毎度ブログの方ではお久しぶりのあでのいです。
突然なんですが、先日twitter上でこんなツイートを見かけたんですよね。
『遊戯王初心者』に対して『初心者に教えたい人間』が多すぎるがために具体的な初心者像が見えずに『初心者に教えたい人間』同士が自分の中に作り上げた架空の初心者像を元に勝手に口論始めてるようにしか見えないんだけど
— ぺぴゃ (@pepyadon) 2022年1月24日
『遊戯王上達したいマスターデュエルから始めた初心者』どこにいるんだ?
まだ上達したいってほど嵌った訳ではないが起きてる事の意味は分りたいぐらいの初心者は結構居るんじゃない?
— neoMIO㌠ (@MIOzockNEO) 2022年1月25日
私自身はあんまし遊戯王そのものには興味無いんですが、こういう需要って遊戯王に限らず結構あると思うんですよね。
で、特に漫画やアニメの題材になってる何らかの競技に対して、「別に競技に精通する必要は無いが漫画読む上でルールや基本戦術は知っておきたい」って感じてる漫画読みって割といるんじゃないかな?と思う訳です。
まあ私自身、例えば『ヒカルの碁』とかはあんまし囲碁のこと分からずとも楽しく読みましたし、「良い漫画は題材になった競技の細かいルール分かんなくても楽しめる」って言われる事もあって、その通りだとも思うんですけど、やっぱり一方である程度ルールについて把握してた方がより楽しめるってのも確かなんですよね。
で、そう考えた時に、特に需要ある競技って何だろう?って思ったら、多分「野球」と「麻雀」の2強なんじゃないかって思うんですよね。
なんでかって言ったら、
・ジャンルとして作品数が多くて、漫画好きなら読んどけって言われるような人気作や名作も多い。
・基本ルール自体が複雑(先にゴールしたら勝ち、ゴールに球を入れたらポイント、とか見れば分かるようなルールじゃない)
・1ジャンルとして定着しすぎてて、大半の作品では読者はルールを最初から知っているものとして描かれている。
って3要素が揃ってるのが「野球」と「麻雀」だと思うんですよ。
で、私のtwitterのフォロワーの皆さんはもうご存知だと思うんですけど、ここ1、2年私あでのい、久々に麻雀熱が再燃しまくってるんですよね。
という訳で今日はタイトルにもある通り、麻雀知識ゼロの初心者の人のために麻雀ルールを、麻雀漫画を楽しむために必要な分”だけ”に特化して紹介してってみようかなーと思う訳です。
なので、これから麻雀始めたいって人がこの記事を読んでも麻雀打てるようにはビタイチならないので、そういう人はもっと他のWebページを参照しましょう。
また、既に麻雀知ってる人にとっては全く必要無い記事になるんですが、逆にそういう人は「自分なら何を教えようか?」と考えながら読むとそこそこ楽しい記事になるんじゃないかなと思います。
基礎編
1. ゲームの基本構造
さて、まず麻雀というのは一体どういうゲームなのでしょうか?
ものすごーく簡単にゲームの基本ルールを説明すると、
「プレイヤー4人がそれぞれ13枚の手札をまず用意し、山札から札を1枚取っては不要な札を1枚捨てるのを繰り返し、最も早く特定の上がりの形を完成させたプレイヤーの勝ち」
というゲームです。ここで麻雀において使われる札のことを「麻雀牌」「牌」と呼び、山から牌を取ることを「ツモ」「ツモる」と言います。この2単語は覚えておきましょう。
13枚の手牌から1枚ツモった状態で上がり形を完成させるので、上がり時の手牌は14枚となります。この上がり形には様々な種類の役が存在しますが、基本的には以下のような「3枚1セット×4+2枚1セット」の形で構成されます。
(オンライン麻雀ゲーム『雀魂』のチュートリアルより)
この3枚1セットのことを「メンツ」と言います。日常用語でも何かの集まりの時に「メンツが揃う」「メンツが足りない」と言ったりしますが、その語源はここから来ています。また1セットだけある2枚セットのことを雀頭と言い、「アタマ」や「ヘッド」と言ったりもします。
この「4メンツ+1雀頭」を完成させるのが麻雀というゲームの基本骨子であり、もちろん麻雀漫画を楽しむ上でもしっかりと覚えておく必要が全くありません。
別に「雀頭って何だっけ?」「メンツって3つ?4つ?」な状態でも麻雀漫画を楽しむのに支障は一切きたしません。
あくまで覚えておくべき事は
「麻雀は順番に牌をツモっては捨てツモっては捨てを繰り返し、上がり形の完成を目指すゲーム」
という基本構造だけです。
本記事の目的は「麻雀を打てるようになろう」ではなく、あくまで「麻雀漫画を楽しく読めるようになろう」です。
正確な手牌枚数やメンツ数なんて覚えておかなくても構いません。
手牌10枚だろうが15枚だろうがいくらでも勘違いしておきましょう。
2. 上がり役と点数
麻雀の基本的なルールについて学んだ所で、次に学ぶのは上がり形とその際の獲得ポイントです。
上がり時の獲得ポイントはそのレアリティに応じて決まり、当然ですが上がり形がレアなものであればあるほど高ポイントになります。
ルールによって定められた種々の上がり形を「役」と言い、ローカルルールによって多少変動しますが、日本麻雀では約40種の役が存在します。
もちろん、麻雀漫画を楽しむ上でその全てを覚える必要はありませんが、上がり役こそが麻雀における「ゴール」である以上は、平和や断么などの基本的な役についてせめて10種類くらいは覚えておく必要がビタイチありません。
主人公がどんな役で上がろうが、物語上で重要なのは「上がった事」そのものとその際の獲得ポイントのみであり、役の種類自体はドラマには大して関与しません。キャラクターが大ゴマにキメ顔で上がっていたら「何か凄い良い感じの役が作れたんだな」くらいに思っておけば十分です。上がり役が何だったかを気にする必要はほとんどありません。
ただし、40近くある役の中でもたった2つだけ(内1つは厳密には役ではないので、正確にはたった1つだけ)、物語におけるドラマ構築に深く影響するものがあります。それについては後述いたしますが、逆に言えばそれ以外はどうでも良い訳です。
もう一度くりかえますが、麻雀漫画を読む際に役を覚える必要は一切無いのです。
一方で、獲得ポイントについては多少知っておいた方が良いでしょう。
以下が麻雀における点数表です。
(Wikipediaより)
誰かが上がった時にその上がりがどのくらいゲーム全体に影響するのかを知っておくのとおかないのとでは、漫画内の盛り上がりの追体験精度がかなり変わります。
という訳で、この点数表の全てを頭に叩き込む必要はありませんが、麻雀漫画を読む以上、せめて半分くらいは覚える必要が当然ながら一切合切ありません。
そもそも役を覚える必要が無いのですから、細かい点数表の意味など分かるはずが無いです。
とは言え、点数のおおよその相場感は知っておくに越した事はありません。
そこでザックリと覚えておいた方が良い情報を出しておくと
・最弱の上がりが1000点
・大部分の上がりは12000点以内
・最強の上がりが48000点
このくらいになります。
とりあえずこの3点を押さえてさえおけば、漫画内で描写された上がりがおおよそどの程度の威力を持つものなのか把握できます。
劇中で誰かが上がりを決めた時、それが1000点や2000点なら「左ジャプが上手く決まった」程度に、12000点なら「渾身の右ストレートがクリーンヒット」くらいに思っておけば大丈夫です。32000点や48000点の上がりならギャラクティカマグナムやブーメランテリオスです。
ただし、必ずしも正確に覚える必要はありませんが、ちょっとした注意点として、ポイント申告のセリフが「〇〇オール」なら獲得ポイントは 〇〇×3 に、「〇〇、△△」と続けて数字を2種類言った場合は獲得ポイントは 〇〇×2+△△ になります。
何を言っとんのや?と不思議に思われるかも知れませんが、細かい話はまた後述します。
なお、この点数計算もローカルルールにより多少変動します。
