ガンダム Gのレコンギスタ 第十五話感想 ベルリの不殺主義

第15話「飛べ! トワサンガへ」

 トワサンガ目指して航行するメガファウナサラマンドラが、それを追撃するドレッド艦隊との間で宇宙戦争が繰り広げつつ、最終的にはトワサンガへと辿り着くというお話。ほぼ全編MSによる戦闘という非常にガンダムガンダムした回で、「あの」カラーリングのMSが出たり、「あの」単語がキャラの口から飛び出したり、MSの動作音に「あの」SEが使われたりと、オールドファンへのファンサービスが妙に印象的だ。



 冒頭は艦の周囲の宙域にMSが「ネット」を張っているシーン。ネットが何なのかは後々明らかに。
 ラライヤ、アイーダ、ノレドが何かと重要そうな事を話している中に起き抜けのベルリがやって来る。ここの会話で「トワサンガもまたフォトンバッテリーの扱いを巡ってドレット軍とレイハントン家とで分裂気味」という事実が明らかになる。所謂視聴者に対する説明会話なのだが、そうした説明会話の中にも

ノレド 「それでトワサンガは分裂していたんだ」
アイーダ「技術の独占は反対」

と、キャラクターが自分の主義を主張する台詞をサラッと挟んでいる所が流石。作劇の都合による視聴者に向けての会話でなく、あくまでキャラクター同士が喋っているのを我々が覗き見ているだけなのだ。


 またここでのラライヤの「演技」がまた面白い。視聴者にとってはラライヤはもはやお馴染みのキャラではあるが、記憶が回復してからはそこまで強くキャラが立つような描写は無いままだ。何となくお淑やかなイメージがあった所だが、そこに上に示したラライヤの椅子に腰掛ける所作1つがある事で、単純なお嬢さんという訳では無さそうな気配が感じられて、グッとキャラクターに深みが出る。これもまた「半歩分の違和感」という奴だ。

【地球から宇宙へ】

 視点は月のドレット軍側へ。ここで今週のビックリドッキリメカ、MAアリンカトが登場。マッシュナーの台詞から長距離狙撃が可能な兵器である事が分かる。
 そして長距離攻撃と言えば、という訳でGセルフにはアサルトパックが再登場。アサルトパックは現段階ではプラモ発売が唯一決定している大型バックパック。12話では精々顔見せ程度の活躍だったが、出番があれだけで終わっちゃったらどうしようと思っていたので、再登場は嬉しいというかホッとしたと言うか。


 ここでベルリのアサルトパック装備Gセルフと同時に出撃したグリモアパイロット2人、オリバーとルアンの会話がまた面白い。

オリバー「あれ? どっちが上なんだ?」
ルアン 「宇宙では北極星の方向が上。俺らの感覚は関係ないんだよ」

前話までではいくら重力が消失していてもキャピタル・タワーという空間の上下の基準になる構造物が常に画面の端に存在していたのだ。そしてそれは同時に宇宙に出た彼らにとって地球との最後の接点だった。今話で遂に生粋の地球人である彼らは地球という基準を失い前後上下が不覚の宇宙空間に飛び出した事になる。そんな重大な変化が、殆どモブに近い彼らの世間話的な会話の中で処理される。何ともGレコらしいシーンだ。

【宇宙戦闘における距離】

 成り行きで始まる小競り合いのような戦闘シーンの多いGレコだが、今回は12話以来のカッチリした「宇宙戦争」が描かれる。お互い準備が揃った上でヨーイドンで戦闘が始まる。
 こうした戦闘で非常に面白いのが「距離」の取り扱いだ。まず戦艦同士はあくまでお互い目視圏外の距離をとるが、ミノフスキー粒子の所為でまともに長距離攻撃は行えない。そこでMS同士が接近して白兵戦を行う、というのがガンダムの世界観における宇宙戦の基本となる。勿論今話でもそうした基本は徹底されている。お互いにMSが艦から出撃した後、援護射撃として檻砲斉射。その効果を目視で推察しながらMSは敵艦へと接近していく。


 最終的にはMSによる白兵戦へと移行するが、当然両陣営共に、相手と視認距離で接触する前に出来る限り先手を打っておきたい。そこで登場するのがMSに随伴する長距離攻撃用の支援兵器だ(おそらく射程は戦艦の砲撃よりも短いのだろう)。主人公側のGセルフのアサルトパック、月艦隊側のMAアリンカトがそれぞれ該当する訳だ。
 戦艦やMS以外に対象物が存在しない宇宙戦では、下手をすると「中距離から銃を撃ち合うだけ」のような、とかくノッペリとした戦闘描写になってしまいがちなのだが、そこは流石に作り手の年季が違う。攻撃方法の段階的な変化を描く事により、宇宙空間での敵味方の距離を感覚的に把握できるように描かれているのだ。特に今話ではベルリとロックパイがお互いに自分の長距離攻撃の効果を、目視可能な爆発などからある程度推察する、という描写が秀逸。

