身は別段それまでの生活に不満があった訳ではないだろうが、今まで見たことも無かった人や物や事との出会いに彩られたブルマとのドラゴンボール探しの旅は、悟空にとって(そして読者にとっても)この上なく楽しく、ワクワクさせられるものだったはずだ。
広い世界を旅する楽しさを知った悟空が、元の山奥での生活に戻ることをよしとせずに、亀仙人のもとでの修業生活を選んだとすれば、その目的である「もっと強くなる」が、単なる戦闘能力の話をしているはずがない。
そうした悟空の想いは、第1部(という表現が妥当かどうかは分からんが、要は最初のドラゴンボール探し編)ラストの見開き2ページにて十全と表現されている。
つまる所、悟空の亀仙人のもとでの修業とは「より見聞を広めるため」であり、さらに短くまとめるとするなら「人生経験」という一言で表現されるようなものなのである。
(それはそうと、かつて筆者は「ドラゴンボールに関しては『ピッコロ編より後は全て蛇足』か『ブウ編まで含めて完成』のどちらかしかありえない、という立場をとっている」と述べたが、今読むと2巻のこのエピソードが最終話でも、短編冒険漫画としてかなりまとまってるなと今更思ったりした)
この悟空の修業のモチベーションは極めて抽象的で茫洋としたものであり、とても長編ストーリー漫画を牽引できるようなタイプの「目標」には見えない。
ここにドラゴンボールにおける「修業」の特殊性の一端がある。
亀仙人のもとでの修業は、ストーリー漫画としてのドラゴンボールの「目標=ゴールポイント」とは実は全く同期していないのである。
と言うより、そもそもこの時点(初回のドラゴンボール探しが終わった時点)では、ドラゴンボールという漫画にまずもってストーリー上の大きな具体的「目標」が存在していないという状況があるのだ。
率直に言えば、こうした特殊性は、ひとたび人気漫画になれば作者の意向とは無関係に無制限に連載が引き延ばされるという、当時のジャンプ漫画における鉄則に起因して、偶発的に形成されたものだと考えることは出来る。
また、鳥山明自身が元来は一話完結のギャグ漫画家であったことと関連づけて考えてみても面白いかも知れない。
が、本稿はあくまでドラゴンボールという作品論であって、作家論的な評にするつもりはない。
とにもかくにも初期のドラゴンボールとはそういう漫画なのである。
亀仙流の修業の内容とは?
前節では、悟空が経験する亀仙人の下での修業について、その目的の特殊性について述べたが、本節ではさらにその修業内容の、特に少年バトル漫画の文脈における特殊性についてさらに論じてみたい。
ただし、厳密な議論をするのであれば、この時点ではドラゴンボールの漫画ジャンルはいわゆる「バトル漫画」と言うよりは「冒険もの」に寄っており、むしろこの修業の後の天下一武闘会編から本格的にバトル漫画ジャンルとなっていった経緯があるのだが、その辺の厳密なジャンル議論は一旦棚上げし、ここでは「バトル漫画」という言葉の指すジャンル範囲をある程度広めにとるものとする。
さて、上述のような経緯で始まった悟空の修業は、連載話数にして5週分、ページ数で言えば単行本3巻の半分近くがその描写に費やされる。
単純な話として、まずこの時点で実はかなり分量が多いという点は指摘しておきたい。
ここ20年程に渡り、幾度となく「最近の漫画の主人公は努力をしない」という漫画評めいたものを見かけた。
読者の皆さんにとっても思い当たる事例は即座にいくつも思い浮かぶであろう。
そうした漫画評もどきに関して言えば事実確認の時点で失格レベルだが、ことドラゴンボールにおける初期の亀仙流の修業に関して言えば、他のバトル漫画と比べて、比較的多くのページが割かれていると言って良い。
ただそれは「最近の」「昔の」と分かりやすい時代性で分断して論じれるようなものではない。
と言うより、何ならドラゴンボール当時の一般的なバトル漫画の方がむしろ「修業」シーンに割かれるページ数は、近年の作品よりも少ないかも知れない。
修業するという事実自体はあったとしても、描写としては「これから修業だ」から次のエピソードで即「修業後」に時間が飛び、その内容については事後的に回想シーンでエピソード補完がなされるというケースが少なくない。
