シン・ウルトラマン感想-TV版シン・ウルトラマンが放送されてる平行宇宙が多次元世界のどこかにあるんだよ絶対って話

 

えー、地球人の子供は初めて見た「ウルトラマンを倒した怪獣」を宇宙最強怪獣だと思い込んでついていっちゃう習性があるなんて言いますが、私の場合はバードンです。
毎度ブログではお久しぶりのあでのいです。
 
やー、見てきましたよシン・ウルトラマン
大変満足でしたねえ。特に……おっと、これ以上はネタバレですね。個人的主義としてはネタバレ忌避した視聴体験が普遍的に最上な鑑賞方法だみたいな世間の風潮なんかクソ食らえだくらいに思ってたりするんですが、それはそれとして注意喚起です。
 
という訳で以下、ネタバレバリバリ感想なのでご注意下さい。
あと変換がめんどくせえので、以下文章では全部「科特隊」「怪獣」「宇宙人」で通すのでよろしく。

 

 

 

メフィラス星人がヤバい良かったんだよ」って話

まず良かった所というか、気に入った所から。
 
まあ一番は何と言ってもメフィラス星人ですよね。元々私「ウルトラシリーズの宇宙人で一番好きなのどれ?」って聞かれたらメフィラス挙げるんすよ。まあ言うてしっかり全話見てるシリーズなんて片手で数えるくらいだから偉そうなことは言えないんだけど。
 
初代ウルトラマンで出てくるメフィラス星人って、まあぶっちゃけ今の目からすると「紳士名乗りつつ割と気短くて小物っぽい」とか「優雅に人間相手にゲーム仕掛けたと思ったら割と軽率に暴力」とか、ツッコミ所は沢山あるんだけど、なんつうの、「地球人類の上位存在であり侵略者ではあるが、確実に彼の立場なりの敬意を地球人に対し持っており、彼らなりのルールに基づいて筋自体は通す」って魅力がある訳ですよ。
だもんで、シンのメフィラスって何かもう言動から立ち振る舞いに至るまで、完全に「これ俺の好きなメフィラス!」って感じのメフィラスが顕現してて本当最高だったんですよね。
 
でまあ、そもそも原典のメフィラスってのが元々からして、「地球のように戦争もなく何千年も平和な素晴らしい星が宇宙には沢山ある」と地球人のサトル君に言いながら、「宇宙から眺めていたら、美しい地球と地球人の君のことがどうしても欲しくなったんだ」とか言う奴なんすよね。
だもんだから、人類の愚かさと不完全さもまた彼には親愛の対象なのだ、みたいな感じの解釈は100%正しいんすよ。
 
なので実はメフィラス星人もまた「そんなに地球人が好きなったのか」な宇宙人な訳なんだけど、そこで「なので自分の管理下のもとで安全に保全したい」と考えるメフィラスと「だからこそ彼らの未来は彼ら自身の手に委ねたい」と考えるウルトラマンの対比みたいなのがまた良いんですよね。「対」の存在って感じで。
メフィラスって元々「あのウルトラマンと互角以上に戦いながら、自ら戦うのを止めて去っていった」っていう凄え格高キャラで、その辺がやっぱり好きだったので、メフィラスがウルトラマンとの「対」として描かれてるのってスゲー嬉しいんすよね。
 
でまあ、ぶっちゃけこういう気に入ったとこ細かく挙げてくとキリが無くって、それくらい満足したはしたんだけど、今回この記事で言いたいことのメインは実はそれとは反対の話だったりする。

 

F91が好きなんすよ」って話

実はスゲー満足した反面、割と不満な気持ちも結構大きかったってのも正直なとこだったりします。
で、それが何かって言ったら、これもう既にいろんな人が似たようなこと言ってると思うんだけど、シン・ウルトラマンってなんかスゲー「総集編」っぽいんだよね、作りが。
いや元々私自身は総集編映画って結構好きなんですよ。富野ファンだってのも勿論そうだし、出崎アニメの映画版とかも凄え好きだし。 
なんだけど、シン・ウルトラマンの総集編っぽさって、映画作品として見た時に正直割と悪い意味でが強いんすよね。
 