特に青天井ルールと呼ばれる超インフレルールでは場合によっては億を超える点数を加算することが可能で、ルール上の理論値は237穰点にまでなるそうです。意味が分かりませんね。
3. 局数と親番
次に説明するのが、ゲーム全体の進行です。
基礎編1では「先に上がり形を完成させたプレイヤーの勝利」と書きましたが、実はこれは正確な表現ではありません。上がり形を完成させて勝利するのはあくまで複数ある対局の内の1局のみで、実際には決められた回数対局を繰り返し、最終的な獲得ポイントでゲーム全体の勝敗が決まります。
具体的には前半戦を「東場」、後半戦を「南場」と呼び、それぞれ4局の計8局で1ゲームとなります。
このゲーム構成は覚えておくと良いと思います。今行われている1局がゲーム全体のどの辺りなのかを理解しているのといないのとでは、シチュエーションの理解に大きく差が生まれます。
野球が9回制だと知らずに野球漫画を読むようなものだと思うと分かると思います。
例えば劇中で「東2局」と書かれていれば「まだゲームは始まったばかりだ」と理解すれば良いし、逆に「南4局」と書かれていたら「最後の1戦が始まった」と認識すれば良い訳ですね。
また、特に最後の南4局を「オーラス」と呼ぶことも多々あります。この言葉も覚えておくと良いですね。
ここで「親」と「子」についても説明します。各局において4人のプレイヤーの内の1人が「親」となり、それ以外の3人は「子」になります。
つまり、東場南場各4局制というのは、各プレイヤー2度ずつ親の番が回ってくるという事な訳です。
親と子でゲームのプレイ自体には全く差はありませんが、親は上がった際の獲得ポイントが子の1.5倍になるという特典があります。また、親が上がると局は進行せず、親番が継続されます。そのため「1ゲーム計8局」と書きましたが、実際には概ね10局以上になることがほとんどです。
つまり、親番はプレイヤーにとってポイント大量獲得のチャンスであり、そのため漫画においても逆転劇に使いやすい訳です。
もしも劇中で「南3局終了時点で主人公のポイントは最下位。次のオーラスは主人公の親番」というシチュエーションが描かれていたら、「ゲーム最終盤で大ピンチ! だけど最後に逆転のチャンスがまだあるぜ!」というシーンになる訳です。要するに「3点ビハインドで迎えた9回裏。打順は1番から」ですね。
ちなみにルールによっては東場だけ、つまり親番1巡の計4局で1ゲームとする場合もあります。通常の2巡制ルールを「半荘戦」、1巡ルールを「東風戦」と呼びます。
劇中のゲームがどちらのルールで進行しているかに注意しておきましょう。
余談ですが、元々本来は東場と南場だけでなく西場北場も含む4巡計16局で1ゲームだったそうですが、時代と共に短時間化したそうです。だから「半荘」というんですね。
さて、基礎編は以上で終了です。これでとりあえず麻雀というゲームの基本構造は理解できたのではないでしょうか。
ここまでの知識だけでもとりあえず麻雀漫画を楽しむ上でおおよそ「どういう状況か」というザックリした認識は可能になるのではないかと思います。
次の発展編ではさらに話を広げて、麻雀のより細かいルールを、特に「物語上のドラマに直結」する部分に焦点を当てていくつか紹介していきたいと思います。
の前に、個人的趣味で間章を1つ挟んでおきます。ここは直接には麻雀ルールの話では全く無いので、読み飛ばして頂いても構いません。
読み飛ばす方はこちらから飛んでください。
間章 漫画の題材としての「競技」の性質
日本では現在300誌以上の漫画雑誌が日々刊行されている。少なめに見積もって1誌あたりの作品数を10作と考えたとしても、3000を超える漫画作品が連載されている計算になる。昨今ではWebサイト上での連載作品も数多く存在しているため、その総数はさらに跳ね上がるはずである。
正確なパーセンテージは分からないが、そのうちの多くの作品が、実在する何らかの「競技」を題材にしていることは動かしようの無い事実であろう。
過去の作品も含め、日本漫画において最も重要な「競技」が何かと言えば、それは野球を置いて他に無い。古今東西、名作と呼ぶにたる野球漫画の例は枚挙にいとまが無い。
野球が何故それほどまでに漫画の題材にされているのか?
単純に言えばそもそもの日本における野球人気が極めて高いからが最大理由であろう。野球が日本に広り早稲田大学と慶應大学の野球部によるいわゆる早慶戦が始まった20世紀初頭以降、一貫して野球は日本における最大人気スポーツの座に君臨し続けている。
そんな野球が漫画の題材としても人気が高いのは、当然と言えば当然である。
が、しかしながら一方で、むしろ野球漫画で多くの名作が世代問わず継続して生まれ続けたことが、逆に野球人口を維持してきたという面も確実にある。野球漫画に憧れて野球を始めた少年達が、日本には各世代に大量に存在しているのだ。
瞬間的に大ブームを起こしたスポーツは戦後いくつも存在するが、これほどまでに名作傑作をいくつも生み続けた競技は野球以外に存在しない。本質的に野球は漫画の題材として非常に相性が良いのである。
野球と漫画の相性の良さについては、下記にある傑作エントリーに詳しく論評されているので興味をもった読者の方々には是非読んで頂きたいが、とにもかくにも実在競技を漫画の題材にする場合、その内容の質は、競技自体のルールと構造に極めて強く影響を受けるのである。
(この傑作エントリーが発表されて10年経ってもブクマ数がわずか4、twitterでも一度もまともにバズった事が無いという事実に個人的にずっと納得いっていなかったりする)
何らかの競技を「物語」化するには、その競技中に一定以上プレイヤー間の「応酬」が存在する必要がある。「攻防」と言っても良い。
プレイヤー同士の攻めと守りの応酬があるからこそ競技の起伏と戦術性が生まれ、そしてそこに人間ドラマを乗せる事を可能とし、ゲームを「物語」化することができるのである。
逆に言えば、この「応酬」が存在しない競技、本質的に「自分との戦い」が主体の自己完結型競技というのは、普遍的に物語化が難しくなる。競技中に発生させれるドラマがおおよそ「個人の内面問題」にしか使えなくなるからだ。
例を挙げると、レーン制の陸上競技がその最たるものだろう。
最近では100m走を題材にした『ひゃくえむ。』という傑作漫画があるが、この漫画にしても人間同士のドラマ部分は概ね競技の前後に配置されており、「100m走」という競技の最中は概ねモノローグで構想されている。
短編漫画一本程度ならともかく、連載漫画において短距離走の競技そのものをドラマ化することはほぼ不可能と言って良い。
ちなみに、本作を読んだことのある人なら分かると思うが、作中で最も競技中にドラマが発生していたのは中盤で描かれた部活対抗800mリレーである。
オープンレーンによる進路取りとペース配分の戦術性や、走者が交代することによるプレイヤー同士のコミュニケーションと絵的な起伏の存在が、100m走と比べて圧倒的に競技の物語化を容易にしていることが分かる。本来主題でないはずのこのシーンで最もドラマが発生しているという事実が、逆説的に100m走の漫画にしづらさを物語っていると言っても良い。
余談だが、レース競技の中でも競馬の場合、レーンフリーの上に「馬」という大型動物を使用するために他プレイヤーが物理的に進路取りの邪魔になりやすく、常に全力疾走する訳ではないからペース配分も重要な上に、動物である以上そこまで緻密にペース配分できないという諸々の要素が、競馬を高度に対人競技化させてる、という話も出来たりする。
そして、本来そのような意味で対人(人?)競技であるはずだった競馬を、「自分一人(一頭)だけ自分の最速ペースで先頭を走り続ける」という戦法によって、単なるタイムアタック競技に変えようとした、というゲームルールブレイカーな所にサイレンススズカの特異性とロマンチシズムがあったと言えるのである。
閑話休題。