そもドラゴンボール自体、本稿で論じる亀仙人の下でのそれ以外は、そのようなストーリー処理をなされる場合の方が多いと言って良い。
それらの事例に比べれば、亀仙流の修業シーンはバトル漫画としてはかなり長い描写が当てられていると言える。
(ちなみにだが、スポーツ漫画に関して言うと、スポーツ科学的な観点からリアルな描写の進化が進んだ結果、むしろ練習シーンが近年の漫画になるほど増加している傾向すらある)
ただし、単なる連載週数やページ数だけで言えば、ドラゴンボールが極端に突出している訳でもないこともまた述べてはおきたい。
上でも少し触れたが、近年で言えば鬼滅の刃などは1巻のかなりの分量が鱗滝先生の下での修業シーンに当てられているし、同作はそれ以降も何度も印象的な修業シーンが作中にて登場する。
亀仙流の修業について、本当に論じたいのはその内容についてなのだが、分量としても比較的多くのページが割かれている点と、前節で述べた「明確な目的が存在しない」という特殊性とを併せて考えることで、その内容についても理解が深まると考えたので、まずは単純な分量の特異性についてここでは触れておいた。
さて、肝心な亀仙流の中身である。
悟空(とクリリン)が受けた亀仙流の修業は、その大部分が武術色の薄い、地味な体力作り的運動の反復だ。
朝早く起きてジョギングし、その足で牛乳配達、畑仕事に精を出し、土木工事の手伝いをする。
そうした地味さに修業開始初期の悟空とクリリンは不満を漏らすが、そんな2人の考えを亀仙人は一喝する。
元来「修業」「特訓」「練習」と名のつくものは、その大部分が地道な反復に費やされるものである。
が、それでは漫画として「劇」に、「絵」になりづらい。多くのバトル漫画において修業のシーンそのものはバッサリ割愛されて、時間が飛ばされる傾向にあるのはそれ故である。
そうした地味な体力作りを実際に1つ1つ漫画として描き、それだけで1、2エピソード使うという所に、ドラゴンボールの妙がある。(し、まあ言うてドラゴンボールだって一度具体的に描いた後は結局「数ヶ月後」になる訳なのだが)
そして、もう一点つけ加えておきたい亀仙流の修業における重要な特徴が、「覚醒」や「開眼」的なシーンが存在しないという点だ。
多くのバトル漫画の修業シーンでは、何かを契機に切っ掛けを掴み、極意なり奥義なりを習得する瞬間のシーンが多く描かれる。
極論すれば、概して漫画における「修業」シーンとは、本来の修業行為における大部分を成す「起伏の存在しない反復練習」については割愛し、「何かを習得するその瞬間」のみを劇的なドラマとして描くのが常套手段なのだ。
そうした多くのバトル漫画における常套手段がドラゴンボールの(少なくとも初期における亀仙流の)修業では適用されない。
悟空やクリリンはあくまで日々の地道な修業をひたすら繰り返し、自分たちでも自覚しない内に、以前は辛いだけだった修業の数々が、日々の日課として生活に自然体で組み込まれていることを知る。
さて、誤解しないで欲しいのは、私は何もドラゴンボールにおける修業シーンが他の数多のバトル漫画のそれに比べてリアルだとか高尚だとか言いたい訳ではない。
他のバトル漫画における修業シーンの常套手段が、あくまで作劇上の要請によってそうなっているように、ドラゴンボールがそれらと一線を画す修業シーンを描いているなら、それもまたドラゴンボールの作劇との連動で考える必要がある。
そこで前節で述べた「悟空には具体的な修業の目的が無い」という点が重要要素となる。
何らかの到達目標があり、その目標達成の手段としての修業であれば、修業とは主人公にとって克服すべき困難であり、ストーリー上は通過すべき障害物として描かれる。
故にそこには「実際に目標達成が可能になった」というイベント的なシーンが必要になるし、逆説的に言えば、目標さえ達成してしまえば以降は必要無いものとなる。
そうした存在が、バトル漫画のマジョリティにおける「修業」というものの存在だ。
しかし悟空、ひいては亀仙流の場合はそうした類型とは異なる。
数ヶ月後に控える天下一武闘会を「修業の成果を試し、より修業に励むため」とする亀仙流は、修業そのものが目的である。