総集編映画っつっても、別にストーリーが駆け足すぎて分かりづらいとか、設定に矛盾が生じてるとか、そういう話は特に無い。
むしろストーリーに関しては全く過不足なく仕上がってて、よくもまあ2時間映画にきれいにまとめたもんだって感心するくらい収まってると言って良いと思う。
ではじゃあ何が「悪い意味で総集編っぽい」のかって言ったら、ストーリーでなくキャラクターのドラマの部分なんですよね。
(ここでお前は「ストーリー」と「ドラマ」をどう定義分けして喋っとんのかとかツッコまれると若干答えに窮するんだが、まあ勢いで伝われ)
 
一般論なんだけど、アニメにせよ実写にせよ、TVシリーズ作品より絶対的に時間の制約が大きい映画作品の場合、なにを描くにせよ「セリフの断片から背景にあるストーリーや画面外のドラマを想像させる」ってのがかなり重要になる。
 
で、いきなり違う映画の話に飛ぶんだけど、私『ガンダムF91』が凄え好きで、印象に残ってるシーンに最序盤でアーサーが死ぬとこがあるんすよね。
そこのシーンでシーブックがアーサーの亡骸抱えて
「こんな時にお前みたいな奴がいてくれないと……」
「だってよ、アーサーなんだぜ……」
って言うじゃないですか。(記憶だけで書いてるんで正確なセリフは微妙に違うかも分からんが)
 
あそこのシーンって別にアーサーの死の悲しみを視聴者も一緒に共有するシーンって訳じゃないんですよね。
なんでかって言ったら俺らアーサー君に何の思い入れも無いから。そもそも最序盤シーンでアーサーのキャラクターなんて一切描写されてませんからね。
普通は味方側のキャラが死ぬストーリーやるってんなら、まずそのキャラの良い所を描写して視聴者側にも愛着を持たせた上で然る後に殺すんですよ。そうすることで、視聴者も主人公の悲しみを共有できるって寸法よ。
のはずなんだけど、『ガンダムF91』のアーサーの死はそうはなってない。
  
じゃあこのシーンって何の意味があんのかっつったら、直前まで学園祭のミスコンでウェイウェイやってた陽キャっぽいシーブック君が、友の死に際してこういうセリフを言う。そうすることでで背景となる2人の人となりと、これまでのキャンパス生活に無限の想像の広がりが生まれるんですよね。
シーブックは「お前みたいな奴が」って言うけど、実際アーサーがどういう奴だったのかは我々に向けては描写されてはいない。描写されていないんだけど、だからこそ「どういう奴だったのか?」を想像させるセリフになってる訳なんですね。
そこには「引き算の作劇」の巧みさと美しさがある。
 

 

「描写足りとらんくない?」って話

で、翻って『シン・ウルトラマン』なんだけど、どうもそういうのが微妙に足りてないと言うか、むしろ重要シーンのドラマの多くが、それまでの描写の積み重ねがあって初めて活きてくるようなセリフで構成されてて、その上でその「描写の積み重ね」が足りてない、そんな印象が結構あるんですよね。
 
例えば中盤くらいでザラブ星人に捕まった神永を浅見が助け出した上で強烈なビンタお見舞いするじゃないですか。
そこでなんかスクリーン上は浅見ってゆーか長澤まさみが「バディに裏切られていたショックと怒り」みたいな演技をしとる訳なんですが、見てる俺らからしたら「いやまだ君ら初対面からほぼほぼ進展してなくなかったか?」みたいに置いてかれてる感が正直ある訳ですよ。
この辺に関しては、上で書いた「ストーリー的には過不足も矛盾も無く見事にまとまってる」ってのがむしろ悪い方向に機能してる気がしてて、ストーリーに過不足が無いせいであんまし「画面に見えてない所で話が実は結構動いててキャラクター間にも色々ドラマがあった」みたいな想像がちょっとしづらいってとこがあるんすよね。
 
これは神永=ウルトラマンにも同じことが言えて、ぶっちゃけ「そんなに人間を好きになったのか」ってゾーフィの驚きセリフ、「俺も同じこと思った」って感じなんすよね。
いやお前そもそも地球人類全体はおろか科特隊のメンツに対してすらほぼほぼコミュニケーションとらず資料室引き篭もっとったやんけ。お前の対人類愛むしろ9割5分がた書籍情報だったりせーへんか?? なんならメフィラスさんの方がむしろちゃんと人間達と積極的かつ密接にコミュニケーションとってた疑惑まであんぞ。
的な。
 
