石神が森林馬道での調教の効果を実感するようになったのは、4歳暮れの中山大障害の頃だ。結果6着に惨敗してはいるものの、トモの緩さが抜け、体の使い方も良くなってきていると石神は感じた。
しかし、オジュウの課題はまだ残されていた。いくら成長の遅いタイプと言っても、馬の5歳は人間で言えばおよそ22歳に当たる。馬体はほとんど完成しているはずで、体作りを目的とした調教ではこれ以上の上積みは望めない。問題はメンタル面だ。
3歳の障害初戦から4歳いっぱいまでのオジュウチョウサンのレースを見てみると、決まった負けパターンが存在していることが分かる。
スタートで出遅れて最後方からの競馬となり、道中は何をしても反応しない。最後の直線で他馬がスパートをかけ始めたのを見てようやく本気で走り始め、ラスト2ハロン程度だけ真面目に走り、申し訳程度に5着前後を確保する。勝ったレースもそのほとんどは、最後のスパートがたまたま先頭に届いただけ、という内容だ。実際にレース動画を見るとほぼ毎レース、スタート直後に「オジュウチョウサン出遅れました」というアナウンサーの実況が聞ける。
石神が言う「30%くらいの力でしか走ってない」とは、オジュウのこうしたレース展開を指していた。
いくら身体が出来てきても、これでは宝の持ち腐れだ。悩みに悩んだ石神は、ここで1つの賭けに出る。
オジュウの問題点は騎手の指示に対する絶望的な反応の悪さだ。レース道中のオジュウは石神が手綱をいくら扱こうが、拍車をかけようが、ムチで叩こうが、ほとんど動きを変えようとしない。
一般に馬がムチで叩かれて走るのは、痛みから逃れようとするからだと思われがちだが、実際に馬に携わっている騎手や調教師らに聞くと、「ムチ程度で馬は痛がったりしない」と考える関係者らの方が多い。ムチの効果はむしろ騎手の「走れ」というサインを受け取っているに過ぎない、という認識が競馬関係者のマジョリティだ*1。
オジュウはそうした騎手からのサインを、ほとんど受け取ろうとしないのである。そこで石神は和田に、オジュウのメンコから耳覆いを外し、「音」により走りを促すことを提案する。
元々オジュウが耳覆いのついたメンコを被っているのは、物音に対し過度に敏感な性格ゆえだった。石神と森林馬道を歩いている時も、鳥が飛び立つ音に驚いて暴れ始めることが何度かあったという。
石神はそんなオジュウの音に対する過敏さを逆に利用することを考えた。手綱どころかムチにすらほとんど反応しないオジュウに対し、最後の手段として舌鼓(舌打ちによる馬への命令方法)による制動を試みようというのだ。
和田にとって、それはまさしく「危険な賭け」だった。単に改善されないだけならまだ良い。音に興奮してレース中に暴走でもすれば、下手をするとそれが癖になり、2度と立て直せない状態になるやも知れない。簡単には了承できなかった。
しかし一方で、転厩初戦、ブリンカーをチークピーシーズに変えただけで、一変して好走を始めたオジュウの姿が和田の記憶の中にあった。
それに、暮れの中山大障害の時に自分自身決意したはずではないか。「何とかしなければ」と。もう他に打つ手は無い。和田は石神の提案を受け入れた。
ただし、単に耳覆いの無いメンコに付け替えるのではない。物音1つで暴れ出す危険性のあるオジュウに対しては、レース直前まで極力耳覆いは被せたままの方が望ましい。そこで、耳覆いの部分だけを簡単に外せるよう接着テープを用いた着脱式の特注メンコを用意した。
2016年3月、5歳初戦の障害4歳以上OPでこの試みが実行される。
効果は絶大だった。敗戦の大きな原因となっていたスタートの出遅れと道中の反応性の悪さが劇的に改善されたのだ。
このレースでは結果こそ負けたものの、前評判の高かったニホンピロバロンに惜しい2着。敗因は自分の位置取りが悪かっただけだ。自分が上手く乗りさえすれば、サナシオン相手でも良い勝負ができるはず。石神はそう考えた。
レース後に負けて帰ってきた石神は、担当厩務員の長沼にまくし立てる。
「ゴメン沼さん! でも手応えは掴んだ! 絶対に大きいところを取れる!」
*こぼれ話*
ニホンピロバロンの2着になった障害OP後の石神さんの心境も、これまたインタビューによって「これなら勝負になる!」から「いきなりGI勝てるとは思ってなかったけど」くらいまで、結構トーンにグラデーションがある。
どうでも良いが、石神騎手がテレビやラジオに出てこの辺の話をする時に実際に舌鼓をやってみせるのだけど、かなり大きな音で素早く「チチチチッ!」と舌を鳴らしており、真似してみたけど全くできなかったので「騎手ってこういうスキルも必要なんだー」と感心した。
*1:競馬関係者らの経験知とは逆に、馬の皮膚には人間以上に過敏な痛覚神経が集まっているという科学的事実も報告されている。しかしその痛覚神経の機能が人間と同様のものなのかには議論があり、どちらにせよ馬自身がムチで叩かれるのをどこまで嫌がっているかについてはよく分かっていないのが現状である。