ロックパイ「直撃したか?」
ドレッド兵「あの爆発、どう思う?」
ドレッド兵「いやに軽いよな」
ロックパイ「確かに。ビームは自己放電させられ、ミサイルは自爆させられている?」

ベルリ「ビームが消えた? 当たらなかったんだ。
    ってことは、こちらがやられるんだ!」


宇宙空間での多対多のロボット戦を描き続けて来て30数年の重みというのをまざまざと感じさせられる台詞である。

【「演技」の為の「道具」】

 今話でMSMA以外のガジェットとして面白いのがビームのバリアに使えるネットの存在だ。戦艦の砲撃も防いでいるので、見た目の頼りないイメージとは裏腹にバリアとしての性能はかなり良いのだろう。
 このバリア・ネットの面白い点は、その存在によってMSの演技の幅が一気に広がっている所だ。単に「メガファウナ側が敵の長距離攻撃を防ぐ為のバリアを張った」という描写の為だけであれば、撹乱粒子などのもっと「それっぽい」SFガジェットなどはいくらでもある。だがそこをより物理的なネットという形状を設定する事で、「MSがネットを大きく広げる為に作業」「破れたネットの切れ端が邪魔になる」「切れ端をMSの手で持つ事で小型バリアとして活用」などといった、MSの「演技」と連動させて演出する事が可能となっているのだ。



 こうした些細な設定1つとっても、物語を見せる上での最大限の視覚効果を得る為にはどうしたら良いのかが考えられている事がよく分かる。

【ノレドとラライヤ】

 その他前半戦で面白かったのはノレドとラライヤの関係性。今話では元祖Gセルフパイロットであるラライヤが遂にMSを乗り回すのだが、ずっとラライヤのお世話係をやっていたノレドはそんなラライヤが心配で仕方無い。しかし記憶も意識も完全に回復したラライヤはもはやノレドの庇護下にある必要は無いので、ノレドが未だにラライヤを心配している様は、視聴者からするとハッキリ言って「出しゃばり」に近い。特にモランで出撃してしまったラライヤに向けて、チュチュミィを抱えながら

「ラライヤ、チュチュミィを忘れていった!」

と大声を出す姿はまさに「子離れできない母親」そのものだ。


 元々MSも乗れなければ機械整備もできない。ブリッジには操舵士もオペレーターも間に合っているので、実はメガファウナの中でノレドは「ラライヤの母親役」以外に特筆できる役割は無かった。となると娘に独り立ちされてしまった母親のノレドは、メガファウナの中ではハッキリした居場所が持てなくなってしまうのだ。いつまでも母親面をしている訳に行かなくなったノレドのこれからが見物であるが、画面の脇で空気になってるのだけは避けたい所である。

【ベルリの不殺主義】

 CM明けてBパートでは、ようやくMS同士の接近戦闘。出だしこそ長距離攻撃用のアサルトパックが邪魔な荷物になり劣勢の気配をチラリとだけ見せたが、Gセルフ単機となってからは前回に引き続き鬼神の如き強さを見せる。アリンカト含め敵機を次々と撃破していくベルリ。