なのでその辺率直に言うと、正直『シン・ウルトラマン』、かなり描写の諸々が足りてない映画だなって感じなんですよね。
 
で、その辺の感想をもうちょいリアルタイムに映画見ながら頭の中に浮かんでた言葉で表現するんと「TVシリーズで見たかったな〜〜」になるんすよね。
なんかこの映画って、まず「死ぬほど面白くて不満のつけようもない最高のウルトラマンリメイク」が成功したTVシリーズが先行して存在してて、それの「重要エピソードを巧く繋いで上手いこと映画にしてるし、短くまとまっててサクッと見れるのは良いけど、やっぱりちゃんと見るならTV版だよ」ってファンから言われる感じの総集編映画っぽいんですよね。
 
だから多分さ、元のTV版が1時間番組1クール構成のドラマだとしてさ、「遊星から来た兄弟」が6話くらいに配置されてて、その前に「神永と浅見がなんだかんだ凸凹コンビとして案外上手くやれてる」的な雰囲気が数話分かけて醸成されてたんじゃないかなって思うんすよ。
神永の方にしても、多分怪獣も宇宙人も出てこない科特隊の日常回があったんじゃないですかね? そういう日々の積み重ねで科特隊で過ごす日常に愛着が生まれてくはずっつう。 
なんだけど映画の方だとその辺が描写されてないし、「描写されてない」以上に「そもそも設定上の時系列的にそういう時間自体が無かったろ」って感じなんですよね。
 
TLで伝え聞くところによると「劇中の人類愚かすぎひん?」みたいな感想もあるらしいっすけど、それも本来は「頭が硬く実情が見えてない上層部」と「現場の人間たちの努力と絆」との対比、みたいなごくごく普通のお約束王道展開があったんだけど、後者部分の描写がオミットされてるせいで、ストーリーにガッチリ関与してる前者部分だけが浮き上がってるってとこあるんでないすかね?って。
 

 

ゼットンっていうのはさあ」って話

でまあ、この辺の問題が地味に終盤展開にも結構響いちゃってる印象はあって、そもそも「ゼットン」ってどういう存在かって言ったら「あの、あのウルトラマンが……! 為すすべもなくやられていく……!」っていう、もう圧倒的な絶望感の化身な訳じゃないですか。
けど、その絶望感って何に起因してるかって言ったら、ウルトラマンに対する絶対的な信頼がバックグラウンドにある訳ですよね。んでもって、そのウルトラマンへの信頼がどこで醸成されるかと言ったらどう考えても「毎週毎週町を襲う怪獣や宇宙人から僕らを守ってくれる」という、日常に組み込まれた週一のTV放送があるからで、それによってウルトラマンっていうのは我々のささやかな幸せの日々を守ってくれる正義の味方になってる訳ですよ。
そうやってウルトラマン劇中の一般市民と我々画面の前の視聴者が一体化してくんですよね。
「来たぞ」「我らの」「ウルトラマン」ってのはそういう事な訳じゃん。
 
そこから考えると、『シン・ウルトラマン』のウルトラマンって、あんましそういう存在じゃないというか、言ってしまうと「来たぞ」「我らの」では無いよねって。
多分あの世界の普通の一般市民的には他の怪獣や宇宙人と同じ箱に入ってるでしょ。そもそも市民はゼットンの脅威自体知らされてなかったし。
ウルトラマンを「僕らの味方」と認識してたのって精々科特隊の面々くらいであって、その辺「背負った人々の想い」が狭くて、神性の宿らせづらさみたいなのを正直感じたなっていう。
 
ウルトラマンですら手も足も出ないあんな化け物相手に、ちっぽけな僕ら人類が何か出来る訳ないじゃん!」っていう滝君の絶望(@イデ隊員)とそこから希望を見て立ち上がる辺りのドラマとかスゲー良かったし感動したんですよ。
なんだけど、その辺のドラマも滝君一人の個人ドラマとして描くのやっぱりちょっと勿体無くなかったかなって思っちゃう所があって。
絶望を滝君の絶望でなく、地球人類全体レベルの絶望として描いた方が、そっからの希望を胸に立ち上がる展開も含めてもっと高い所の盛り上がりになったんじゃないか?みたいな心残りがあるんですよね。
 
