オジュウチョウサン物語 第4章5「森の中の1人と1頭」

 

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 石神はオジュウチョウサンに毎日のように乗り込み、ゆっくりと競馬を教えていく。上手くできたら目一杯褒めて、悪さをしたらしっかり怒り、機嫌を損ねて暴れ出せば必死でなだめすかす。飽きっぽいオジュウチョウサンのために日ごとに調教メニューを変えるといった工夫もこらした。
 調教師の和田も、石神がなるべくオジュウチョウサンに時間を割けるように調教予定を組むようになった。
 
 そうした地道な調教の日々の中で、石神はオジュウが走るのを嫌がる理由に1つの仮説を立てた。トモ(後肢)の緩さである。
 かねてからトモの部分の成長の遅れがオジュウチョウサンの課題だったが、石神が初めて騎乗した4歳夏の時点でもまだ緩さが残っていた。
 ただし石神が考えたのは、単に筋力が足りないから遅いという話ではなく、体を上手く使えないストレスで気持ちが後ろ向きになるのでは、という推論だった。自分では素早く動こうとしていても、思う程に体が動かない。だから走る気も無くす。これがオジュウの消極性の原因だと石神は考えた。この解消のため、石神とオジュウチョウサンは一風変わったメニューを調教の中に組み込む。
 
 美浦トレセンの北調教馬場のさらに北外縁部に、馬の森林浴用に作られた森林馬道と呼ばれるコースがある。可能な限り自然の樹木を残して作られた、文字通り森の中を通るコースである。
 この森林馬道を毎日の調教終わりに必ず30分間かけて歩かせるのだ。傾斜のきつい下り坂と登り坂、特に湿ったウッドチップが多く脚抜きに力のかかるコースを重点的に常足*1で速く歩かせる。トモの緩さを解消させると同時に、体全体を使って歩くことを覚えさせるためだ。
 
 障害騎手は通常、ある馬の調教が終われば次の馬の調教がすぐに待っている。石神とてオジュウチョウサン以外に何頭もの相棒がいる。常に調教後に都合良く時間がとれるとは限らない。しかし和田は石神の意思を汲み、オジュウの調教の際は必ずこの森林馬道での調教時間を確保できるように、わざわざスケジュールを調整した。
 
 森林馬道の主な目的はあくまで馬のリラクゼーション効果にある。馬体の調教、特に障害馬の調教のために使用するケースは珍しい。事実、ほぼ毎日オジュウとともに森林馬道を歩く石神だが、他の障害馬が騎手を乗せて同じ道を歩いているところには一度も会ったことが無いという。
 そこには1人と1頭だけの世界が形成されていた。

 

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*1:馬は4種類の脚の動かし方をスピードに応じて自在に切り替えながら動くが、その中で最も遅い歩法が常歩。常に2本以上の脚が地面に着く歩法。加速にともない速歩→駈歩襲歩へと切り替わる。普通レース中は常に襲歩