漫画版「魔法少女育成計画restart」感想 –漫画でできる事できない事–

はいどーも。ブログでは毎度お久しぶりのあでのいです。

コロナ禍で世間かまびすしい日々が続いておりますが、皆さんいかがお過ごしでしょうか?

え、俺? 最悪だよ!!!

とまあ油断するとここから仕事の愚痴オンパレードになりそうな所ですがそれは置いといて。

 

いくらか前に私あでのい、twitterにて

「作者相手に感想送るの超苦手なんだよなー。けど自分が触れた作品を他人に紹介するレビューみたいな感想は全然書けるぜ」

みたいな事を割と調子乗って呟いてたんすよね。

で、後日別件で兼ねてからの知人漫画家の海苔せんべい氏とお喋りしてたら、会話の流れで「じゃあ書いてよ」って話になりまして。

私としても正直感想依頼とか貰うの初めてなので、内心テンション上がりつつ平静を装いながら「あ、マジで?良いよ別に」とかスカした了承をした次第な訳であります。

 

という訳で今回は、原作小説付きのコミカライズ作品である漫画版『魔法少女育成計画restart』について書いてってみよーかと思います。

ちなみにネタバレ全開バリバリで書くのでその辺は注意して読むよーに。

 

 

 


漫画『魔法少女育成計画restart』は同名のライトノベルを原作に持つコミカライズ作品である。
魔法少女育成計画』シリーズは宝島社のラノベレーベル、このライトノベルが凄い!文庫の中でも随一の稼ぎ頭であり、数年前には1作目がアニメ化もされている。原作である『restart』はその第2作目に当たる。
アニメがある程度話題になったことでご存知の方も多いとは思うが、1作目の『魔法少女育成計画』は10数名の魔法少女たちが生き残りの権利を賭けて殺し合いをさせられるという内容で、『まどかマギカ』の系譜に連なるダーク魔法少女もの作品とカテゴライズできるだろう。
この「魔法少女たちが殺し合いを繰り広げる」という内容はシリーズ全体で共通しているが、シンプルに上位存在のゲームマスターから「殺し合いゲーム」をさせられる1作目とは異なり、2作目の『restart』では、表面上は魔法少女が協力して課題をクリアするゲームをさせられているが、その実、参加魔法少女の中に1人だけ「他の魔法少女全てを殺すこと」がクリア条件の「魔王」が潜んでいる、というトリッキーな要素が足されている。
1作目の無印がバトルロワイヤルだとすれば、『restart』はミステリー的要素が強く入り込んでいると言える。

 

さて、そんな『魔法少女育成計画restart』のコミカライズ作品が本記事で紹介する漫画となるが、まず最初に述べておくと、本作はコミカライズ漫画としては極めてオーソドックスで、言うなれば「穏当」な作品である。
いくつか既存シーンのカットやオリジナルシーンの追加、話の順序の変更などはあっても、基本的な内容については原作に極めて忠実で、オリジナルキャラの登場やキャラ改変、あらすじレベルでのストーリー変更などは皆無と言って良い。
いくつかの例外を除き大部分のコミカライズ作品がそうであるように、本作もあくまで原作の内容、魅力を可能な限り「漫画」という形式で再現することを概ね目的とした作品であると言って良いだろう。

 

そういった意味で言えば、作家性やテーマ性の部分からこの漫画そのものについて語ることにほとんど意味は無い。原作について語る事と同義であるからだ。
故に、漫画『魔法少女育成計画restart』に対してあくまで漫画作品単独で語ろうとした時に、批評的観点から言及しうることはそこまで多くはない。
がしかし、一方で原作をある程度以上忠実に再現することを目的としたコミカライズであるからこそ、逆説的にその差異を比べることで「小説」と「漫画」における表現技法の違いや、癖レベルの作家傾向について見えてくるものがあったりもするので、そこがメディアミックス作品を語る際の面白さでもある。
という訳で本記事ではそういった方向から漫画版『魔法少女育成計画restart』について腑分けしてみたいと思う。 

