オジュウチョウサン物語 間章 障害競走略史

 

目次 前話 次話

 

-----------------------------------------------------------------------

本章はウマフリ様に投稿した内容を減筆修正したものです。完全版は以下のリンクを参照頂けると幸いです。

障害競走略史〜世界と日本、そして〜 - ウマフリ.com

-----------------------------------------------------------------------

 

 

 崖っぷちの落ちこぼれ馬として3歳シーズンを終えたオジュウチョウサンであるが、本章では一旦、オジュウチョウサンの話から少し離れて、日本競馬における障害競走の位置付けそのものについて概観しておきたい。
 
 日本中央競馬のレース体系を大きく分類するならば、概ね以下の5つの「路線」に分けられる。
 主に2000〜3200mの距離のレースからなる「中長距離路線」、1200mのスプリント戦と1600mのマイル戦を中心とした「短距離路線」、芝でなく砂の上のダートコースを走る「ダート路線」、出走馬が牝馬に限定される「牝馬路線」、そして、ハードルや急坂などの障害物が置かれたコースを走る「障害路線」、以上5つとなる。もちろんさらに細かい距離別の分類や、もしくは馬齢ごとなどの異なる分類が必要になる場合もあるが、大枠として以上のような分類をする場合が多い*1
 この5つの路線の中でも最も格が高いのが中長距離路線である。日本ダービーを含むクラシック3冠レースや、天皇賞有馬記念に代表される古馬王道GIレースなど、日本競馬における格式あるレースのほとんどがこの路線に集中している。この中長距離路線を制する馬が日本競馬における頂点に立つと言って差し支えない。近年では長距離と中距離の路線分離化傾向も進みつつあるものの、まだまだ日本競馬においては、この範囲のビッグレースを距離不問でことごとく勝てる馬ことこそが真のチャンピオンホースであるという信仰が根強い。
 では逆に、日本競馬において最も格の低い路線は何か? 個々人の思い入れを排してあくまで客観的指標で見るとするなら、その答えは「障害競走路線」を置いて他に無い。
 
 障害競走の歴史は古く、その発祥は18世紀中頃のアイルランドと言われている。平地競馬が専用の競馬場で統一規則にのっとり行われたのと大きく異なり、当時の障害競走は主に未整備の原野にてクロスカントリー型競走として行われ*2、馬の所有者同士の私的な取り決めによって開催されていた。そのため障害競走では事故や不正が多発し、平地競馬の統括団体であるジョッキークラブ、ひいては貴族社会の主流層からは距離を置かれていたとされている。一方で平地競走には無いその荒々しい魅力は、イギリスとアイルランドを中心として民衆からの熱烈な人気を集め、障害競走は平地競馬とは異なる独自の文化として発展していった。
 現代においてもこの構図自体は受け継がれており、欧州、特にイギリスとアイルランドでは障害競走が絶大な大衆人気を誇る。レースの賞金額で言えば両国ともに平地競走が障害競走を大きく上回っている一方で、馬券売り上げでは障害競走が平地競走を圧倒している。中でも世界で「最も過酷なレース」の異名をとるグランドナショナル*3は、イギリス国内はおろか、全世界でも最も馬券が売れるレースの1つである。一般の競馬ファンを対象とした競走馬の人気投票を行えば、障害馬が上位を独占するのが通例である。
 近代競馬発祥の地である欧州において、平地競馬はイギリス王室も参加する格式高い貴族文化として発展してきたが、障害競馬はそれに対する大衆文化として現代でも高い人気を博しているのである。
 
 日本における障害競走の歴史は、そのまま近代競馬の歴史と重なる。江戸時代末期に外国人居留地にて居留外国人らがレクリエーションの一環として始めた、いわゆる「居留地競馬」が日本近代競馬の源流とされるが、この居留地競馬にて平地競走の中に混じって障害競走がプログラムに組まれていたことが当時記録されている。
 その後、居留地競馬を模倣する形で日本でも西洋式の近代競馬が根付き、1923年の競馬法が成立し競馬が正式な国家公認賭博として認められ、1936年に日本中央競馬会JRA)の前身である日本競馬会が特殊法人として設立されたことで、現在も続く日本競馬の枠組みのおおよそが完成するに至る。
 しかしながら一方で、こと障害競走に関して言えばその発展具合は決して芳しいものではなかった。当時、障害競走は平地競走に比べ極々限られた数のレースしか開催されておらず、わずかに施行されたレースも平地競走のコースに小さなハードルをいくつか並べただけのレベルの低いものがほとんどだったとされている。
 そうした状況を変えたのは、当時の軍部からの要請だった。
 
