オジュウチョウサン物語 第2章6「崖っぷちの競走馬」

 

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 平坦な芝やダートコースを走る通常の平地競走とは別に、コース上の障害物を越えながら走る障害競走が開催されていることは、競馬ファン以外にはあまり知られていない。
 それもそのはずで、日本競馬において障害競走は、平地で勝てない馬が向かう一種の救済措置的なカテゴリー競走として機能しており、その注目度は平地競走に比べて大きく劣る。競馬専門チャンネル以外でテレビ中継されることすら年1、2回あるかどうかというレベルなのだ*1
 
 障害競走を「勝てない馬が向かう」と表現したが、実際にオジュウチョウサンのように完全な未勝利馬が出走する例は、「極稀」とまでは言わないものの、そこまで多くもない。
 いかに障害競走が平地のそれとは異なるものだったとしても、4本の脚でコースを走ることに変わりはないのだ。最低限の走破能力は求められる。実態としては障害デビューする馬の多くは、中央なり地方なりで1勝以上はしていながらも、それ以上のクラスで頭打ちとなった馬たちである。
 
 しかしながらオジュウチョウサンの場合は、通常の未勝利馬とは事情が少し異なる。彼の場合、馬体の成長を待っている内に未勝利戦が全て終わっていたという経緯で未勝利馬なのであって、能力を出し切りながら負け続けていたという訳ではない。
 血統自体は兄が既に証明している。秘められた能力が必ずあるはずだ。そう信じる長山は、一縷の望みを賭けてオジュウチョウサンを障害競走に出走させる。
 
 が、そんな長山の望みは木っ端微塵に砕かれることとなる。このオジュウチョウサンの障害競走デビュー戦こそが、本書の冒頭にて記した「2014年11月15日」なのである。
 
 障害競走は通常の平地競走以上に経験がものを言う。何度もレースを経験することで少しずつ着順を上げていくのが多くの障害馬が通る道であり、入障初戦から素質と才能だけで好走できるような馬はそう多くない。
 しかしながら、いくら初出走とは言っても、この日のオジュウチョウサンのように特に不利やトラブルがあった訳でもない馬が、ただただ遅いというだけでここまでの着差を付けられる例もあまり多くはない。
 
 この絶望的な敗戦を最後に、オジュウチョウサンは3歳シーズンを終える。3歳の冬と言えば、同じステイゴールド産駒のオルフェーヴルであれば既にクラシック三冠を制し、有馬記念でも古馬を相手に完勝したことで日本競馬史に名を残すことが確定されていた頃である。
 競走馬として崖っぷちに追いやられた状況から、わずかな活路を求めて辿り着いたのが障害競走という新たな戦いの場であったはずだが、その障害界でもオジュウチョウサンは、早くも再び崖っぷちに立たされることとなった。
 
 この時点で、入障という長山の選択がオジュウチョウサンの運命を、いやそれどころか日本競馬障害史そのものをも大きく塗り替えることになるとは、長山自身も含めて誰一人として気付いていなかった。と言いたいところだが、実は日本でたった一人だけ、その後のオジュウチョウサンについて少なからず予想していた人物がいる。
 小笠厩舎で本格的な障害調教を受ける前に、オジュウチョウサンは障害飛越の基礎的な訓練を受けるため、千葉県香取市にある北総乗馬クラブへと一時的に預けられている。同クラブ代表である林忠義*2は、当時オジュウチョウサンに訓練をつけながら、周囲に断言していた。
 
「あの馬は中山大障害を勝つ」

 

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*1:そもそも地上波で競馬番組が放送中の15時台に行われる障害競走自体が、2020年現在中山グランドジャンプ以外に存在しない。それ以外では中山大障害BS放送で中継される場合がある、という程度が現状である。ちなみに中山大障害が15時台に行われないのは、時期的に15時台では障害競走をするには影が伸びすぎて危険であるため。

*2:日本の障害馬術の第一人者。日本代表として2度のオリンピック(2000年シドニー、2004年アテネ)に出場した経験もある。