「ドラゴンボールはフリーザ編で終わってたら名作だった」とかのたまう輩に鉄槌を下しブウ編がいかに最終章として素晴らしいかを力説するための覚え書き

(コメ欄等の指摘で「アダルトチルドレン」という単語について完全な勘違いの元に盛大に誤用していたことを教えて頂いたので訂正しました)

どうも。ブログでは久方ぶりのあでのいです。ドラゴンボールで何編が一番好きか聞かれたらノータイムでブウ編と即答するあでのいです。

そうブウ編なんですよ。最終章ですよ。ブウ編も好き、ではありません。ブウ編「が」一番好きです。
「○○編で終わってれば名作だった」と言われがちなジャンプ長期連載漫画で最終章を一番好きになってしまうとなかなか肩身が狭い思いをするものですが、ドラゴンボールなんてのはその最たる例の1つでしょう。

日々そんな肩身の狭い思いをしている私ですが、先日こんなニュース記事を見かけましてね。

ついにトリシマ編集長が認めた!「ドラゴンボールはフリーザ編で終わるべきだった」

何たることかと。怒髪天を衝くとはこのことかと。
件の番組そのものに関しては実際に見た訳ではないのでマシリトさんの発言のニュアンスが実際のところどうだったのか分かりませんし、そもそも漫画編集者としての立場からの意見ですから一読者とはまた別の視点があるわけです。ですのでそこについては良いとしてもですよ、何ですかその「ついに認めた!」っていうのは。「ドラゴンボールフリーザ編で終わっておけば良かった」ってのはそんなに世間ではひろく認められた言説なんですかね?
ふざけるなよ、と。
てめえらそこに直れ、と。
俺が魔人ブウ編がどんだけ名作か夜通し語ってやるぞ、と。

という訳で今日はドラゴンボール魔人ブウ編がいかに素晴らしく、ドラゴンボールという漫画の中で無くてはならない存在なのかっていうのをちょっと語ってみたいと思います。

ドラゴンボールの歪みとブウ編の異色さ】

 まず簡単に私個人の意見を言わせて貰うと、ドラゴンボールに関しては
「ピッコロ編より後は全て蛇足」か「ブウ編まで含めて完成」
のどちらかしかありえない、という立場をとっている。
 おそらく前者の立場は非常に理解されやすい。ピッコロ編の最後のページ、左下の亀仙人のじっちゃんのコマさえ無ければどれだけ奇麗に終わっていたか。それについて私がわざわざ改めて語る必要も無いだろう。
 問題は後者の方だ。
 ドラゴンボールサイヤ人編以降は明らかに無理な引き延ばしが行われていたのは周知の事実だ。その結果として、設定の矛盾や世界観の破綻などの様々な歪みが漫画内にて発生した。この点については上記の記事中でも

今となってはセルやブウの登場しない『ドラゴンボール』は想像できないが、ファンからもよく批判される「戦闘力のインフレ」や「ボール探求という目的の形骸化」、「死の意味の希薄化」といった傾向が著しくなったのは、その間の出来事である。

と評されている。
 そうした歪み–負債と言っても良い–は連載の長期化にあわせて雪だるま式に増大していったのは紛れも無い事実である。であれば勢い「○○編で終わっていれば良かったのに」と言われるのも仕方の無いことではあるのかも知れない。
 しかし私はそうは思わない。ドラゴンボールはブウ編をもって初めて完成するのであり、それ以前の(サイヤ人編以降の)どこで終わったのだとしても、ドラゴンボールは未完成の失敗作にしかなり得ない(というのは言い過ぎ)。サイヤ人編まででもフリーザ編まででもセル編まででも駄目なのだ。ブウ編まででなくては、ドラゴンボールは完成しない。