 そもそも、賭博が原則的に禁止されている日本において早い段階から競馬が合法賭博として認められたのは軍事的理由が色濃い。日清、日露戦争を経て、自軍が擁する軍馬が質・量ともに大陸諸国のそれと比べて大きく劣ることに気づかされた日本陸軍は、平時における馬資源の確保と馬産振興、馬匹改良のために競馬活用を提言したのである。1905年の馬券販売の黙許通達、1906年の帝室御賞典競走の創設、そして1923年の競馬法成立。これら20世紀初頭の競馬振興政策は、軍馬育成こそがその最大名目だったのだ。
 軍馬育成の目的に鑑みれば、単純なスピード能力が求められる平地競走だけでなく、原野の走破能力の選定にもなる障害競走の存在が非常に重要となる*4。当時の陸軍は各地の競馬倶楽部に対し障害競走の拡充を要請した。これを受け、競馬法成立翌年1924年には平地競走の10分の1以下の回数しかなかった障害競走が、1935年には平地競走1075回に対して403回と大幅に増加している。中でも中山競馬場では1934年に本格的な障害コースが完成し、同年12月には現在も続く中山大障害の第一回*5が開催されている。現在、日本中央競馬では計26のGIレースが施行されているが、その中でも中山大障害日本ダービーに次ぎ2番目に長い伝統を持つレースである。
 この時期に日本競馬全体で、障害競走が量・質ともに飛躍的に向上した訳である。
 
 以上のような経緯で発展を始めた日本の障害競走であるが、欧州の障害競走が大衆文化として独自に発展を遂げたのとは欧州の障害競走が大衆文化として独自に発展を遂げたのとは異なり、外部要請により後付け的に加えられた日本の障害競走は、あくまで平地競走の傍流という位置付けから脱することは無かった。終戦後、軍馬育成の名目も失われた障害競馬は、平地競走で勝てない馬達に対する救済措置の受け皿としての役割を担うようになる。一般的な競馬ファンらからは「劣った馬達の出るレース」と見なされ、障害競走人気は減少の一途を辿った。
 1984年の全重賞競走に対するグレード制導入および全国馬券発売開始時も、人気の低い障害競走はその対象から外されており、これがさらなる障害人気の低下を招いた。90年代半ばには、中央競馬約3400レースの内、障害競走数はおよそ130という数にまで激減し、創設当初は東京優駿と並ぶ国内最高賞金額レースとして始まったはずの中山大障害も、その一着賞金は日本ダービーのそれが1億5000万を超えるのを尻目にわずか5700万円に留まっていた。
 馬券の売り上げによって支えられている日本競馬の場合、馬券売り上げの低いレースが冷遇されるのは仕方のないことではある。売り上げが悪いから冷遇され、冷遇されることでさらに人気が下がる。そんな負のスパイラルに障害競走は完全に陥っていた。

 この当時、障害競走廃止の噂がかなりの現実味をもって囁かれていた。競馬人気の高まりにより各レースの出走登録馬の数が増え、出走枠のパンクが問題化しはじめていたのだ。中央競馬のレース数は競馬法との関連があり簡単には増減できない。そこで出走頭数も少なく馬券売り上げも悪い障害競走を廃止し、浮いた分のレース数の枠を平地競走に充てるべきだという声がJRA内で少なくなかったのである。
 1995年、障害競走に輪をかけて不人気だったアラブ系競走が中央競馬から完全に廃止される。これにより障害競走廃止論はいよいよ現実味を帯び始めた。
「次は障害競走の番だ…」
そう覚悟をした障害馬関係者や障害競走ファンの数は決して少なくなかった。その状況が一変したのは、わずか1年後のことだった。
 
 1996年5月、当時のJRA理事長でありアラブ系競走の廃止を決定した京谷昭夫が呼吸不全のため任期中に急逝した。急遽後任に就いた浜口義曠は、理事長職に就くや否や次々と障害競走振興策を打ち出し始めたのだ。
 99年には障害競走に対しても独自のグレード制としてジャンプグレード制が導入され、各種の障害重賞も名称および競走条件の変更により大きく改組された。中でも従来春秋に年2度行われていた中山大障害の内、春のレースが中山グランドジャンプと名を変え*6、障害競走としては世界でも初の国際招待競走となったのは大きなニュースとなった。出走賞金も増額され、中山大障害の一着賞金は前年までの5700万円から8000万円へと大幅に増額された。かねてからの課題であった出走頭数も改善され、2000年には中山大障害が創設以来初めてのフルゲートで行われるという大成功を見た。他にも障害専門騎手・調教師の育成や調教施設の充実などのハード面での長期的な改革案も提言され、数年前まで崖っぷちに立たされていた障害競走はにわかに息を吹き返した。
 しかし、それも長くは続かなかった。障害競走改革元年である99年の9月、浜口は理事長職から退いている。前年のJRA馬券売り上げ低迷の責任を取らされた形である。障害競走振興の流れは旗振り手である浜口がJRAを去ったことで事実上凍結された。グレード制導入により形だけは大きく変わった障害競走だが、実質的な状況は浜口時代以前に逆戻りしたと言って良い。
 
