美浦トレーニングセンター。茨城県稲敷郡に位置するこの施設こそ、関西の栗東トレーニングセンターと対をなす、JRAの東日本地区における調教拠点である。総敷地面積224万平方メートルに達する巨大施設の中では、約100名の調教師が所属し、2000頭を超える競走馬が日々調教を受けている。
2014年当時、この美浦トレセンには2人の「和田調教師」が在籍していた*1。3年後に定年引退を迎えるベテラン調教師、和田正道と、開業5年目の新米調教師、和田正一郎。2人は親子である。
父の正道はこれまでに重賞馬9頭を送り出し、美浦の調教師リーディングにおいても上位常連。2004年にはJRA優秀調教師賞が送られている。GI勝利こそ無いものの、安定して勝ち星を挙げる堅実な厩舎として高い評価を得ていた。
2007年の夏にトレセン内でインフルエンザ感染馬が出現し、競馬開催中止にまで発展した騒動時には、マスコミとの窓口役を務めることで混乱の沈静化に一役買っている。美浦トレセンの中でも人望に厚い調教師の一人である。
そんな父を間近に見ながら育ち、幼少期から馬と触れ合う機会も多かった息子の正一郎が、父と同じ調教師の道を志したのはごく自然の成り行きだった。
正一郎は2002年から父の厩舎で調教助手として働き始め、2009年3月には難関で有名な調教師試験に2度目の受験で合格。同年5月に異例のスピード開業を果たす。当時34歳、現役では最年少調教師であったが、父正道も厩舎開業したのは35歳時である。似た者親子だった。
初年度こそ0勝という結果に終わった和田正一郎厩舎だが、2年目以降は安定して毎年2桁勝利を挙げるようになる。形の上でこそ父と子で別厩舎を構えてはいるが、お互いに親子で協力し合いながら馬を育てていった。
一般人が日常で馬に触れる機会に乏しい現代社会では、和田親子に限らず競馬関係者はおのずと「2代揃って」という形になりやすい。そもそも正道からして、さらにその父、正一郎からすれば祖父にあたる和田正輔の経営する和田牧場で生まれ育ったからこそ、調教師の道に進んだのである。
もっとも正道の場合、元々は牧場を継ぐつもりでいたのだが、見聞を広めるために海外の牧場や競馬場を見て回るうちに、牧場主より調教師に強い憧れを持ち実家を離れたという経緯がある。兄を早くに亡くした正道は和田牧場唯一の跡取りだったため、最初のうちは幼い息子の正一郎を眺めながら「こいつが調教師になってくれたらな」と考える程度だった。しかし妻から「自分でなれば良いのに」と言われたことで、正道は調教師の道に進む決意を固める。
父の正輔は当然強く反対したが、正道が調教師として開業し好成績を収めだすとコロリと手のひらを返し、周囲には「俺が息子に調教師になることを勧めたんだ」と自慢しだす始末だったと言う。
ところで、牧場関係者で和田という名前を聞いて、往年の競馬ファンであれば思い当たる方もいるのではないだろうか。無敗の三冠馬シンボリルドルフをはじめ数々の名馬を輩出した、昭和の日本競馬を代表する名門牧場、シンボリ牧場の経営家族の名が和田である。
正輔はシンボリ牧場創設者である和田孝一郎の分家筋の養子である。1947年に和田牧場を創設する以前は、シンボリ牧場の場長を務めてもいるのだ。現在では馬産業からは手を引いており専ら幼駒育成と放牧馬の管理のみを行う和田牧場だが、かつての生産馬からは第1回エリザベス女王杯の勝ち馬ディアマンテを輩出している。
この正輔という男、実は2015年当時99歳という高齢にしてなお和田牧場の代表職に就いており、正道と正一郎の管理馬も、放牧時には和田牧場で面倒を見ている。和田牧場名義で馬主業も営んでおり、この歳になっても所有馬が出走する際には競馬場に足を運ぶほどに元気だというから驚きだ。もちろん所有馬のほとんどは息子と孫の厩舎に預けている。
正輔と正道と正一郎の3人は、日本競馬界でも有数の、父子鷹ならぬ3代揃った祖父父子鷹一家という訳である*2。
さて、そんな和田一家の元に2014年の暮れに、かねてから懇意にしていた一人の馬主から変わった依頼が舞い込んで来た。
「現役馬が4頭いる。正道厩舎と正一郎厩舎とで2頭ずつ管理して欲しい」
転厩受け入れの依頼である。
もうお気付きの読者もいるであろう。この依頼馬主が長山尚義であり、4頭の現役馬の内の一頭がオジュウチョウサンという訳である。
*こぼれ話*
和田牧場の馬産業に関しては本文にあるディアマンテ以外にネットではほとんど情報が無い。netkeibaなどで調べると近年も和田牧場生産馬が走っているというデータが出るのだが、どうも別の和田牧場と混雑しているように思う(というか多分文字列だけで検索してるので、同名の馬主や生産者をシステム上区別できないのだと思われる)。オーナー「和田牧場」もしくは「和田正輔」の所有馬一覧の生産者欄を見る限り、本書の和田牧場に関しては90年代中頃までは馬産を続けていた様子。