 一体なぜか? それは、ブウ編がドラゴンボールが連載長期化の中で背負わされた、様々な負債の清算を一手に引き受けているからだ。

 ブウ編はドラゴンボールの中でもかなり異色な作風だと言える。
 パワーインフレ等の問題もあり全体では整合性のとれない部分の多いドラゴンボールだが、実は少なくともある単一の○○編の中だけであれば、伏線も効果的に処理されており矛盾も少なく、非常にスッキリとまとまったお話になっていたりする。ブウ編を除けば。
 ブウ編は他のエピソードとは異なり、全体としてどこかまとまりに欠ける。地に足がついていないと言っても良い。
 開始当初は完全に悟飯を主人公に置き、ペンギン村よろしくギャグ物回帰として始まった感があった。にも関わらず、早々とシリアスバトル物へと無理矢理引き戻され、それにともない結局主人公の立場も悟空へと戻される。
 バトル展開に関しても、ゴテンクスから覚醒悟飯への流れや魔人ブウの形態変化は結局誰がどの程度強かったのかハッキリせず、ドラゴンボールお家芸のはずのパワーエスカレーション展開がどこかぎこちない。ブウ編以外ではこんな事はあり得なかった。ドラゴンボールでは必ず後から出てくるキャラクターなり形態なりが、必ずそれ以前より圧倒的に強い存在として描かれる。そうした明確なパワーエスカレーションの先に、最強の存在同士が雌雄を決する王道展開が待っているのがドラゴンボールだ。その王道展開こそが読者にシンプルな快感を与えていたはずなのだ。

 とかくブウ編ではどうにも話が迷走しており、無駄で盛り上がりに欠ける展開が何度も挿入される。その理由を鳥山明のモチベーションの低下や編集部との軋轢、テコ入れなどに求めるのは簡単ではある。正直に言えば、実際のところそうなのだろうと私も思う。が、ことの真実は一旦無視して私の意見だけを言わせて貰うなら、そうした「ぎこちなさ」こそが、ブウ編がドラゴンボールが抱えていた「負債」の清算に敢然と立ち向かったことの証しなのだ。

ベジータの寝返り。あるいはバトル漫画におけるライバルの憂鬱】

 ブウ編を「負債の清算」という観点から読む上で、それを象徴しているのがベジータの存在だ。ブウ編の途中でベジータは衝撃的な「寝返り」を見せる。敵の親玉たるバビディの洗脳に自らかかり、その上で悟空達と敵対する。しかしながら実際にその展開が物語を盛り上げているかと言うと、実はかなり怪しい。そもそもベジータは元々悟空や悟飯よりも「弱い」事が既に確定しているキャラクターのはずなのだ。そんなベジータが今更このタイミングで敵に寝返った所で、「絶対絶命」や「最悪の展開」にはなり得ない。バトル漫画として見るのであれば、ベジータの寝返りは物語の本筋に対しての無駄な茶々入れにしかなっていないのだ。
 では何故ベジータは悟空達を裏切り敵側に寝返ったのか? それはベジータの口から直接語られている。


 話を一旦ドラゴンボールから離れて、少年向けバトル漫画全般について少し述べておく。バトル漫画において「一度負けたが生き残った敵キャラ」が辿る道は端的に言ってほとんど2種類に絞られる。即ち「主人公達の仲間になる」か「新たな敵キャラに対するかませ犬になる」かのどちらかだ。いや、と言うよりその両方を兼ねるパターンが一番多い。
 これはバトル漫画の構造上仕方の無いことでもある。バトル漫画、特に「悪の存在から世界を守る」類の漫画では、「宿命のライバル」というキャラクターを延々とそのキャラクターのままで存在させることが非常に難しい。
 スポーツ漫画であれば大舞台での決勝戦までライバルとの戦いは引き延ばすことができるが、バトル漫画の場合、いずれ決着をつけるべき相手といつまでたっても戦わないでいる理由が成立しづらい。「主人公がもっと成長して実力が拮抗するまで」や「他に何らかの目的があって後回しになっている」という理由でライバルキャラとのラストバトルを引き延ばす手法が多くの漫画で見られるが、余り長期連載で延々と使える手法ではないことを、それらの漫画自身が証明してしまっている事例が多い。
 逆に一度「決着」がついてしまうと、すなわち主人公が勝利してしまうと、主人公との格付けは済んでしまったことになるので、今度は新たな敵キャラと主人公との戦いの中に割って入る事自体ができなくなる。
 一度負けたキャラ、主人公との格付けが済んでしまったキャラクターにはもはや「ライバル」としての役割は邪魔でしかない。もしそれでもなお漫画の中に登場させるのであれば、「あの強敵と共闘!」という盛り上げ方で主人公の仲間として扱うか、「あの強敵よりさらに強い敵が!」という新敵の強さを演出するための噛ませ犬として扱うか、その2択以外にほとんど選択肢はないのである。
ドラゴンボール以降、そうした敵キャラの扱い方のパターンに抵抗してか、作中最強キャラが常に変更しない、敵組織を複数配置など、いくつかの試みがいくつかの長期連載漫画で行われているが、正直あまり上手くいっているものはないように思う)
 ドラゴンボールも例に漏れずそうした典型パターンに則ってお話は進むのだが、どこかそうしたキャラの扱い方、物語の進め方に対して、鳥山明自身は後ろめたさを感じていた節があるように思う。