亀仙流の修業をこなせるような立派な武闘家になるために亀仙流の修業をする、という循環論法じみた理屈の上で行われるのが、悟空たちにとっての修業なのである。
悟空たちにとっての「修業」は、何らかの到達目標を達成するための障害であるかのようなものであってはならないし、目標達成後にはしなくてよくなるようなものでも断じて無い。
だからこそ、悟空たちにとっての修業による習得とは「修業をこなせるようになる」ことそのものであり、そしてそれはカメハウスにおける日々の暮らしと生活の中に、自然体で組み込まれていくものなのである。
逆に言うと、ドラゴンボール作中においても、中盤以降の「新たな敵に対抗するため」に行われる修業には、初期の亀仙流の修業におけるある種の長閑さが存在しない。
悟空の持ち前のキャラクターである程度中和されているとは言え、常にどこか切迫感に包まれている。
「修業」とは言い難いが、特にピッコロ大魔王編での超神水による「短期的な苦行の末に覚醒する」というパワーアップエピソードは、こうした初期の亀仙流の修業描写とは好対照をなすと言って良いだろう。
ただ、ドラゴンボールの場合はシリアス路線な中盤以降であっても、いくつかある修業パートにおいて、多くのバトル漫画では採用されている「覚醒」やら「開眼」やらの演出が基本的には使用されない、という点は特筆しておいて良い。
ストーリーの都合で短期間でのキャラクターのパワーアップが必要な場合にも、潜在能力を引き出す超能力や合体能力、そして超サイヤ人などの特殊なギミックが用いられ(超神水もその類型だ)、作中で修業と称されるものは、基本的には少なくとも数ヶ月以上という長期間の時間経過が重視して描かれる。
数少ない例外の1つに、悟空がナメック星へと向かう宇宙船の中での修業シーンであるが、これに関しても「瀕死状態から回復すると戦闘力が飛躍的に向上する」というサイヤ人の種族特性というSF設定によってエクスキューズされている点は押さえておきたい。
これらを総合して考えた時に、「たかだか数週間や1ヶ月程度の短期的な訓練で人間の能力が飛躍的に上がるはずがない」という鳥山明の根本的な思想について推測するのは、そこまで無理な考察ではないのではないかと思うが、どうだろうか?
悟空は修業から何を得るのか?
本稿ではここまで繰り返し「悟空には修業の目的が無い」という趣旨のと述べてきた。
しかしながら、悟空に無いのはあくまで「具体的かつ明確な達成目標」というものであり、1節ので述べた通り「人生経験」という抽象的なモチベーション自体は強く持っている。
それと同様に、修業そのものが自己目的化されている亀仙流においても、具体的な達成目標自体は無くとも、修業をすることで何を得られるのかについての抽象論に関しては、修業開始時に亀仙人の口からこの上なく分かりやすく述べられている。
それが本稿冒頭でも引用したこのシーンである。
悟空の修業の目的を本稿では「人生経験」という言葉で表現したが、似たような表現の仕方をすれば、亀仙流における修業の目的は現代で言うところの「生涯学習」とでも言えるだろう。
「人生経験」に「生涯学習」、率直に言えば、我々が一般的に想像する週刊少年誌連載の王道バトル漫画のイメージとは大きくかけ離れた2単語ではないかと思う。
卑近な喩え話に置き換えると、亀仙流における修業とは、職業訓練における資格取得の勉強ではなく、公民館で開催されている俳句教室に通ったり、通信講座で絵画やペン習字を習うようなものに近い思想がある。
さて、前節では亀仙流の修業における「日常に習慣化された反復運動が修業描写の主体として描かれている」という点について論じたが、「生涯学習」というキーワードをフレームワークとして単行本2巻を再読すると、亀仙流の修業におけるまた別の特徴が浮かび上がってくる。(と言うよりも、その辺の話題を今節の方でまとめて述べるために前節では意図的に言及を避けたというだけだが)
武道の意義を説いた亀仙人のセリフに表出されている通り、亀仙流とは単なる「拳法=徒手空拳での格闘技術」では無く、それを活用したより良い生き方そのものを学ぶことにある。