上記の理屈に基づく「漫画に向かない競技」は、陸上短距離走以外でも、他プレイヤーに基本的に邪魔されえないタイムアタック競技や飛距離競技など全般は軒並み該当し、アーチェリーや弓道、ボーリングのような「的当て」系の競技もほぼ同じ話が言える。
これらの自己完結型競技を題材にした漫画が如何に少ないかは周知の通りであろう。
細かい話をすれば、どんな競技でも他プレイヤーとの競い合いの構図を取れば、何がしかの対人要素が大なり小なり生じはするものの、本質的な「応酬」と「攻防」の有無は、物語の題材として使いやすいか否かにダイレクトに影響するのである。
ただし、本質的に「応酬」の存在しないゲームであっても、擬似的な「応酬っぽい何か」がある程度存在すると一気に物語化がしやすくなるという話もある。
例としてはゴルフが分かりやすい例で、ゴルフの場合もボーリングやアーチェリー同様、本質的に自身のプレイに他者が介在しない的当て競技の一種ではあるが、「的から近い人から順々に打つ」「的に近づくごとに求められる能力が変化する」といった辺りの要素によって、競技全体を通して起伏と緩急が存在しており、それらを擬似的に人間同士の「応酬」であるように見せかけることがある程度できる。
ゴルフ漫画は自己完結型競技の中でもかなり数多くの作品が存在している例外的ジャンルだが、その理由にはこれらの特異性が影響しているのではないだろうか(もちろん単純に、ゴルフが「社会人の趣味」として広く浸透しており、莫大な競技人口を擁していたという点を無視することはできないが)。
さらに話を無軌道に広げるが、この辺りの話をした時に、ジャンル漫画として面白いのが料理対決漫画だ。
料理対決も基本的には自分が作れるベストなメニューを用意すれば良いので、そういう意味では本来漫画の題材、特に「対決」を主軸としたストーリーには向いてないのだが、数多ある料理対決漫画では、ありとあらゆる手を使って「キャラクター間の応酬」が成立するようなバトル要素を料理漫画に付与している。
この辺は中でも『鉄鍋のジャン』が相当やりたい放題やった感があり、「しまった!目を離した隙にアイツめなんて料理を!」のようなセリフで、料理中にさもリアルタイムで何らかの応酬をしてるふうな雰囲気出すのには流石に笑ってしまったりした。
「対人的な応酬があるように見せかける」というのは、物語の題材のしやすさ云々の話から離れて、そもそもの「ゲームの魅力」の話にそのまま直結する部分がある。
特に「実力を競い合う」のでなく「勝った負けたでワイワイ盛り上がる」ことが主目的のパーティーゲームの場合は顕著であり、プレイヤーができるだけ平等に楽しめるよう偶然性を高めることで勝者と敗者を固定しないゲームデザインが求められる一方で、プレイヤー自身に「自分で主体的にプレイしている」気分にさせる必要がパーティーゲームにはあるのだ。
極端な話をすると、分岐無しスゴロクという全てがサイコロの出目だけで決まる純然たる運ゲーが、何故「サイコロ1回振って出目が大きい方の人が勝ち」という単純ゲームよりも楽しいのか?という話になる。ゲームの構造としては本質的にこの2つの間に差異は無い。
この話題に関連して個人的に大変気に入っている動画がある。高学歴超頭脳集団youtuberを謳うクイズノックのメンバーが、何らゲーム性の無い坊主めくりで大盛りあがりするという内容だ。
開始時に「めっっちゃ運ゲーじゃん」「山札積んだこの時点でもう順位決まってるんだよね?」と言いながら、ゲーム進行するに従ってどんどん盛り上がって行く様には、パーティゲームの本質が詰まっている。
話題がかなり拡散した感はあるが、とにもかくにも何らかの競技を物語の題材に使用するにあたって、かように「攻防と応酬の有無」は重要なのである。
さて翻って麻雀の話である。
賢明な読者であれば既に思い至っているかも知れないが、基礎編までで説明した分のルールの範疇だけで言えば、麻雀は典型的な自己完結型競技である。
他プレイヤーの捨て牌を読むことである程度の対人要素を見出すことはできるが、単に「できるだけ高い点数の役を出来るだけ早く完成させる」という話なのであれば、そこに攻防も応酬も存在はしない。
では麻雀とは本来「漫画にしづらい競技」なのか?
もちろん否である。
麻雀は基礎編で説明したゲームの基本構造に対し、いくつかのルールが加わることによって、劇的に高度な対人ゲームとなっているのである。
以降の発展編では、それらの重要ルールに焦点を絞り、麻雀がいかに攻防と応酬が存在する対人対戦型ゲームと化しているかについて詳しく説明していく。
発展編
1. 放銃一人払い
さてではいよいよ発展編です。
まず最初に、基礎編では省略しましたが、ポイント獲得システムの重要点について説明します。
通常の球技などでは一般的に、ゲーム開始時はゼロ点からスタートし、ゲームの進行と共にポイントが無から生成され加算されていくシステムが採用されています。
一方で麻雀の場合はこれらの一般的な点数システムとは異なり、ゲーム開始時に全プレイヤーが均等に一定数のポイント(通常ルールでは25000点が一般的)を有し、上がった際の獲得ポイントは他プレイヤーの持ち点から移動する形で得られます。
ゲーム中における全プレイヤーのポイント数は常に一定のゼロサムゲームという訳です。
このポイントシステムを踏まえた上で覚えておくべき超重要ルールが、上がりには「ツモ上がり」と「ロン上がり」の2種類が存在しているという点です。
基礎編で「山から牌を取ることをツモと言う」と説明しましたが、ツモ上がりは読んで字のごとく、上がり牌をツモで引き当てることで手牌を完成させる上がり方です。
「というかそれ以外に何があるんだ?」と思われるかも知れませんが、実は麻雀では特定の条件で他プレイヤーが捨てた牌を自分の手牌に使用することが可能なのです。
その「特定の条件」の1つが「上がり形が完成するまで残り1枚」の状況です。この「上がり形が完成するまで残り1枚」の状態を「テンパイ」と呼びます。この言葉も覚えておくと良いでしょう。
ちなみにテンパイすることを「テンパる」と表現する事も少なくありませんが、日常用語としての「テンパる」もここから来ています。テンパイして「もう少しで上がれそうだぞ!」とソワソワしたり焦ったりする様子から転じたようです。
閑話休題。
テンパイした状態で他プレイヤーが上がりのための最後の1枚を捨てた場合、プレイヤーはその牌で上がることができます。この上がり方を「ロン上がり」と言う訳です。
ここで最も重要なのは、ツモ上がりとロン上がりでのポイント獲得システムの違いです。
獲得ポイント数自体はどちらの方法で上がっても、役に違いさえなければ同一です。では何が違うかと言えば、ツモ上がりでは他プレイヤーが均等にポイントを支払う一方で、ロン上がりでは上がり牌を捨てたプレイヤーだけが1人で全ポイントを支払う羽目になるのです。
なお、ツモ上がり時のポイント申告は自分が受け取る総ポイントではなく、他プレイヤーがそれぞれ支払うポイントを申告します。基礎編2で「〇〇オール」と表記されたら獲得ポイントは 〇〇×3 になると説明しましたが、これは「3人から〇〇点ずつ貰う」という意味になります。
さらに細かい所を正確に言うと、ツモ上がりで点数を均等に支払うのは上がったのが親の場合だけで、子がツモ上がりした際は親が半分のポイントを支払い残りの子は4分の1ずつ支払うという形になります。上がり時に「〇〇、△△」と続けて数字を2種類言った場合は獲得ポイントは 〇〇×2+△△ になるとはそういう意味です。△△が親の払う点数で〇〇が子の点数ですね。
ちなみに上がり牌を捨ててしまい他プレイヤーにロン上がりされることを「放銃」と言います。重要単語なので是非覚えておきましょう。
さて実は、このロン上がり一人払いルールこそが、「高得点の上がり形を最速で完成させる」という各プレイヤーごとの自己完結型ゲームだった麻雀に、「守備」「防御」という概念を生成し、麻雀を対人対決型ゲームにさせているのです。
一体どういうことか?