 閑話休題ベジータの話に戻ろう。
 ドラゴンボール屈指の人気キャラクターであるベジータだが、その実物語内ではかなり割を食った扱い方をされている。
 フリーザ編以降のベジータは、何かと理由をつけて悟空達に加勢するが、悟空に先んじてパワーアップを果たしては調子に乗って敵キャラに挑み、その結果ボロボロに惨敗するという、典型的な「いつの間にか仲間」「新キャラの強さ演出の為の噛ませ犬」の役割を押し付けられ続けて来た。ブウ編において、もはやベジータのキャラクターからは「宿命のライバル」というファクターはほぼ完全に剥ぎ取られてしまっているのだ。

(まあむしろそうした割の食わされ方がゆえに高いネタ人気を誇っている面もあるのだが)
(なお、近い事はピッコロにも言えるのだが、ピッコロの場合は「悟飯との絆」を通した説得力がキチンとある。ベジータにもブルマとの結婚やトランクスの存在などはあるのだが、ベジータの場合はむしろまず物語の都合が先行してあって、それに合わせるような形で血縁を付与された印象すらある。露悪的な言い方をすると「あてがわれた」とでも言うような)

 上述のベジータの叫びは、漫画の都合で押し付けられた「仲間」「噛ませ犬」という自らの要素に対して真っ向から反抗しているのだ。

 俺は「仲間」でも「噛ませ犬」でもない! 敵だ! ライバルなのだ!

 と。

 そうして「漫画の都合」に逆らってみせたベジータは、念願の悟空との戦い(これがマジで「バトル」としてはちっとも盛り上がらねえんだ)の最中に、自分の行為が自分自身にとっても最悪の結果を招いてしまったことに気付く。いや、漫画内の描写では、最悪の事態が発生したことに気付いた悟空に対し、ベジータの方は話を逸らすなとイラ立つという構図なのだが、後のベジータの行動から逆算して考えると、この時点でベジータ自身も状況のマズさに気付いていたと見るべきだろう。
 復活した魔人ブウの危険に気付いたベジータは、悟空を気絶させた上でブウの元へと向かう。そのツケをたった一人で払う事を決意して。そしてベジータは、息子であるトランクスに対しひどく不器用な別れを告げて、様々なことに懺悔しながら自分の命と引き換えに魔人ブウを倒す。

 ことここに至ってベジータは、もはや完全にこの物語の主人公となっている。
 死んでもあの世へ魂が飛ばされるだけで、その気になればドラゴンボールで生き返ることもできるのがドラゴンボールの世界観だ。読者からも度々命の軽さが指摘されるが、ここでのベジータの自爆はあの世からもこの世からも完全に姿を消すことを意味する。彼の死が作中でも極めて異例の設定が与えられたのも、その死に格別の意味性を付与するためであったのだろう。(指摘あったため訂正。正確にはベジータの場合「人を殺しすぎたため魂は浄化されて別の生命に生まれ変わる」ことになっている。「あの世からもこの世からも完全に姿を消す」は後の純粋ブウ戦の話と混同していた模様。ただどちらにせよ個としてのベジータは消滅することに変わりはない)

 漫画の都合に振り回されて道化をやらされ続けて来たベジータは、ブウ編において漫画の都合に真っ向から反抗し、その先で紛れも無く「主人公」となったのだ。
(まあ結局その直後に魔人ブウはあっさりと復活し、ベジータ自身もしばらく後にサクッと生き返ってしまい、このシーンの感動も結局「漫画の都合」とやらによって帳消しになってしまう訳だが)