だからこそ亀仙人は修業初日の朝に悟空に対して「目上の人への挨拶がなっとらん」と叱りつけるし、国語や算数の授業も修業の一環として行う。(教材が官能小説なのはギャグ描写だとして)
ここまで考えれば、修業の多くがアルバイトを兼ねているのも、単に経済面でも嬉しいからというだけでなく、就労体験・社会学習的な側面もあるように思えてくる。
昼寝と休息が修業のルーチンの中に組み込まれているのも、亀仙流の修業が過酷ではあるにせよ、決して単なる「苦行」ではないことを明示しているように読める。
要するに「良き武術家となるためには、目上の人への挨拶や正しい礼儀作法、規則正しい生活習慣に読み書きソロバンの一通りはできるようになっておかなくちゃならんぞ」というのが亀仙流の基盤思想なのである。
元来、悟空は他の人間たちとの交流も無く、山奥で魚や獣を狩り自給自足で生きていくという生活を送っていた。
人間社会の常識も知らなければ、礼儀やマナーもなってはいない。祖父である孫悟飯の死後、およそ世間一般で言うところの教養というのを学ぶ機会すら悟空にはなかっただろう(それでも最低限文字は読めるのは、幼少期の孫悟飯によるなけなしの教育の賜物だろうか)。
故に、それらの全てを最初に教えてくれたのが亀仙人ということになる。
悟空が亀仙人の修業によって「強く」なったのだとしたら、その本当の意義はおそらくそこにあるはずだ。
こうした亀仙流の思想や修業内容には、長閑で明朗な健全さがあり、そこに独特の魅力がある。
そう、「健全性」こそがドラゴンボールにおける亀仙流の修業パートの魅力なのだ。
大衆の通俗娯楽である漫画作品、しかもその頂点とも言うべきドラゴンボールに対して、「健全」であることをその褒め言葉に使うことに、漫画読みとして一種の抵抗感は自分自身感じるし、近いことを感じる読者も多いのではないかと思う。
が、今のところ私にはそうとしか表現できない。
悟空は亀仙人のもとでの修業で一体何を得たのか?
それは健康な心身であり、礼儀とマナーであり、社会常識であり、一般教養であり、「健全な生き方」そのものなのである。
クリリンは何故勝てたのか?
さて、長い前置きとなったが、ようやく本題のクリリン餃子戦の話である。
と言うか、ここまでの長い前置きを踏まえた上で、クリリン餃子戦がどのように決着がついたかを覚えている人は、私がここから言わんとしていることも既におおよそ察しがついてるものと思う。
クリリン餃子戦が行われたのは、作中では2度目の天下一武闘会である、第22回天下一武闘会の一回戦第3試合のことだ。
この天下一武闘会は、前回の、つまり作中1度目の第21回時とは異なり、大会全体を通じた1つのコンセプトに基づいて描かれる。
すなわち「亀仙流VS鶴仙流」である。
今次の天下一武闘会は、まずその冒頭にて亀仙人のライバルである鶴仙人が、前回大会で亀仙人の弟子らが優秀な成績を残したことを知ったことで、その鼻をあかしてやろうと自らの弟子である餃子と天津飯を大会に出場させ、亀仙人に挑戦状を叩きつける所からスタートする。
本戦では、新たに亀仙人に弟子入りしたヤムチャと、ジャッキー・チュンこと亀仙人本人も加わり、亀仙流の4人と鶴仙流の弟子2人が順番に戦い、その戦いを通して両流派の差別化が繰り返し描かれる。
亀仙流VS鶴仙流の第1ラウンドに当たるのが天津飯VSヤムチャ戦だ。
そこでは本大会におけるいわゆる「ラスボス」である天津飯の強さが演出されると同時に、既に気絶していたヤムチャの足の骨を折り追い討ちでトドメを刺すという、鶴仙流における残忍さが描かれる。
この天津飯VSヤムチャ戦を踏まえた上での第2ラウンドがクリリンVS餃子戦となるが、そこでは第1ラウンドとは反対に亀仙流のクリリンが勝利する。
が、その決着の仕方がかなり独特なものだ。
自分を苦しめる餃子の超能力が、両手を使用していることに気づいたクリリンが、別のことに両手を使わせようと突如初頭的な算数問題を出題し、それに餃子はバカ正直に応じる。
計算が苦手な餃子が指折り数を数えている隙にクリリンは反撃に成功する。
ここから何故か計算合戦が始まり、餃子の出す問題に即答したクリリンが最終的には勝利を納める。
このクリリンの勝利は一体何を意味しているのか?