まあそういう感覚があったので、見てる間は「多少特撮やCGとかショボくて良いから、TVシリーズで見たかったな〜コレ」って気分が1、2割くらい抱えながら見ちゃってたなって。


 

「で、タイトルになる訳だよ」って話

でまあ、ここまでその辺の話を不満点として述べたは述べたんだけど、なんか一方で不満点として捉える自分とは別に、架空のTV版の存在を貫通して感じさせてくれるような作りがそれはそれで気に入ってる自分も結構いるんですよ実は。
 
冒頭に「既に今まで怪獣3、4体出現して何とかかんとか人類だけで撃退してます」ってダイジェストがあったじゃないですか。そこで多分結構な人間が「そっちの話も見て〜〜〜」ってなったと思うんですよ。
アレって何かって言ったら、要は『シン・ウルトラQ』がしれっと存在してたことになっとるやんけwって話じゃないですか。
私自身はなんかその「しれっと存在してたことになっとる」ってのに、なんか妙にグッと来てるとこがあったりするんすよね。
 
既にtwitter上ではもう「神永浅見バディ感皆無」問題とか「ウルトラマン人間の何が好きになったのかよく分からん」問題とかが割と活発に議論されてて、そこでは「そもそもこれこれこういうテーマの話だからこれで良いんだ」って感じの解釈遊びが結構そこかしこでなされてますよね。
勿論私自身、そういう批評遊びって自分で書くのも読むのも好きだし、実際割と「エンタメとしてシンプルな快楽原則からは外しているかも知れないが、だからこそ語るべきテーマが描かれているのではないだろうか」的な批評書くことも多いので、それはそれで面白いとは思うんすよ。
 
ただね、なんか『シン・ウルトラマン』についてはあんましそういう事する気分になれなくって、俺はこの映画に「描写が不足気味のデコボコな映画」であって欲しいなって気持ちがあるんすよ。
批評解釈で「一見デコボコっぽいけど意図通りであって実はちゃんと舗装されてる」って論ずるよりか、見たまま描写不足のデコボコな映画として自分の心の棚に飾っておきたい。
 
TV版シン・ウルトラマンが放送されて大人気を博して日本中がウルトラマンフィーバーを起こした、そんな平行宇宙が多次元世界のどこかにあるんですよ絶対。で、その世界で公開された総集編映画を、たまたま俺らは見ることが出来たんですよ。
なんかそんなふうに想像すると、ニヤニヤしちゃいません?
映画単体の感想としては不満点ではあるのだけど、個人的にはその解釈が凄いシックリ来てて、それなりに自分で気に入ってたりするんすよね。
 
だからぶっちゃけ本音で言えば「もっとちゃんと総集編映画っぽくツギハギ感出してくれてたらもっと好きになれたのに〜」くらい思ってるまであるし、庵野秀明が「総集編っぽくならないように気をつけた」ってインタビューだかで言ってるって聞いて「やっぱり避けようとした結果か〜」みたいにちょっと残念に思ってたりする訳なんですが(笑)。
そういう意味で言えば、私は新劇エヴァ序を最初に見た時なんか「拠点防衛式で1話完結型のロボットアニメの総集編が、完全新規作画とは言えちゃんと1つの映画になってる! 凄えや!!」って感動したもんなんですけど、ちょうどそれの反転になってますよね『シン』。
 
 
 
という訳でまあ長々と感想書いちゃったりした訳なんですが、結局今日俺が何を言いたかったと言うとですね?
原典未見で『シン・ウルトラマン』を気に入った連中は即刻「禁じられた言葉」を見て「あ〜まああくまで当時の子供向け番組だしね…w」って作劇のリアリティラインに多少苦笑いしながら、ちゃんと原作時点で『シン』のメフィラス星人のエッセンスが存在してたのを確認して「お〜なるほど〜!」って感動しろって、ただそれだけの話しなんですよ。
え?そんな話してない? うるせえしてたんだよちゃんと話聞いてろ。


という訳で以上。取り急ぎ『シン・ウルトラマン』感想でした。
まったねー。