【ピーターパンとしての悟空とベジータ

 さて、ベジータのこの「漫画の都合」に対する反抗とその後に続く自爆劇は、視点を変えると「青春期の思いを抱えたまま、大人になりきれずに父親になった男が、最後の最後に初めて父の仕事を果たす話」という構図として見ることもできる。
 いずれ決着をつけなくてはならない存在として(一方的に)悟空をライバル視するベジータだが、当の悟空自身はとっくに勝った負けたの世界からは一歩身を引いて、あの世で隠居生活を満喫中だ。ベジータにしてみれば悟空の姿は典型的な勝ち逃げヤローという訳だ。そして、そんな悟空に対し延々と「おまえを倒すのはこの俺だ」と突っ掛かるベジータは、青春時代の未練を解消できぬまま歳を重ね、いつまで経ってもちっとも本当の大人になりきれない「駄目な大人」そのものだ。
 だからこそベジータバビディの魔力を見て『今こそが「青春期の未練」を清算するチャンスだ!』と考えたのだが、その結果引き起こされた事態を目の当たりにし、ベジータはようやく「父親としての自分」の責任を突きつけられた訳だ。

 元来ドラゴンボールは「子供の世界」だった。海では亀やイルカが喋り、山奥の農村では村人が牛魔王に恐れをなす。世界的犯罪組織のメンバーに超能力者はいるし、聖地の高い高い塔のてっぺんにはネコの仙人様がいる。そうしたファンタジーな設定が極々自然に受け入れられた、大らかな世界観がドラゴンボールの世界だった。
 それがサイヤ人編以降、世界観は急速に変調を来していった。悟空の尻尾やピッコロ大魔王という存在も、気がつけば宇宙人というSF設定へとすり替わり、悪魔や獣人、超能力者や武道の達人といった、おとぎ話的なキャラクター達が世界からドンドン閉め出されてゆく。「子供の世界」だったはずのドラゴンボールの世界は、突如として大人の視線で埋め尽くされてゆく。
 しかしそんな中でも、悟空とその周辺の数人だけはいつまで経っても子供のままだった。自身一児の父となり他のキャラクターも結婚したりだなんだと年を食っていったにも関わらず、悟空はずっとずっと戦い好きの無垢で純粋な少年のままの姿を堅持し続けていた。
 言うなれば、ドラゴンボールとはピーターパン達の物語なのだ。空を自由に飛び回り、悪のフック船長をやっつけるピーターパンの物語。
 変わりゆく世界観と変わらない悟空達。その齟齬は連載が進むにつれてドンドンと物語の歪みとして蓄積されてゆく。いつまで経っても子供のままの悟空だが、その無邪気さが無責任さと表裏一体である危うさが漫画内でも表出し始める。
 無職どうこうとネットでネタ的に言われる悟空だが、そうしたネタ扱いは、そもそも連載後期におけるドラゴンボールの世界観自体が「無職で修行ばかりしてるバトルジャンキー」を許さない空気を放っていたからに他ならない。

 そうした視点に立って見ると、ベジータの自爆劇はある意味ではドラゴンボールという漫画全体がため込んできたツケの支払いの象徴であるという見方もできるのではないかと思う。
 そしてそのツケの支払い、負債の清算は、ベジータに限らず悟空に対しても課せられる。
(実は悟空の方はブウ編に先駆けて一度「父親」をやろうとしており、そしてその事にまんまと失敗してしまう、というのがセル編の内容だったりするのだが、そこら辺の論考はtyokorataさんが非常に良い記事を書いてたので興味ある方は参照したし → 我が子を道具としか思ってない、孫悟空と碇ゲンドウの共通点 - ビルケなう!
 ブウ編において悟空は度々失策を重ねては右往左往する。主人公という立場を降りて次世代への世代交代を試みるが、そのせいで「ここでこうしていれば勝っていたのに」というチャンスをみすみす自ら潰してしまう。そうして世界の未来を悟天やトランクス、悟飯に託すが、彼らも彼らで失敗続きだ。結局その尻拭いのために悟空はアタフタと主人公をやり直す。一児の父となり随分と良い年になっても、未だに無邪気な少年のままバトル漫画の「主人公」をやり続けて来たツケを、悟空はここに来て一気に支払わされているのだ。
 その姿はなんと言うか、肉体のピークもとうに過ぎてオジサンになった父親が、父親としても上手くやれないながらもヘトヘトになりながら子供達の失敗のフォローのために頑張る。そんな「お父さん」の姿に見えてこないだろうか。
(ここで言う「ピーク」とは戦闘力とか気の大きさとか超サイヤ人3とか、そういう話ではない。悟空の少年向けバトル漫画主人公としてのピークは、やはりどう見たところでフリーザ編で終わってしまっているのだ)