例えば他プレイヤーが親で18000点という高得点の上がりを華麗に決めたとします。
それが自分の捨て牌によるロン上がり、すなわち自分の放銃によるものであれば自身も丸々18000点の失点となりますが、ツモ上がりであれば自分のダメージは3分の1の6000点にまでおさえられます。
それどころか他プレイヤーが放銃してくれようものなら、親が18000点というアバンストラッシュ級の必殺技を繰り出してきたにも関わらず、自分自身はノーダメージでやり過ごしたことになる訳です。
そのため、麻雀では単に自分が上がりに向かうだけでなく、他プレイヤーの動向を伺いながら敢えて自分の手牌を崩してロン上がりされないような牌を捨てたり、上がり効率を多少下げてでも安全そうな牌を余分に持ちながらゲームを進めるといった、放銃を回避するための立ち回りが重要となります。
時には上がりを完全に諦めた方がトータルでは得になる局面も大いに存在する訳です。
これは放銃一人払いルールが無ければ成立しません。相手がツモ上がりをしようがロン上がりをしようがどちらにせよ自分自身が失点してしまうのなら、ほとんどの場合は自分自身が先に上がろうとしてしまった方が得になります。
放銃による一人払いが圧倒的に損だからこそ、自身の上がりを捨ててでもそれを回避しようとする事に利得がある訳です。
すなわち麻雀とは、放銃一人払いルールがあることによって初めて、「自分の手牌を完成させる」という攻撃的打牌と、「相手に放銃しない」という防御的打牌との応酬が行われるゲームに変貌するのです。
物語上の役割で言えば、対戦相手が上がった時、ツモ上がりは「レースで相手が自分より先にゴールした」というようなものですが、それに対しロン上がりは「サッカーで自陣のポストにゴールを決められた」くらいの違いがあります。
ロン上がりのことを俗に「直撃」と言ったりもしますが、点数を直に奪い合うことになるロン上がりは、物語上ツモ上がりと比べて圧倒的にキャラクター間での直接的なダメージ描写に繋がる訳です。
そのため、麻雀漫画においては「勝負のケリがつく重要な上がりのシーン」では多くの場合ロン上がりが用いられます。ロン上がりこそがキャラクター間での格付けに直結する上がり方だと言えるでしょう。
もちろんそうでない場合も少なからずありますが、やはり「ライバル同士の決着」のようなシーンでは、ツモ上がりに比べて圧倒的にロン上がりが用いられている印象があります。
お互いが自分の手牌を自分のツモのみで完成させるだけでは、麻雀は決して「物語」化されえない訳です。
麻雀漫画を読んでいて、もしライバルキャラに「ツモ!」と言われたなら「クソッ、先を越された!」というシーンであり、主人公の捨て牌に「ロン!」と言われたなら、顔面に拳を見事に叩き込まれて「ぐはあああああ!」と吹っ飛ばされているシーンなのだと思いましょう。
(実際には「ロン」と正しく発声せず「それだ」「当たりだよ」「御無礼」とか言ってることも漫画の中では多かったりしますが、現実にやるとマナー違反になるので注意しましょう)
2. フリテン
ロン上がりと放銃一人払いルールを学んだところで、次に知っておくべきルールが「フリテン」です。
ただ、フリテンルールを正確に知る必要はありません。特に正確に理解しようと思うと、文章で説明するにはちょっと複雑な所があるので、ルールの理解自体はザックリとで構いません。
本当に知っておくべきなのは、フリテンルールが麻雀のゲーム構造にどう影響しているかについてです。
さてではそのフリテンルールとは何なのかですが、ザックリ説明すると、
「一度自分が捨てた牌ではロン上がりはできない」
というものです。
実際にはもう少しルールは複雑で、「一度捨てた牌」そのものだけでなく、捨て牌に関与する形で他にもロンできない牌が発生しますが、とにもかくにも「ロン上がりができない牌がある」という点が重要になります。
一度自分が捨てた牌が上がりの待ち牌になっており、ロン上がりできない状態のテンパイのことを「フリテン」と言う訳です。
このルールの重要な点は、麻雀における防御の価値を飛躍的に向上させることです。
と言うのも、仮に放銃を回避するために安全そうな牌を捨てるにしても、その安全性が不確実なのであれば自分の手牌を崩してまで防御する価値があるかどうかが微妙になるからです。
自分の手牌が上がりに向かえそうなら、「どうせ守備に回ってもロンされるかも知れないし」と守備を捨てて攻撃一辺倒になってもおかしくありません。
しかしこのフリテンルールがあることにより、防御の確実性が大幅に増大します。
何故なら相手の捨て牌エリアを見れば、そこには絶対にロンと言われない100%安全な牌が並んでいるからです。
フリテンルールの効果はそれだけではありません。
上述の通り、安全牌となるのは直接的な捨て牌だけでなく、捨て牌に関与してさらにその範囲が広がります。当然ながら普通はフリテンになるのを避けてテンパイ形にまで持って行こうとするため、捨てられた牌から「この牌でのロン上がりは無い」という推測がかなり高精度に行えるようになるのです。
防御をする上では相手の手牌の形状を推測することが重要となりますが、その際に「捨て牌」が非常に有力な情報源となります。捨て牌から相手の手牌を読むことで、麻雀は高度な推理戦としての側面を持ちうるようになります。
このため麻雀における捨て牌は、公式戦は元より市井の雀荘においても、どこにどう並べるかが厳密に定められています。
またさらには、相手が捨て牌を読んでこちらの手牌を推理するのであれば、それを逆手に取って相手を騙すような迷彩を捨て牌に仕掛けるという、心理戦的な要素も付与されます。
もちろん、上がり形を完成させるためには必要な牌を残し不要な牌を捨てるのが基本戦略となるため、フリテンルールが無かったとしても捨て牌はある程度の情報源にはなります。しかしながら、フリテンルールによって捨て牌から得られる情報の信頼性が飛躍的に向上し、それによって麻雀の推理戦・心理戦要素が強化されているのは紛れもない事実なのです。
かつて福本伸行が『賭博黙示録カイジ』において利根川のセリフを通じて看破したように、推理戦・心理戦ゲームとはある意味ではプレイヤー同士の究極のコミュニケーションと言えます。
相手の手牌を読むという行為は相手の思考を読むことであり、相手の内面を値踏みする行為と重なります。
ブラフを仕掛けて放銃を誘い込もうとする行為は、お前をぶちのめしたいというメッセージを叩きつけることと同義なのです。
麻雀漫画における読み合い、読ませ合い、化かし合いは、キャラクター同士の濃密なコミュニケーションでありドラマなのです。
こうしたキャラクター間のドラマを演出しているのが、何を隠そうフリテンルールに当たる訳です。
3. リーチ
基礎編2で「約40の役の中で麻雀漫画を読む上で重要な役は2つしかない」と述べましたが、ここではその内の特に重要な1つについて説明します。
それこそが「リーチ」という役です。
何故か? それはリーチが麻雀役の中で唯一能動的な役だからです。
そもそも「山からツモって役を作る」というゲームルールの基本構造上、麻雀役とは本質的に受動的に完成するものです。
場合によっては局数と点数状況や、捨て牌による残り牌数の推測に基づき、主体的能動的に特定の役を作ろうと手牌を整理することもありますが、そんな場合であっても最終的に役が完成するかどうかは山のみが知っていることであり、人間の意思ではなく受動的な偶然によって完成するのが麻雀役なのです。
それに対し、リーチはその役を完成させるかどうかの最終決定権が純然たるプレイヤーの意思のみによって決まります。
約40ある麻雀役の中で、リーチとは唯一プレイヤーの主体的意思によって成立する能動的な役なのです。
ではその「リーチ」とは一体どんな役なのでしょう?