 そんなベルリの姿において今話でやたらと印象的なのが

「死ぬんじゃないぞ。撃っちゃうから!」

パイロットは脱出してよ! 爆発させてないんだから!」

「これ以上僕にライフルを使わせると、皆で死ぬぞって、言ってるでしょ!」

などなどの「不殺主義」を思わせる台詞の数々だ。そもそも以前から(具体的に言えばデレンセンの死の後から)ベルリは元々戦闘時には極力コクピットを避けるように敵MSを攻撃していた事は視聴者には(ある程度注意深く見ている人なら)分かっていた事だ。それを今話になって急に宣言するかのように台詞で強調するようになったのには違和感が無いでも無い。解釈するのであれば、前話で勢いに乗って「ひとつ!」「ふたつ!」とアッサリ人殺しをしてしまった反省の意として、自分に言い聞かせていた、というのが妥当な所であろうか。
 しかしこうしたベルリの台詞とは裏腹に、「死ぬな!」という言葉と共に放たれるGセルフの攻撃によって、画面上では驚く程サクサクと人が死んでいく。そしてさらに驚く事に、その事自体にベルリはほとんど動揺した様子が無い。一見矛盾しているようにも見えるかも知れないが、そこにベルリなりの戦場での倫理ラインが薄らと見えて来る。
 ベルリの言動をよくよく咀嚼すると、ベルリは何が何でも人殺しはしないように戦うという意識ではなく、「なるべく殺さないように頑張るけど、死んじゃった時はしょうがない」程度の緩めの不殺主義に過ぎない事が分かる。このベルリの態度はロボットアニメの主人公の精神スタンスとしては、何ともだらしの無さを感じざるを得ない。もしくは都合の良い態度、とでも言うべきだろうか。しかしながらそれはそれで「戦場で兵器を操る少年」としては正しい処世術の1つではないだろうかとも思う。
 ここで少し過去の富野アニメに触れておく。ZガンダムVガンダムの2つの所謂「黒富野ガンダム」は、双方共に「戦場に子供叩き込んどいて成長物語とか嘘っぱちなんだよ!」という怒りと怨念によって作られていると考えてそこまで問題無い。そしてその結論がそれぞれ「だから狂うしかないよね」というカミーユと、「最初から狂ってないと生きていけないよね」のウッソである、というのが個人的な認識だ。
 そうした2人の歪な主人公像と比較すると、ベルリは自分が人殺しをしているという事実から「なるべき殺さないように努力している」と言い訳する事で適度に目をそらしつつも、その上で戦争をしている自分という存在を、柔軟に受け止めているように見える。
 こうしたベルリのバランス感覚は、おそらくGレコにおけるテーマ、「地獄なリアルを如何に元気に生きていくか?」という問いに対する1つの解答として大きな意味を持つのでは無いかと個人的には考えているが、まだまだ現状では突っ込んだ事は何も言えない段階というのが正直な所だ。という訳で詳しい考察は話数がある程度進んでからまた追々に。

トワサンガ到着!】

 戦闘終了後、クリム、ミックのコンビが久々にメガファウナの面々と接触したり、捕虜扱いされてたリンゴ君が案内役としてサラッとブリッジで寛いでたりとイロイロありつつ、トワサンガのコロニー「シラノ5」へと辿り着くメガファウナサラマンドラ。シラノ5の出入り口へと入港を試みる際にクリム・ニックサラマンドラ艦長が交わした

「ぶつからないのか?」
「まだ3キロあります」

という台詞がまた「宇宙空間での距離感覚」を端的に表現していてSF的に見事。
 別々の港から入港したメガファウナ組とサラマンドラ組だが、サラマンドラ組がトワサンガ軍と思しきMSに捕獲されてピンチになりつつ、一方ベルリらメガファウナ組はラライヤの古巣であるレジスタンスと無事合流。

 とにもかくにもトワサンガへと到着したベルリら面々。あくまで戦争モノではなく「冒険モノ」と銘打たれているGレコだが、この辺りでGレコにおける「旅」の意味する所が見えてきたように思える。
 ここまでのベルリらの旅路を思い返してみれば、「キャピタルテリトリィに向かうぞ!」と決めたその話(9話)の内にアッサリとテリトリィには着いてしまうし、「目指せザンクトポルト!」と宇宙へ飛び出したその次の話(11、12話)にはザンクトポルト着いてしまうし、前々話(13話)のラストシーンで「トワサンガに乗り込みましょう!」と盛り上がったかと思えば、もう今話ではトワサンガに着いてしまったのだ。ロードムービーとしては旅の情緒も達成感もへったくれもない、とすら言える。
 おそれくそれはこういう事だ。目標のある内は深く考えずそれに向かって行けば良い。目的地に向かう最中は楽しく旅を満喫してさえいれば良い。しかし、目的地に到着したなら、次に何をすべきかをまた考えないといけない。とりあえずの目的地に辿り着いたと思ったら、またぞろ大人達がキナ臭い腹の探り合いをしている。その間にアイーダ姫が「月に行っちゃえ!」と言い出すのがGレコの物語なのだ。おそらく、Gレコで重要視されてるのは目的地に向かう事でも、目的地にたどり着く事でもない。大切なのは目的地を定める事、そして辿り着いた先の目的地で、一体何を見て、何を考えて、そして何をなすかという事だ。
 ひとまず今話で辿り着いたトワサンガは、これまで劇中で示されて来た世界観の中では最も遠い場所、すなわち「世界の果て」だ。その世界の果てでベルリ達は一体何を見て何を考えて何をなすのか。
 とにもかくにもトワサンガへと到着し、ガンダムガンダムした宇宙戦争は一段落した所で次回へと続く。

 という訳で、トワサンガに到着した御一行。とか悠長に思っていたら、次回予告では

アイーダさんを姉さんと呼ばなくてはならなくなった」

とベルリ君の爆弾発言。ある程度のGレコファンはそんな事は百も承知なので驚く事など何も無いが、こんな形でネタバレかましてくる姿勢に驚愕すると同時に、Gレコのデコボコ道を邁進する姿勢に改めて感動。
次回はベルリ君が世の理不尽さに晒されるとの事だが、とにもかくにも次回も見る!のだ。