オジュウチョウサン物語 第7章8「消えない足音」

 

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 そして、遂にレースが始まる。
 大方の予想通り、アップトゥデイトはスタート直後から押してゆき、スタンド正面の水濠障害を超える頃には先頭の位置を確保しレースを引っ張る立場に着いた。2番手はこれも予想通りオジュウチョウサン。ここまでは誰もが事前に想定していたレース展開だ。
 
 想定外はここからだった。アップトゥデイトがいつまで経っても大逃げを仕掛けないのだ。
 1周目の襷コース入り口付近でも、2番手オジュウチョウサンとの差はまだ2、3馬身程度。その直後にも4番人気マイネルクロップと8番人気クランモンタナが3、4番手でピッタリと着いている。さらにその後方のニホンピロバロン、シンキングダンサーら一団とも精々4、5馬身差だ。
 暮れの中山大障害では、既に10数馬身の差を後続に付けていた頃合いである。
 いつまで経っても広がらないアップトゥデイトと後続との差に、観客の間に困惑が広がり始める。しかし、一番困惑していたのは誰あろう、アップトゥデイトの背の上の林満明本人だった。
 
(おかしい。後ろの馬の足音がいつまで経っても遠ざからない。こんなにハイペースで逃げているのに……!)
 
 そう、アップトゥデイト自身は紛れもなく、超が付く程の大逃げのペースで逃げていたのだ。そのことに観客の中でもディープな障害ファンらが気付き、そして戦慄したのは、アップトゥデイトオジュウチョウサンマイネルクロップの3頭がほぼ横並びで、襷コースの大竹柵を飛越した時だ。
この時点での通過タイムは1分35秒強。昨年の中山大障害で先頭のアップトゥデイトが大竹柵を通過したのが1分37秒弱である。あの破滅的とも言える大逃げのタイムよりも、この日のペースはさらに1秒以上早いのだ。
 
 石神深一は、ポジション取りの失敗でアップの後ろを取り損ねた結果、厳しい競馬になってしまった前走の中山大障害を、最強馬の鞍上を務める身として内心悔いていた。あの時はゴール前でギリギリ差し切れはしたが、今回も同じことが出来るとは限らない。スタミナ勝負であっても、オジュウはアップに負けていないはずだ。相棒を信じる石神は、今回はどうあろうとアップトゥデイトをピッタリマークすると、最初から腹を決めていた。
 
 覚悟を決めていたのは石神1人だけでは無い。
 前述の通り、この日のオジュウチョウサンアップトゥデイト馬連馬券は1.3倍。これは馬券支持率に換算すると60%にまで達する。GIの馬連馬券としては異例中の異例である。2頭以外の馬は、1着はおろか2頭の間に割って入れるとすら、ほとんど思われていなかったことになる。そんな完全なる脇役扱いの中で、各馬の陣営は静かに燃えていた。
 マイネルクロップ鞍上の山本康志は、何も最初から先頭集団に混じってレースをするつもりではなかった。スタートが今ひとつだったので気合いを入れたらそのまま馬が掛かってしまったのだ。しかし一度先頭まで押し上げてしまった以上、今更抑えても中途半端になるだけだ。こうなったら食い下がれる限り食らい付く。
 腹を括った山本は惨敗覚悟でアップトゥデイトに果敢に競りかける。
 食らいつく覚悟を決めていたのはクランモンタナ熊沢重文も同じだった。オジュウチョウサンを徹底的にマークし、意地でも付いていく姿勢を見せる。
 激しく競り合う4頭の後方でレースを進める馬たちもまた、虎視眈々と勝利の機を伺っていた。3番人気のニホンピロバロンは、連勝街道に乗る直前のオジュウチョウサンを最後に負かした馬であり、2年前の阪神ジャンプステークス(JGIII)ではアップトゥデイト相手にも勝利している。
 鞍上の白浜雄造は「自分の馬が一番強い」と信じてレースに臨んでいた。
 
 言葉などなくとも、「マッチレースになどさせてたまるか」という各陣営の気概が、レースの隊列から如実に発せられていた。2頭の脇役に甘んじるつもりの障害騎手など、この場には1人もいなかった。

 

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*こぼれ話*
 林騎手と石神騎手が多くのインタビューや対談にてレースについてのコメントを残しているのとは異なり、他の騎手の発言記録はかなり少ないので、この回ではその辺をかなり想像で埋めている。具体的に言うと、マイネルクロップの山本騎手はレースについて「自分のミスで掛かってしまった。上手く乗れなかった」としか述べていないので、中盤で腹を括ったという表現は筆者の完全な想像。とは言え、レースを見ると実際途中からは普通に自分からアタックかけてるように見えるので、そんなに外れてはいないんじゃないかなあと思う所。