簡単に言うとテンパイ宣言のことです。
手牌がテンパイ形、すなわち「上がり形が完成するまで残り1枚」の状態となった時、プレイヤーが高らかに「リーチ!」と声に出して宣言することで成立するのがリーチ役です。
このリーチ宣言はテンパイしたからと言って必ずしなくてはいけないものではありません。つまりテンパイ時に「リーチ!」と宣言してリーチ役を成立させるかどうかは、プレイヤーの最終的な判断に委ねられている訳です。
リーチのメリットはいくつかありますが、最も大きなメリットは「獲得ポイントの増加」にあります。
当然リーチそのものが役なので、リーチを宣言するだけで役レベルが1段階アップしますが、それだけでなくリーチに付随していくつかの複合役が存在しており、場合によってはリーチをかけるのとかけないのとで獲得ポイントに10倍近い差が生まれることもあります。(ピンヅモ1500点がリーチ一発裏々がつけば12000点になる)
そのため基本的にはテンパイしたなら概ねリーチ宣言する方が得な場合がほとんどだと言われています。
しかしながら、逆にデメリットも沢山あります。
1つは他プレイヤーを警戒させる効果です。
リーチは他プレイヤーに自分がテンパイした事を宣言する訳ですから、当然ロン上がりできる可能性が極端に低下します。
他プレイヤーが上がりを目指して攻撃的に打っていたなら捨てられていたはずの自分の上がり牌が、リーチ宣言を聞いて防御に回られたことにより止められてしまう、という状況が起きる訳です。
このリーチ役というルールにより、麻雀というゲームにおける防御の価値がまたさらに向上します。
フリテンルールの説明時に「放銃回避が重要と言っても防御の安全性が不確実なら攻撃一辺倒になりがちになる」と述べましたが、リーチルールにも似たようなことが言えます。
つまりリーチが無いと、「放銃に危険な牌と言ってもそもそも相手がテンパイしてるかどうか分からないんだから気にせず打っちゃえ」という理屈でこれまた攻撃一辺倒になってしまう訳です。
リーチという役があることにより、確実に相手がテンパイしていることが分かるようになるため、攻撃から防御に切り替える判断の価値が大きく向上するのです。
放銃一人払いルールにより攻撃だけでなく防御という選択肢が重要となることで麻雀に攻防の応酬という対人要素が加わり、そこにフリテンルールが加わることで、防御の価値がさらに向上すると同時に、推理戦・心理戦的要素が増大しました。
そして最後にこのリーチ役の存在によって、麻雀の対人ゲーム化が完成したと言っても過言ではありません。
概して言えば、これら「放銃一人払い」「フリテン」「リーチ」の3つのルールが揃うことにより初めて、本来の基本構造が自己完結型ゲームであり対人要素があくまで付加的なものだったはずの麻雀が、攻撃と防御のバランスが求められる対人対戦型ゲームと化しているのだと言えるのです。
また、リーチのデメリットにおいてもう1つ重要な点は、リーチを1度してしまったら、その手を上がりきるまで2度と手牌のテンパイ形を変化させることができなくなるという点です。
つまり、リーチ宣言をしたが最後そのプレイヤーは、さらなる手牌強化が見込めそうな牌をツモろうが、どんな危険な牌をツモろうが、それが上がり牌でないならその全てを強制的に捨てなくてはならなくなるのです。
手牌強化の将来性も防御の保険も全て捨てて、リスクを背負って宣言するのがリーチという役なのです。
すなわち、麻雀漫画において主人公が「リーチ!」と宣言する時、それは未来への甘い願望を断ち切り、敵からの反撃に無防備になることへの恐怖心を捻じ伏せ、今その瞬間に手の内にある手牌と心中する決意を固めた、覚悟完了のシーンになる訳です!
麻雀漫画を読む上で何故リーチのみが数多ある役の中で重要なのか?
それはリーチが、キャラクターの意思と感情の発現として描ける唯一の役だからなのです。
もちろん、他の役にしてもキャラクター間の過去の因縁や思い出を描写し、種々の文脈を乗せることでドラマを描けはしますが、あくまで競技そのものの範疇だけでドラマツルギーを生むことができる役はリーチだけなのです。
ちょっと長めの引用になりますが、私が最も愛好している麻雀漫画で、本記事でも度々画像引用している『鉄鳴きの麒麟児』の1巻から数ページ抜粋します。
(1連のシーンとして紹介したかったのだけど、流石に連続した7ページの引用はマナー的に厳しいか?)
リーチが持つ作劇上の重要性が理解できるのではないでしょうか。
ちなみに余談ですが「リーチ」という言葉は日常用語としても頻繁に使われますが、実は麻雀用語の方が語源です。英語のReach(到達する)と発音が同じで意味も似ているため誤解されがちですが、れっきとした麻雀用語であり、漢字で「立直」と書きます。
日常用語で使う「リーチ」は「あと一手でゴールor勝利」「優勝まで残り一勝」などの状況を指すことが多く、将棋の「王手」に近い意味で使われますが、麻雀におけるリーチは正確にはそうした状態そのものを指すのでなく、その状態になってから「俺はここから手を変えない」と宣言することを言います。
我々が普段日常的に口にする「リーチ」は語源の麻雀に沿うのであればむしろ「テンパイ」の方が意味的に近く、語源的に言うなら「テンパった」と言い換えるのが実は正しい表現になるのです。
4. 裏ドラ
最後にもう1つだけ紹介しておきたいルールがあります。
ここまで説明した「放銃一人払い」「フリテン」「リーチ」に比べると重要度はかなり下がりますが、リーチに次いで物語に影響を与える役が1つだけ存在します。
厳密には「役」ではないのですが、それが「裏ドラ」です。
「裏ドラ」の前にまず「ドラ」そのものについて説明する必要がありますが、麻雀は対局開始時に山に積まれた牌の内、1つだけ表にして全員が見れるようにします。
この牌を「ドラ表示牌」と言い、この牌の「次の牌」を持っていると、それだけで上がり時に獲得ポイントが増加します。その牌を「ドラ」と呼びます。
ドラは上がった時には1役として機能しますが、ドラ牌そのものが上がり役にはならないため、上がるためには必ず他の役が必要となります。ドラが「厳密には役では無い」とはそういう意味です。
(ここではドラ表示牌が「二萬」という牌ですが、この場合は次の「三萬」がドラ牌になります)
このドラですが、リーチをかけて上がった時に限り、ドラ表示牌の下の牌が新たなドラ表示牌になります。
上がった際、ドラ表示牌下段の牌を裏返して、対応するドラ牌を手牌に持っていればさらに獲得ポイントがアップするという仕組みです。この時に追加されるドラのことを「裏ドラ」と言う訳です。
この裏ドラは、対戦相手はおろか上がった本人、それどころか公式対局であれば審判や観客ですらゲーム進行中は知ることのできない、麻雀において最も不確実な役です(繰り返しますが厳密には役ではないのですが)。
裏ドラの開示は「リーチ者の上がりが決まった後」という、1局の内でも最後の最後で行われます。
そのため麻雀漫画では、裏ドラは「最後の希望」として、また「奇跡の逆転劇を起こす鍵」として多用されます。
言うなれば麻雀漫画における裏ドラをめくるシーンとは、武藤遊戯が海馬との戦いにおいて封印されしエクゾディアを引き当てようと山札に手を伸ばすシーンに相当する訳です。
今回も少し長くなりますが、名作麻雀漫画『打姫オバカミーコ』での一幕を引用します。
リーチに比べると重要度は下回るものの、他の有名役を差し置き裏ドラを「麻雀漫画を読む上で覚えておくべき役」の1つとしたのは、以上のような理由によるものなのです。
以上で発展編も終了となります。ここから最後のまとめへと移りますが、その前にここでもう1つだけ個人的趣味で間章を挟みます。こちらも直接には麻雀ルールの話では全く無いので、興味の無い方は読み飛ばし推奨です。 読み飛ばしはこちらから。
間章 中国麻雀と日本麻雀
麻雀が最も親しまれている国はどこか?