 本章の冒頭部で「日本競馬で最も格の低い路線は障害競走路線だ」と述べた。その根拠が何かといえば、およそあらゆる客観的指標がその事実を示している。現在、ジャンプGI(JGI)である中山大障害および中山グランドジャンプの一着賞金は改革時の8000万円から6600万円まで減額されている。これより低額のGIレースは牝馬限定の2歳GIである阪神ジュベナイルフィリーズのみであり、古馬混合GIで1億を切っているのはJGIの2レースだけである。JRAが発行するポスター等のGI競走一覧でも、中山大障害中山グランドジャンプの両JGIが省略されているケースが多い。毎年季節ごとにGIレースの専用テレビCMが新規に作られるが、JGIのCMが製作されたことは無い。JRAの公式ウェブサイトでは、トップページに通常その週開催の重賞競走が記載されるが、JGI以外の障害重賞はここに名前を載せられない。
 繰り返すが、日本競馬が馬券売り上げによって支えられている以上、売り上げの低いレースが冷遇されるのは仕方ないことではある。2015年を例にとる。全平地GIレースの馬券売り上げの平均がおよそ167億円であり、最高額が有馬記念の416億、阪神ジュベナイルフィリーズが117億である。それに対し、中山大障害中山グランドジャンプがともにおよそ17億円という額面だ。桁が一つ違うのである。例えばの話だが、競馬ファン日本ダービー、もしくは有馬記念の過去の勝ち馬5頭を上げろと尋ねれば、ほとんどのファンが答えられるはずである。しかしもしそこで、中山大障害の過去の勝ち馬を5頭と言われたらどうか。答えられない競馬ファンはかなりの割合になるのではないだろうか。
 
 障害競走をとりまく状況は非常に厳しく、いつまた廃止論が声高に叫ばれるようになってもおかしくない。この状況こそがオジュウチョウサンが進んだ障害競走界の現実である。日本競馬界で崖っぷちに追いやられた障害競走カテゴリーと、その障害競走カテゴリーの中でさらに崖っぷちに立たされたオジュウチョウサン。そんな「崖っぷち」の入れ子構造の中で、オジュウチョウサン古馬生活は始まった。

 

目次 前話 次話

 

*こぼれ話*
 文中で浜口氏の理事長職離職を「売上低迷の責任をとらされた形」としたのは、競馬記者の野元賢一氏のコラム(下記URL)を踏襲しているが、実際のところは正直よく分からない。普通に任期満了だったのでは?とも思わなくも...。
http://parts.nikkei.co.jp/keiba/column/20021124e1hi01i424.html

 ついでに言うと、浜口氏は行った改革の事実だけ見ると障害競走に対する熱意は凄まじいのだが、上記の中山大障害の改称あたりの話を聞くと、特に障害競走に元々思い入れがあった訳でもないようにも感じるので、結局何が浜口氏を駆り立てていたのかが微妙に謎だったりする。

*1:毎年優秀な成績を残した馬にJRA賞が授与されるが、古馬を対象とした部門賞が「最優秀牡馬」「最優秀牝馬」「最優秀短距離馬」「最優秀ダートホース」「最優秀障害馬」の5つである。わずかに例外はあるが「最優秀牡馬」は基本的に中長距離路線の馬が選ばれる。

*2:現在でも障害競走を英語ではスティープルチェイスと呼ぶが、これはこの時代の障害競走の多くが教会の尖塔(steeple)をゴールの目印にしたことが由来とされている。

*3:イギリスのリヴァプール郊外にあるエイントリー競馬場で行われる世界最高峰の障害競走。6900mの距離で行われ、道中の障害数は30にもなる。障害の高さは飛越の踏み切り側こそ5フィート(152cm)と中山大障害の大生垣・大竹柵より低いくらいだが、着地側が6フィート(213cm)という段差状となっており、多くの馬が文字通り墜落するかのように転倒落馬する。出走頭数は40頭という多頭数で行われるが完走率は極めて低く、1984年の23頭が最多完走頭数という凄まじさである。馬券売上は正確な値は伏せられているが概ね毎年400億円程度とされており、この売上に比肩しうるのは世界でも日本の有馬記念のみである。ちなみにハンデ競走でありレース格はG3。

*4:この時、軍からは障害競走拡充と同時に、アラブ競走と繋駕速歩競走の拡充も同時に要請されている。障害以外の2競走に関しては現代では既に日本競馬から消失している。

*5:当時の名称は大障碍特別競走。

*6:名称だけでなくコースも微妙に変わっている。中山大障害では馬場内側の障害コースから最終4コーナー終わりでダートコースを横切りながら通常の芝コースの直線に出てゴールするが、中山グランドジャンプでは2コーナー終わりの残り1200m地点から芝の外回りコースに出る。これに伴いレースの総距離も大障害が4100m、グランドジャンプが4250mと微妙に異なる。また最終直線で置き障害が設置されるのも中山グランドジャンプの特徴である。ちなみに当初は秋の大障害がグランドジャンプになり、春の大障害はスプリングジャンプと改名される予定だったらしいが、伝統あるレース名を完全に無くしてしまうことにJRA内でも大反対があったので今の形に落ち着いたらしい。直線の置き障害の設置は浜口氏の「観客の目の前で飛越を見せるべき」という発案によるものなので、こちらも当初は春秋そろってコース変更する予定だったのではないかと推測される。