 いろんな人達の助けを借りて、ヘトヘトになりながらブウを倒した悟空が最後に見せた改心の笑みの表情。その顔にどこか「老い」を感じさせられるのは、私の気のせいだろうか。

【大人の象徴としてのミスターサタン

 「大人の世界と少年のままの悟空達」という文脈で語る上で、ミスターサタンの存在について言及しないという訳にはいかない。ミスターサタンこそはドラゴンボール世界における「大人」を象徴するキャラクターだ。
 ミスターサタンはごくごく「現実的」な人間だ。空も飛べなければエネルギー波も放てず、悟空達はおろか拳銃や爆弾にすら手も足も出ない。そんな彼が作中では格闘技世界チャンピオンなのだ。ある程度の達人クラスであれば、素手で鉄骨を両断し石の壁を粉砕するのが当たり前だったはずのドラゴンボール世界は、気がつけば数十枚の瓦割り程度で世界一の格闘家と名乗れるような世界になってしまった。ミスターサタンドラゴンボール世界が「子供の世界」から「大人の世界」へと変容したことを如実に示す、その象徴なのである。
 ゆえにサタンは作中では悟空達が形成する「子供の世界」を理解できず、勢いトリックだ夢だと馬鹿にする。彼はあくまで「無理解な大人」として振る舞う。セルを倒した功績を悟空達がいない間にちゃっかり自分のものとして横取りする所などはズルい大人の典型だ。悟空達がピーターパンであるのなら、ミスターサタンこそがドラゴンボールにおけるフック船長なのだ。

 そして、そんな「無理解な大人」を代表するミスターサタンこそが、ブウ編で最後の最後、世界を救う本当のヒーローとなる。
 繰り返すが、ドラゴンボールは少年漫画、バトル漫画である。だからこそ世界の命運は超人同士の一対一での戦いによって決着がつくし、そこに疑問は挟まれない。しかし悟空をはじめとするゼット戦士達がバトル漫画のキャラクターらしく戦うその中で、ただ一人ミスターサタンだけが「敵との交渉と懐柔」「大衆に向けた演説と煽動」という大人の手段を行使する。


 そしてそのサタンの「大人の手段」だけが、大人になることを拒否して子供の論理で戦い続けてきた悟空達の失敗の穴埋めに成功する。ずっとずっと少年向けバトル漫画の正しいルールに基づいて戦い続けてきたドラゴンボールが、ブウ編の最後の最後で初めて「大人の世界」の論理と手を結ぶ。

 変わりゆく大人の世界と、子供のまま変わらない主人公達。その矛盾と軋轢が、ミスターサタンという存在を通してようやく解消される。ブウに向かって最終手段の元気玉をぶつける直前、悟空はサタンに告げる。

宇宙や世界の、ではない。ミスターサタンは紛れもなく、漫画「ドラゴンボール」にとっての救世主だったのだ。

【悟空が戦う意味。もしくはドラゴンボールにおける「正しさ」】

 ブウ編について最後にもう一点だけ述べておく。
 非常に好きなシーンがある。悟空とブウが戦うのをベジータが遠巻きに眺めながら一人語るシーンだ。

 多分、ドラゴンボール読者の間でも名シーンの1つとして上がることが多いのではないだろうか。ベジータがちっぽけなプライドと劣等感を捨てて素直に悟空の強さを認める、という意味でも非常に感動的なシーンだが、私はその「悟空の強さの理由」を語る部分にこそ注目したい。このシーンはドラゴンボールの中ではほぼ唯一と言っても過言では無い「思想性が台詞の形で明示的に述べられる」というシーンだ。

 またもや一旦少しだけドラゴンボールそのものからは離れて話を進める。ドラゴンボール連載終盤に差し掛かった丁度90年代半ば辺り以降から、少年向けバトル漫画において主人公の戦う理由がかなりシビアに問われるようになっていった印象がある。細かい個別論は避けるが、ジャンプ漫画に絞っていくつかタイトルを列記すると、