単純に競技人口だけで考えるなら、その答えは「中国」を置いて他に無い。
そもそも国民総人口が多いのだから麻雀人口も多くて当たり前とは言えるが、知っての通り麻雀そのものが中国で生まれたゲームなのだ。その普及率は日本の比では無い。
本場中国では多くの家庭に牌と卓が存在し、旧正月ともなると集まった親戚家族一同で卓を囲むことも珍しくなく、自宅や雀荘のみならず道端や公園、町内の寄合所など、日常にある憩いの場の至る所で麻雀に興じる人々の姿が見られる。(というのはあくまで伝聞でしかないが、実際筆者が10年ほど前に仕事で北京に行った折には、平日の朝から屋台の前で麻雀に興じるオッサンとオバさんらの姿を一度目撃している)
一説によると中国人の2人に1人が少なくとも何らかの機会に1度は麻雀で遊んだことがあるとされており、単純に考えれば中国における麻雀人口は日本人口そのものを大きく超える計算になる。中国では麻雀は老若男女が楽しむ国民的娯楽として、それだけ深く日常に根付いているのである。
なお、中国では麻雀は正しくは「麻将」と書くが(音は麻雀同様にmájiàngである)、本記事では中国麻雀についても基本的に「麻雀」表記で統一する。
しかしながら、麻雀人気を単純な競技人口ではなく、視点を多少変えて考えてみると、実は別の国が答えとして浮かび上がってくる。
その答えというのが、我が国、日本である。
競技人口では日本を圧倒する中国だが、その一方で日本にあって中国に無いものがいくつもある。そのうちの1つが「麻雀プロ」の存在だ。
日本で麻雀が「プロ」化されたのがいつになるかというと諸説がある。そもそもが庶民の賭博娯楽であったため「雀荘で一般人から金を巻き上げる玄人」という意味で半ば蔑称として「麻雀プロ」と呼ばれる者たちがプロ団体設立以前から存在したという話もできる。
ただ、一つの契機を挙げるとするなら1976年に開催された最高位戦を「麻雀プロ」の始まりと見るのが一般的であろう。以降46年の歴史の中で紆余曲折はありながら、将棋や囲碁のプロ棋士レベルまでに社会的に認められたとは言い難い部分はあるが、日本では「麻雀プロ」が1つの職業として一定レベル認知されるに至っている。
その一方、日本より莫大な競技人口を擁しているはずの中国には、日本の麻雀プロに類する存在は皆無のようである。
知人から聞いた話だが、アニメ化もした麻雀漫画『咲』では「各学校に麻雀部があるほどに麻雀に人気と社会認知度があり、多くの女子高生が大会に出場するほど熱心に麻雀に打ち込んでいる」という架空の世界が描かれているが、そのアニメを見た中国人が、作中に登場するプロ麻雀プレイヤーも同様に架空の存在と勘違いしたと言う話があったらしい。
その知人の話はおそらく上記のブログ記事がソースなのではないかと推測されるが、同記事内の記述を信じるのであれば麻雀プロの存在だけでなく、「テレビで対局が放送される」「一般人も参加できる大会がある」のような事例すら中国人にとっては驚きの対象のようである。ただし後述するが、実際には中国でも1998年以降全国的な麻雀大会が定期的に開かれてはいる。しかし逆に言えばそうした大会の存在すらも、一般人からしたらその程度の知名度という訳である。
10年前の記事であるため現在の状況に関してまではハッキリとした事は言えないが、中国における麻雀事情が多少なりとも察せられるのではないだろうか。
それと比較すると、日本には数多くの麻雀小説があり、映画があり、漫画があり、アニメがある。日本では麻雀のプロ団体が存在しプロリーグが開催され、対局を放送するテレビ番組があり、麻雀専門のweb配信チャンネルがある。
つまり、だ。
麻雀を実際に自分たちがプレイする遊戯として捉えれば中国で最も親しまれていると言えるが、麻雀をショービジネスやフィクションの題材としてより楽しんでいるのは、本場中国ではなく圧倒的に日本だと言えるのである。
この違いは一体何に起因しているのか?
厳密な研究がある訳でも無いのでエビデンスの裏付けに基づいた話は出来ないし、またそもそも、こうした地域間の文化の差異について短絡的に分かりやすい理由を求めること自体が歴史に対する誤謬の元ではある。
が、それを重々承知した上であくまで筆者独自の仮説の述べさせてもらうと、この日本と中国の麻雀文化における差異には概ね3つの理由が挙げられる。
1つ目は、中国では市井の人々の間で麻雀が親しまれている反面、政府からは規制対象として取り締まられていたという歴史があることだ。おそらくだが、これが最も大きな理由の1つなのではないかと思う。
19世紀中頃に浙江省で生まれ、瞬く間に中国全土で大人気ゲームとなった麻雀だが、日本における麻雀の普及がそうであったのと同様、基本的には賭博を伴う娯楽として親しまれていた。
為政者にとって賭博が取り締まりの対象となるのは世の常であるが、中国でも1949年に中華人民共和国の成立とともに賭博禁止令が発令され、それにともない麻雀も公然と楽しめるものでは無くなったという過去がある。
特に文化大革命の折には「亡国の遊戯」として厳しい弾圧にあい、その際に大量の麻雀資料が焚書されたようで、今でも70年代以前の中国麻雀の歴史については不明瞭な点が多いらしい。(麻雀に限らず中国の文化事情について調べてみると割と高確率で「文革によって資料が散逸しそれ以前の経緯については不明な点が多い」「文革で粛清対象となったため空白期間が出来ており技術継承が一度途絶えている」などの文言に出会うはめになるらしい)
その後、文革終結後の解放政策の中で麻雀に対する規制も弱まり、1985年には正式に麻雀禁止令が解除されたことで、中国でも麻雀人気は復活し現在に至っている。1998年には政府機関であるところの国家体育総局が、麻雀を正式に255番目の国家認定体育種目として認定し、同年には中国の麻雀史上初の全国大会が開催されている(ちなみにこの国家体育総局による決定の裏には、日本の代表的な麻雀プロの1人である井出洋介氏の多大な貢献が存在していたりする)。
無論、現在でも賭博自体は禁止されているものの、小遣い程度の額を賭けるくらいの麻雀は黙認されている。この辺りの事情は日本も同様である。
しかしとは言え、ほんの30数年前まで中国では政府が国を挙げて麻雀という文化そのものを途絶えさせようとしていたのだ。そのような歴史的経緯があるため、そもそも麻雀の競技団体などが発足する土壌自体が中国には存在していなかったのである。
2つ目の理由はローカルルールの多さと幅広さである。
前述の通り、麻雀が誕生し中国全土に広がったのは19世紀の中頃である。通信技術や出版流通もまだまだ未発達だった時代に、広大な国土に一度に広がった訳であるから、各地方で独自のルールが発達・定着したのも当然である。
そのため「中国麻雀」と一口に言ってもその競技ルールは多岐に渡る。
日本でも麻雀のルールは地域、団体によって変動するが、精々がローカル役の存在、順位点の点数、連チャンや上がり辞めの有無、上がり時の祝儀など、あくまで付加的なものに過ぎない。
一方で中国のローカルルールはゲームの基本的な進行自体が大きく異なる場合までああり、例えば四川省で人気の「血戦」と呼ばれるローカルルールでは、1人が上がっても残りのプレイヤーでゲームが続行し、最後の1人になるまで終わらないというルールで行われる。
血戦ルールはあくまで極端な例であるが、このように地域によってルールの異なる麻雀が、細かく分類すれば優に50を超える数にまで達する。