それは最後のコマの鶴仙人がハッキリと明言している。
「算数の修業もさせておけばよかった……」
そう、つまりそういう事なのである。
鶴仙流の修業の中に算数は含まれていないが、亀仙流では算数も教えている。
それこそが餃子とクリリンの差であり、鶴仙流と亀仙流の差なのである。
途中から何故か計算バトルになるトンチキ展開は、当事者2人の「三頭身のハゲ頭」というコメディリリーフ担当なビジュアルも相まって、他の試合よりもギャグ漫画の雰囲気が強い。
最後の鶴仙人のセリフにしても、構図は典型的な「オチ」のコマである。
が、そこには明らかに本大会通しての重要なテーマ性とメッセージ性が読み取れる。
クリリンが勝利した理由は直接的には餃子との算数の差にあったが、ここで言う「算数」が単なる「計算能力」を指しているはずがない。
おそらくクリリンは餃子に対して、文章の読み書きでも社会科問題でも理科の知識でも勝利できるはずだ。
このエピソードで言うところの算数とはすなわち「教養」に他ならない。
クリリンは餃子に対して、教養の差によって勝利したのである。
今次の天下一武闘会の一連のエピソードでは、貪欲に己の勝利と対戦相手の敗北とを求め、そのためには卑怯な行為にも手を出し、対戦相手どころか観客に死人が出ることすら厭わない鶴仙流の残忍さが繰り返し描かれる。
そして一方で、そんな鶴仙流と「桃白白のような世界一の殺し屋になる」という天津飯の生き方を「つまらん」とバッサリ切り捨て、もっと有意義な力の使い方があると亀仙人は説く。
「殺し屋」という物騒で悪辣な目標自体はともかくとしても、「世界一の◯◯になる」という長期的かつ具体的な目標、つまり「夢」(という言い方を敢えてしておこう)を持った天津飯が悪役側で、「明るく笑ってのんびり暮らしたい」という即物的な理由で戦う亀仙人が主人公側の正しい思想になっている、というのがドラゴンボールの面白い所だったりする。
さて、ここでまたも8年前の拙ブログ記事よりセルフ引用する。
ドラゴンボールの1つの特色として個人的に言及しておきたいのだが、元々ドラゴンボールは感情や戦う理由やらで戦闘力が変化することはほとんど無い。基本的にはイレギュラーが無い限り強い奴が弱い奴に勝つ、という厳然とした戦いのルールが、いくつかの例外を除いて貫かれている。(その数少ない例外が超サイヤ人なのだが、超サイヤ人の印象が強すぎるせいでこの「感情値にバトルの結果がほとんど左右されない」というドラゴンボールの特色は、ほとんど語られることが無い)
このドラゴンボールの特殊性は、そのまま「正しさ」の提示を回避する態度であると言える。
あるバトル漫画において、もしキャラクターが戦いの最中に何らかの感情を理由にパワーアップして、その結果敵を倒してしまったとする。その場合、その時の主人公の感情(思想と言っても良い)は漫画内では「正しい」ものとして提示されてしまう。これは作者の思想信条とは無関係に、そのような演出として読者の多くは受け取ってしまう、という話なのだが、実際多くのバトル漫画ではそうした形で作中内での正義や正しい価値観を意図的に演出していると言って良い。
しかし多くのバトル漫画の定石に反して、ドラゴンボールの場合バトルを通じての「正しさ」の提示に関しては、極めて慎重に避けながら描かれている。そんなだから、「敵を倒すために戦う」ことと「誰かを守るために戦う」こととの間にも、ドラゴンボール作中ではどちらが正しいかの優劣はつけようとしない。
ドラゴンボールにおけるバトルは、基本的には主人公側が善で敵側が悪となるシンプルな勧善懲悪の構図を取っている場合がほとんどだが、その一方でことバトルの勝敗に関しては多くのケースで「正しいから勝った」「悪いヤツだから負けた」という構図にならないよう、かなり慎重な作劇が行われている。