るろうに剣心 ダイの大冒険 HUNTER×HUNTER ONE PIECE NARUTO BLEACH 銀魂(これも一応カウントしておいて良いだろう)

となる。「何故戦うのか?」の問いに対する答えに関しては作品によって千差万別ではあるが、概して言えば「誰かを守るため」というのが正しい「戦う理由」として認められる傾向にあると言える。
 その点で興味深いのが上記のベジータの台詞で、ここで明らかにドラゴンボールという漫画は「敵を倒すための戦い」と「誰かを守るための戦い」との間に線を引くことを拒否していることが分かる。

 ドラゴンボールの1つの特色として個人的に言及しておきたいのだが、元々ドラゴンボールは感情や戦う理由やらで戦闘力が変化することはほとんど無い。基本的にはイレギュラーが無い限り強い奴が弱い奴に勝つ、という厳然とした戦いのルールが、いくつかの例外を除いて貫かれている。(その数少ない例外が超サイヤ人なのだが、超サイヤ人の印象が強すぎるせいでこの「感情値にバトルの結果がほとんど左右されない」というドラゴンボールの特色は、ほとんど語られることが無い)
 このドラゴンボールの特殊性は、そのまま「正しさ」の提示を回避する態度であると言える。
 あるバトル漫画において、もしキャラクターが戦いの最中に何らかの感情を理由にパワーアップして、その結果敵を倒してしまったとする。その場合、その時の主人公の感情(思想と言っても良い)は漫画内では「正しい」ものとして提示されてしまう。これは作者の思想信条とは無関係に、そのような演出として読者の多くは受け取ってしまう、という話なのだが、実際多くのバトル漫画ではそうした形で作中内での正義や正しい価値観を意図的に演出していると言って良い。
 しかし多くのバトル漫画の定石に反して、ドラゴンボールの場合バトルを通じての「正しさ」の提示に関しては、極めて慎重に避けながら描かれている。そんなだから、「敵を倒すために戦う」ことと「誰かを守るために戦う」こととの間にも、ドラゴンボール作中ではどちらが正しいかの優劣はつけようとしない。
 では「守る」ことと「倒す」ことの間に線を引かないドラゴンボールは、一体どこに線を引いているのか? それはベジータの台詞の中でハッキリと述べられている。

「勝つために闘うんじゃない。ぜったいに負けないために、限界を極め続け闘うんだ…!」

 話は大きく過去へと遡る。
 悟空がブルマらと一緒に初めてのドラゴンボール集めを終えた後、彼は亀仙人のじっちゃんの下に弟子入りする。基礎トレーニングや勉強だけでなく拳法を教えて欲しいと頼む悟空とクリリンに対し、亀仙人は諭して言う。

 そしてもうワンシーン。これはさらにもう少しだけ時間を遡り、悟空とクリリンが初めて亀仙流の修行を開始する際のシーンだ。

 悟空は何のために戦うのか。悪の敵を倒すためではない。仲間や市民を守るためでもない。悟空は戦うことを通してより良い人生を送るために、人生をより良いものとするためにこそ戦うのだ。「不当な力で自分もしくは正しい人々をおびやかそうとする敵」に「ズゴーンと一発かます」のは、あくまでそのついでに過ぎない。
 ベジータが言う「だから、相手の命を断つことにこだわりはしない」とはそういうことだ。
 それこそが亀仙人のくれた教えであり、ドラゴンボールという漫画における数少ない「正しさ」だ。

 だからこそ悟空はピッコロ編のラストバトルにて、一度は友の仇や世界の命運を背負って殺し合いを演じたピッコロ大魔王との再戦を、あくまで「天下一武闘会の決勝戦」という楽しみ事、お祭り事として最後までやり切ろうと頑なになった。悪の大魔王との決着が「場外負け」という大会ルールによって決するオチの美しさと心地よさは、悟空が最後までドラゴンボールの「正しさ」に殉じたからこそ生まれたものだ。
 楽しく生きてる奴が一番強い。楽しく闘ってる奴が一番偉い。それこそがドラゴンボールの「正しさ」だ。