中国には地域の数だけ麻雀が存在すると言っても過言でない訳である。
このようなルールの乱立状態が、麻雀の競技化、ショービジネス化にあたって障壁にならないはずがない。
日本のようなレベルですら「団体によるルールの不統一が競技としての麻雀人気の発展を阻害している」と度々議論に上っているのだ。中国における困難さは推して知るべしと言ったところだろう。
前述の通り、1998年における国家体育総局による体育種目認定時には全国大会も同時に開催されているが、その際に数多あるローカル麻雀を統合した「国際公式ルール」と名付けられた統一ルールが当局によって制定されている。(中国国内では「国標麻将」と呼ばれている)
字義通り競技麻雀の国際化を目論んで制定された節のある国際公式ルールだが、しかしながら国際的にはおろか、中国国内でもその普及率は芳しいものとは言えないのが現状である。
数億は存在する中国国内の麻雀プレイヤーの中で、この国際公式ルールでのプレイヤー人口は10万人に満たないとされている。
ちなみに、中国国内でも漫画やアニメ、オンラインゲームなどの影響で、特に若年層で日本ルールの麻雀を打つ人の数が増えているという話があり、そのプレイヤー数は100万人近くにのぼるという推計がなされているそうだ。
競技としての中国麻雀の発展には、まだまだ高い障壁が存在しているのである。
以上の2点が、麻雀が本場中国では日本ほどにショービジネスやフィクションの題材としては愛好されていない大きな理由であると考えられるが、とは言えそれだけで理由の全てが説明できるとも言えない。
いかに政府に弾圧されていた歴史があるとは言え、それももう30年以上前の話であり、そもそも禁止令が解除して速やかに麻雀人気は回復しているのである。
にも関わらず、中国ではいまだに競技麻雀の普及発展はそこまで進んでおらず、プロ団体も存在していない。中国国内で麻雀を題材にした映画や漫画がヒットしたという話は寡聞にして聞かない。
その間に日本では、麻雀バラエティ番組の『われめDEポン』が地上波で正月深夜の名物番組として定着し、『咲』や『アカギ』などの漫画やアニメが麻雀ジャンルの枠を超えてヒットし、麻雀をメインコンテンツに据えた有料CS放送チャンネル「MONDO21」が開設され、麻雀団体の垣根を超えた史上初の本格的プロリーグであるMリーグが発足し、東京高等検察庁検事長が賭け麻雀で書類送検され失職している。
また、ローカルルールの存在にしても、日本でもブー麻雀という構造レベルでルールの異なるローカル麻雀が存在している。現在では大阪の一部地域でのみ遊ばれる程度に衰退しているが、かつては関西を中心に広く普及していたのだ。
ブー麻雀が衰退した大きな理由の1つとして、警察から頻繁に摘発対象になったためという点が挙げられる。現在日本で主流の麻雀ルール(ブー麻雀や海外ルールに対し「リーチ麻雀」と呼ばれることが多い)と比べて1ゲームの決着が極めて早く、賭け金の移動も激しいことがその原因であった。
しかしながらそれ以外にも、競技麻雀や麻雀小説、麻雀漫画の人気がこのブー麻雀の衰退を、さらに後押ししたという側面が考えられる。
プロによる対局や漫画小説内でプレイされているのがリーチ麻雀である以上、それらに触れて麻雀に興味を持った人たちがブー麻雀ではなくリーチ麻雀をプレイしたがるのは当然である。
つまり、麻雀の競技化、フィクションの題材化がローカルルールを衰退させ、麻雀ルールの統一化を後押しした訳だ。
「ローカルルールの存在」と「麻雀のショービジネス化」とはニワトリと卵の関係のようなものであり、「多数のローカルルールがあるから競技麻雀が発展しない」と一概に言えるようなものではない訳である。
さて、そこで筆者の考える第3の理由の登場である。
中国には数多のローカルルール麻雀が存在し、中にはゲームの構造レベルで大きく異なるルールもあると述べたが、当然ながら日本のリーチ麻雀も、中国麻雀と大きく異なるルールを持つ。
「リーチ麻雀」という名称から一目瞭然であるが、リーチ役は日本独自のルールである。そしてそれどころか、本記事の発展編において紹介した「放銃一人払い」「フリテン」「リーチ」「裏ドラ」の4ルールの全てが、実は中国麻雀には存在しない日本だけのルールなのである。
ローカルルールによって違いはあるだろうが、中国麻雀の大部分がロン上がりでも3人から点数を貰えるルールとなっている。
前述の国際公式ルールでも、放銃者が多めに払う取り決めになってはいるものの、それ以外の2人も一定の点数を支払わなくてはならない。また、ツモ上がりの場合に支払う点数はロン上がりの点数が3分割されるのではなく、ロン上がりの点数を3人からそのまま貰うルールになっている。つまりツモ上がりはロン上がりの3倍の点数が手に入るのだ。
そのため中国国際公式ルールでは、むしろツモ上がりされる方が痛手となり、危険牌を止めて防御に回る理由がほとんど無く、基本的には自分の上がりを目指す攻撃一辺倒な打牌がセオリーとなる。
また、放銃を警戒する重要度が著しく低いために「相手の手牌を読む」ことの価値も日本麻雀に比べて低く、フリテンルールも無いので中国麻雀では「捨て牌」があまり重要視されていない。
上でも述べた通り、日本麻雀では各プレイヤーの捨て牌が戦略上重要な情報源となるため、捨て牌の並べ方が極めて厳格に定められているが、中国の場合、少なくとも一般市民が街中で興じる麻雀では、捨て牌は卓の中央にてんでバラバラに置かれるのが通常だ。
(もう少し正確に言えば、中国麻雀で重要視されていないのは「誰がどの順番で捨てたか」であり、全体の捨て牌そのものは自分の手牌を完成させる上で牌の残り枚数が知れるため中国麻雀でも大切な情報源ではある)
(Wikipediaより。左が日本麻雀、右が中国麻雀)
国際公式ルールでは日本同様に捨て牌の並べ方がルールとして定められているが、これはルール制定時に協力を求められた日本の麻雀団体による強い要望によって加えられたものと言われている。元々はフリテンルールの導入もかなり強く要望を出していたらしい。
本記事の発展編にて詳しく述べた通り、麻雀は「放銃一人払い」「フリテン」「リーチ」の3ルールの存在によって対人対戦型ゲームとして成立している。
つまり逆に言えば、これら3ルールを持たない中国麻雀は本質的に「自分の手牌を完成させるために如何に効率よく期待値の高い打牌ができるか」という自己完結型のゲームであり、そしてそれこそが実は本来の麻雀の姿だったのである。
本記事の発展編にて、ルールを把握する上での概念的な表現として「基礎編で説明したゲームの基本構造に、放銃一人払い、フリテン、リーチ役などのルールが"加わる"」と述べたが、実はこの説明自体が、日本麻雀の歴史において実際に起こったルールの変遷をトレースした表現だったのだ。1930年代から40年代にかけての出来事である。
少し話は逸れるが、これはテトリスに代表される「落ちゲー」の辿った歴史と酷似している。
1980年代にロシア(当時ソビエト)で生まれたテトリスは全世界で大流行し、様々なゲームハードに移植され、またいくつもの類似ゲームが生み出されたことで「落ちゲー」と俗に言われる一個のゲームジャンルを確立させた。
アーケードやいくつかのハードでは2人プレイの対戦モードも実装されたが、多少の対人要素を備えながらも、それらはあくまでスコアアタックの延長線上にあるものだった。
