その後、この年12月までのオジュウチョウサンの戦績は以下の通りである。
6月 6日 東京 障害3歳以上OP 4番人気9着
6月27日 東京 東京ジャンプステークス(JGIII) 9番人気4着
7月25日 福島 障害3歳以上OP 2番人気1着
12月 5日 中山 イルミネーションジャンプステークス(OP) 4番人気4着
重賞初挑戦となる東京ジャンプステークスでは4着と好走しているものの、勝ったオオスミムーンからは1秒以上の差をつけられて完敗している。この時点でのオジュウチョウサンの立場は、せいぜい「そこそこやれる2線級の障害馬」程度に過ぎない。
とは言え、それでも1年前の文字通り崖っぷちだった状況から考えれば大躍進である。
オジュウチョウサン4歳最後のレースに陣営は、障害界1年の総決算であるJGI中山大障害を選択する。
中山大障害。日本競馬障害競走における最高峰レースである。
中山競馬場の大障害コース芝4100mで行われ、ゴールまでに高低差最大5mある6つのバンケット(坂路)を登り降りし、11個の障害を飛越する。中でも内馬場を横切る襷コースに設置された大竹柵と大生垣は高さ1.6mにも達し、日本の競馬場における全障害コースの中でも最大サイズを誇る。
第一回開催は1934年まで遡る。創設者は当時の中山競馬倶楽部理事長の肥田金一郎。東京競馬倶楽部が主催する東京優駿大競走、すなわち日本ダービーがこの2年前の1932年に創設されているが、その成功に対抗心を燃やした肥田が「中山競馬場にも負けないくらいの大レースを」との想いで作られたのがこの中山大障害である。
東京優駿が英国のダービーステークスに倣って設立されたのは周知の通りだが、一方の中山大障害は同じく英国のグランドナショナルを範としていると言って良い。「日本ダービー」のように定着こそしなかったが、戦後すぐの競馬雑誌*1を紐解くと「中山大障碍」と書いて「グランドナショナル」とルビが振られたページが見つかる。
98年以前は春秋と年2度ずつ開催されていたが*2、99年のジャンプグレード制導入後、春の中山大障害が中山グランドジャンプと改名されている。
戦後以降で数えても、中山グランドジャンプも含めこの中山大障害コースで141度のレースが行われているが、その内で全馬完走したレースの数はわずか46。日本で最も過酷なレースであり、このレースに勝利することは日本の障害馬にとって最大最高の栄誉となる。
結果から言うと、オジュウチョウサンはこのレースで6着に負けている。
同年春の中山グランドジャンプをレコードタイムで圧勝した「王者」アップトゥデイト。障害デビュー戦を快勝し2戦目でJGIに挑んだ「伏兵」エイコーンパス。入障後無敗で5連勝中、オジュウチョウサンも直接対決で既に2度完敗している「天才」サナシオン。この年の中山大障害はこれら3頭が最終直線を壮絶な叩き合いで競い、4着以下を大きく突き放す名レースを演じた*3。
オジュウチョウサンはと言えば14頭中の6着なのだから十分健闘したとは言えるが、1着のアップトゥデイトからは4秒以上離されており、上位3頭とはほぼ勝負になっていなかったというのが実際の所である。
和田はこのレースで、アップトゥデイトとエイコーンパスとサナシオンの3頭がゴール板を駆け抜ける姿と、3頭がレースを終えた頃になってようやく直線で脚を伸ばしてきたオジュウチョウサンの姿を眺めながら、どうしようもない敗北感に襲われていた。
「オジュウは一生この馬たちには勝てないのだろうな……」
しかしその一方で、だからこそ沸き起こる使命感も同時にあったと言う。
「何とかしなければ……」
そんな思いを胸に、レースを終えて検量室前に戻ってくるオジュウチョウサンを和田は迎えに行った。
9戦3勝2着1回。オジュウチョウサンの4歳はこうして幕を閉じた。
*こぼれ話*
どっかに戦前の中山大障害の記録お持ちの方いらっしゃいませんかね?