 しかしその後のサイヤ人編以降、悟空はちっとも楽しい戦いができていない。世界観の急速な変容が、悟空達に楽しく戦うことを許してくれないのだ。地球の存亡、世界の未来を賭けた殺し合いは、とても楽しく戦っている場合などではない。悟空自身はシリアスな状況を強いられる中でも、一人楽しく戦おう楽しく戦おうと孤軍奮闘するが、変容した大人の世界なドラゴンボールの中では、そんな悟空の姿勢は「良い歳して子供のままでいようとする駄目な大人」として、もしくは「サイコパス気味なバトルジャンキー」として浮き上がってしまう。セル編にいたっては敵のセルはおろか、楽しく戦うことを悟飯に一方的に求めたことで、実の息子との間にまで深刻なすれ違いを生んでしまう。
 「楽しく戦ってる奴が一番偉い」というドラゴンボールの「正しさ」は、連載が続けば続くほど無惨に瓦解していったのだ。

 だからこそ最終章であるブウ編のラストバトルにおいて、ベジータの独白を通じて漫画「ドラゴンボール」は(鳥山明は、とは言わない)もう一度この世界における「正しさ」を提示しなおそうと試みる。ベジータの台詞をバックに繰り広げられる悟空とブウとのラストバトルは、緊張感と盛り上がりに欠ける反面、何故だか妙に楽しそうに見えてくる。

 結局悟空は上で述べた通り、このラストバトルをミスターサタンの「大人の力」を借りることで勝利するが、トドメの一押しをする直前、悟空はブウに言う。

 もう一度生まれ変わって、今度こそ本当の本当に「楽しい戦い」をしよう、と。かつて何年も昔(悟空にとっても読者にとっても)に、ピッコロ大魔王を殺したあとで、生まれ変わったマジュニアと戦ったように。
 その悟空の望みはウーブという形で可能性だけが示される。その可能性が示されたところでブウ編は、そしてドラゴンボールはとうとう完結する。


 ブウ編は、ドラゴンボールが長期連載を続ける中で発生していった様々な負債に対し、キャラクター達が様々な方法でその清算を試みるお話だ。ベジータは漫画の都合で剥奪されたライバルキャラとしての立場を取り戻そうともがき、悟空は父親としての立場と責任から逃げ続けたツケを、子供達の尻拭いという形で支払おうと必死になる。そしてその最後の最後で、ドラゴンボールという漫画は、自身が一番最初に提示したはずの、皆が皆忘れかけていた「正しさ」を取り戻してみせた。それこそがブウ編の功績だ。
 故にドラゴンボールはブウ編をもってしてようやく完結する。サイヤ人編でもフリーザ編でもセル編でも駄目なのだ。ブウ編がなければ、ドラゴンボールドラゴンボールとしての「正しさ」を喪失したまま終わっていたはずなのだ。
(その「正しさ」そのものに対する賛否はまた別の話であることは、一応補足しておく)


 だからなあ、ドラゴンボールを「フリーザ編で終わっていれば名作だった」なんて言ってる奴がいたら俺の所に連れて来い。全巻片手に夜通し説教したる。ドラゴンボールはブウ編で完結なのだ。そうでなくてはいけないのだ。以上。俺に言えるのはそんだけだ。


願わくば、この記事を通して少しでも多くの人間がブウ編の存在意義に気付いてくれますように。


(まあその上で「でもそうは言ってもセル編もブウ編もつまんないじゃん」とか言われちゃったらどうしようもないけどな。そん時は俺の負け。素直に白旗を上げる。大体この記事自体が「俺にはこう読めたんだ文句あっか!」な内容だしな。GTに関してはまた別の誰かが語ってくれや)
(あと最後に白状するんだけど、この記事の内容多分かなりの部分が10年程前に青木摩周氏(https://twitter.com/stj http://d.hatena.ne.jp/stj/)が書いた記事と重複してるんじゃないかと思う。一応自分の考えで書いたつもりなのだけど、なにぶん昔の話すぎて、どこまでが青木摩周氏の記事内容で、どこまでが自分自身のオリジナルの論考なのか、自分の記憶がよく分からん。なんかこの論に見覚えあるなと思った人は青木摩周氏の記事がオリジナルだと思っておいてくれ)


ちょっとした追記






泣いた。