そうした「落ちゲー」の歴史の中で90年代に日本で1つの革命的ゲームが誕生した。『ぷよぷよ』である。
『ぷよぷよ』が導入した「おじゃまぷよ」システムは、連鎖コンボによる対戦相手への攻撃という概念を生み、それと同時に連鎖返しによる防御とカウンターアタックの概念を生んだ。
あくまで自己完結型ゲームであった「落ちゲー」を、攻撃と防御の応酬が行われる対人対戦ゲームへと変革した訳である。
(この段落はちょっと歴史を物語化しすぎた嫌いがあって、もうちょい正確な歴史を述べると、89年に任天堂から発売されたゲームボーイ版テトリスが初めて通信ケーブルによる対戦モードを導入し、その際に複数列同時消しで相手のブロックが迫り上がるという対戦要素を加味したという前史がまずあり、その対人要素が初代ぷよで洗練され、ぷよ通で確立した、みたいな感じの説明になる)
さらに余談となるが、対人要素の多寡をもって中国麻雀を日本麻雀より低く見る日本人の麻雀打ちを時折見かけるが、この比較はナンセンスであろう。
中国麻雀は中国麻雀として本来の「できるだけ高い点数の役を出来るだけ早く完成させる」という自己完結型のパズルゲームとして成立しているのだ。
落ちゲーの話をそのまま適用するならば、テトリスとぷよぷよのどちらが優れているかを議論するようなものである。
(と格好つけて言ってはみたが、筆者自身中国麻雀はPC上で数度打ってみた程度であるので偉そうなことは言えない)
閑話休題。
既に本記事のタイトルを忘れかけた読者の方も多いのではないかと危惧するところだが、本記事の麻雀ルール紹介は、そもそも「麻雀漫画を楽しく読むために必要な分だけを説明する」という趣旨によって記述されている。
記事中の随所でも述べたが、これはすなわち「物語に影響を及ぼしうるルール」に絞って説明していることを意味する。逆説的に言えば、本記事の特に発展編で紹介したルールこそが、麻雀のゲーム内容を「物語」化させているのである。
本項の冒頭で私は「麻雀をショービジネスやフィクションの題材としてより楽しんでいるのは、本場中国ではなく圧倒的に日本だと言える」と述べた。
麻雀をプレイヤーとしてでなく観客として楽しむこと、麻雀打ちを主人公にしたフィクション作品を楽しむこと、これらはすなわち麻雀を「物語」として楽しんでいることに他ならない。
だとするのであれば、麻雀を「物語」化させている種々のルールが全て日本麻雀にしかない独自のものである以上、本場日本を差し置いて日本でだけ麻雀小説があり、映画があり、漫画があり、アニメがあり、日本でだけ麻雀のプロ団体が存在しプロリーグが開催され、対局を放送するテレビ番組があり、麻雀専門のweb配信チャンネルがあるのは、ある意味では至極当然のことだと言えるのである。(と格好良く言い切ってはみたが、上述の通り理由の比重としては多分「規制弾圧された過去」と「ローカルルールの多さと多彩さ」の方が大きいとは思う)
放銃一人払いルールとフリテンルールについては、その発祥がどこにあるかは現在でもほとんど明らかになっていない。
しかしながら少なくとも1930年頃、それが場末の雀荘なのか上流階級層の自宅の応接間なのかは分からないが、日本のどこかにあった麻雀卓の1席で、
「こいつの捨て牌で上がられたのに、俺まで点数支払わなくちゃいけねえのなんかおかしくねえか?」
とイチャモンをつけた麻雀打ちが、どうやらいたらしい。
どこの誰かは分からないが、その1人の麻雀打ちのイチャモンが、日本の麻雀のゲーム構造自体を大きく変革し、数多の麻雀小説、麻雀漫画を生み出し、プロ団体を設立するに至り、大規模プロリーグを開催させたのだ。
今日の日本における麻雀人気は、名も無い1人の麻雀打ちのイチャモンから始まったと言っても過言では無いのである。
最後に
以上が私なりに考えた「麻雀漫画を楽しむため”だけ”の麻雀講座」となります。
最後にザックリ本記事の内容をまとめておきましょう。
まず細かいことは置いといて、
・麻雀は牌をツモっては捨てツモっては捨てを繰り返し、役を持った上がり形を完成させるゲーム
・上がり時の点数は役に応じて概ね1000点〜12000点だが、それ以上の点数もある
・1ゲームにつき東場1〜4局+南場1〜4局の計8回の対局が行われる
の3つさえ分かっておけば、概ね麻雀のゲーム進行が把握でき、麻雀漫画を読んでもとりあえずどんな状況で何をしているのかはある程度分かるようになります。
そして発展的なルールと漫画内におけるその作劇効果の理解として、
・放銃一人払い
放銃を避けるための防御的な打ち方が存在する
一人から点数を奪うロン上がりは直接的なダメージ描写
・フリテン
捨て牌という情報源をもとに推理戦と心理戦が展開され、それがキャラクター間のドラマに繋がる
・リーチ
麻雀役の中で唯一の能動的な役であり、キャラクターの意思表示に直結する
・裏ドラ
最後の逆転演出に多用される
辺りを踏まえておくと、麻雀漫画で描かれていることがより深く理解できるようになる訳です。
と言う訳でいかがでしたでしょうか?
本当に知識ゼロの初心者の方に、このタイトル詐欺とも言える長大な文量の記事を最後まで読み切ってもらえたのかというと甚だ自信がありませんが、逆に多少なりと麻雀を知っておられる方にはそれなりに楽しんで貰えたのではないかと思ったりします。
最後に地味にいくつか白状しておくと、実は冒頭に書いた本記事の執筆理由はちょっと(結構)嘘が入っています。
元々は麻雀熱が再燃したここ1年半で麻雀漫画をいろいろと読み返した結果、「麻雀漫画における麻雀のゲーム構造と物語との関係」について考えるようになり、一度まとまった文章として書いておきたいという気持ちがずっとありました。
なんですが、話題がかなり多岐にわたる上に言語化できてない部分も多く、何度か構成を考えては上手くまとまらず諦めるというのを繰り返していました。
そんな時に冒頭で引用したツイートをTL上で見かけて「あ、考えてることの一部分だけなら、麻雀ルール紹介の体で上手くまとまりそうだぞ」と閃いたのが、本記事執筆の理由だったりします。
なので本来この記事は、元々1年くらいずっと構想を練ってた「麻雀漫画好きに向けた麻雀漫画考察記事」のプレ版というか、全体構想の内の3分の1くらいを初心者向けの体を装ってまとめたものになります。
なのでこの記事を読んでて途中で「どこが初心者向けだよ」と思った人がいたら大正解なんですよね。自分自身本気で初心者に向けて書こうとはしてない節があるので。
正直記事として需要が高いとは思いませんし、ぶっちゃけアクセス数も伸びる気しない記事なんですが、個人的には書いてて久々に自分で無茶苦茶楽しい執筆になったので、自分自身としてはかなり満足してたりします。
もし最後まで読んで楽しんでくれた人がいたら望外の喜びです。本論の「麻雀漫画における麻雀のゲーム構造と物語との関係」についても、いつか必ず完成させたいと思うので、その時はまた読んでくれると嬉しいです。
という訳で以上! あでのいでした! まったねー。
(最後にもう1つ白状しとくと、この記事を書いてる途中に歴史部分の参考資料として浅井了氏の麻雀祭都という麻雀研究サイト見たら、発展編に書いてた内容ほぼそのまま載ってて「あちゃー」って感じでした。そっちに引っ張られて最終的にかなり模倣記事になっちゃった部分ありますが、何卒ご容赦頂けましたら)