基本的には、バトルの勝敗が道義的優位性と紐づかないよう、結果自体はあくまで作戦や戦闘能力の差によって決されたように描くのがドラゴンボールという漫画だ。
特にこの天下一武闘会ではそうしたドラゴンボールの基本スタンスが鮮明に描かれている。
クリリンVS餃子戦に続く、天津飯VSジャッキー・チュン戦では、途中で自らギブアップし勝ち負けそのものには頓着しない亀仙人のプライドの無さが、勝利にこだわる若き天津飯よりも上等な存在として描かれる。
そして最終ラウンドである悟空との戦いで、天津飯は試合の最中に鶴仙人に逆らい、武闘家としての誇りを選ぶ。
結果的に2人の戦いは、ほとんど時の運と言えるレベルの事象によって、天津飯の優勝で幕が閉じられるが、こうした話運びに関しても段階を踏んで読み解けば、そこには最終的な結果としての戦いの勝敗を、亀仙流と鶴仙流の道義的優位性とは切り離して描こうとする思想のようなものが感じられはしないだろうか。
そして、これらのドラゴンボールの特性を踏まえた上で、翻ってクリリンVS餃子戦の結末を読み直せば、ドラゴンボールという漫画においてこの戦いが如何に特殊なものかが浮かび上がる。
つまり、クリリンVS餃子戦とはドラゴンボールの中でも極めて特殊な(ほぼ唯一と言っても良い)、思想性と勝敗とがストレートに直結したバトルなのだ。
そして、そんな重要なエピソードが表面上はギャグ漫画的な進行で描かれるというのが、とりもなおさず「ドラゴンボール」という漫画なのである。
はい、という訳で以上、クリリンVS餃子戦がドラゴンボールという漫画において如何に重要かつ特殊なバトルであるかという論評でしたが、いかがでしたでしょうか?
ドラゴンボールが世界で最も読まれた漫画の1つであるのは論をまたないところとは思いますが、一方で冒険漫画バトル漫画としてのエンタメ力が余りに高すぎるため、テーマ性やメッセージ性について批評的な文脈で語られることが意外と多くないんじゃないかと思ってたりします(とは言え、この10年ほどでかなり増えてはきたと思いますが)。
そんな訳でこの記事を面白く読んでもらえたとしたら、皆さんもそうした側面に着目しながら改めてドラゴンボールを読み返してみると、また違った魅力に気付けるのでないかと思いますし、是非そうした読み解きについて多くの文章が世に生まれると良いなと思います。
最後にですが、ちょっと宣伝。
不詳あでのい、昨年夏に8年ぶりの同人誌を発行し、現在メロンブックス様にて委託通販の最中であります。
(通販サイトURLもキャプション中に記載してます)
また、非常に直近とはなりますが、3月19日に大阪は心斎橋のライブハウスにてTOMI-TRIBE氏が主催される「トミフェス」に参加し、壇上でのGレコトークをさせて頂く予定です。
『トミフェス』
— TOMI-TRIBE (@drums_hide) 2024年1月17日
トミフェスはとてもいい所だ。
みんな集まってこーい!
・日程 3月19日(火)
・会場 心斎橋 FootRock&BEERS
・料金 ¥2,500
2drinkチケット&ビュッフェ(ほぼ食べ放題)付き
※プラス¥500でソフトドリンク飲み放題
(こちらも2drinkチケット付き) pic.twitter.com/IhoEzPK029
当日は上記の同人誌も持参予定ですので、興味ある方は是非参加頂けましたら幸いです。
いやまあドラゴンボール記事で富野アニメ関係の宣伝してもどうなんだって感じですし、実は下書きで放置状態の「伝説巨神イデオンの1話がいかに素晴らしいか」の記事を完成させる予定もあったんですが、故あって同じく下書き放置状態だった本記事の完成モチベーションが爆上がりしてしまったので、こちらの更新となってしまいました。
という訳で以上! 毎度あでのいでした!
読んで頂いた皆さんに感謝を。 まったねー。