 

群像劇の描き方

原作『魔法少女育成計画』シリーズの作劇において、(短編集を除き)全作で通底する重要要素として「多視点群像劇」である点が挙げられる。
各シリーズは基本的に文庫本1冊ないし2分冊で完結しているが、シリーズごとに毎回20名近くという大多数のキャラクターが登場する(メインで物語に関わる魔法少女は16人で統一されている)。
ストーリーの全体像は複数のキャラクターの視点を通して描かれ、数ページから長くても10数ページおきに目まぐるしく視点が切り替わるのが特徴だ。

 

ただし視点の切り替わりは全キャラクターを通して行われる訳ではなく、ある程度固定された数名のキャラクターの視点に限定される。
『restart』に限って言えば、マジカルデイジー、ペチカ、シャドウゲール、ディティック・ベル、のっこちゃんの5人が概ね主たる語り手キャラに当たる。

 

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以下に、語り手5名の各視点の合計ページ数をカウントした結果を示す。

 

マジカルデイジー 上34ページ (上巻で死亡)
ペチカ 上85ページ 下59ページ 計144ページ
シャドウゲール 上52ページ 下75ページ 計127ページ
ディティック・ベル 上29ページ 下37ページ 計66ページ
のっこちゃん 上42ページ 下35ページ 計77ページ

 

上記の合計ページ数内訳からも分かる通り、この5人の内で「主人公」に当たると言えるのが、ペチカとシャドウゲールの2人である。
『restart』は上下巻の2分冊で出版されているが、上巻の表紙をペチカ、下巻の表紙をシャドウゲールがそれぞれ担当している。

 

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ただし、序盤からかなり明確にリップルスノーホワイトのダブル主人公だった無印『魔法少女育成計画』とは異なり、『restart』の場合は先の展開を読ませないためか、上記2人もそこまで積極的に主人公だと言えるかというと実は微妙だったりする。
その象徴が16人の魔法少女の中でも一番最初に死亡したマジカルデイジーだ。
死亡退場は上巻の80ページというかなり初期の事象だが、上記の視点ページ数を見れば分かる通りそれ以前までは物語の大部分が彼女の視点から描かれている。第一章のサブタイトルが「ハローデイジー」であり、序盤は彼女こそがむしろ主人公然としていたと言っていい。
そんな彼女が唐突に死を迎えたことによって「どのキャラクターが死んでも不思議ではない」という緊迫感を『restart』では与えているのである。

 

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さて、以上のように多視点での細かな視点切り替えによる群像劇が『魔法少女育成計画』シリーズの特徴だが、一方でこうした手法は漫画版『restart』にはほとんど導入されていないと言って良い。
漫画版では1巻にて表紙をシャドウゲールが飾っているが、実際内容も一貫してシャドウゲール視点で描かれており、物語の「主人公」は彼女1人で固定されている。
勿論、原作のストーリーをなぞろうとすれば必然シャドウゲールが存在していないシーンの描写も必要となるが、あくまで「場面転換」的な描写に留まり「視点変更」とまでは言いがたい。
少なくとも1巻段階だけで言えば、キャラクターのモノローグ演出が行われるのはそのほとんどがシャドウゲールに限定されており、それ以外ではペチカとのっこちゃんが例外的にそれぞれ数コマ程度与えられているのみである。

 

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端的に言えば、漫画版『restart』では、『魔法少女育成計画』における「多視点群像劇」という重要な特徴が放棄されている訳である。
ただし、ここで重要なのは、放棄されているのがあくまで「多視点」の部分であって、「群像劇」という点まで放棄されている訳ではないという点だ。
そもそも16人にまで登るキャラクターが同時進行的に行動している以上、ストーリーをなぞるだけで自然と群像劇的な展開になるという話ではあるのだが、ここでは漫画版における原作にはない群像劇の補強描写について取り上げたい。

 

注目すべきは「画作り」だ。いくつかページを抜粋する。

 

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パッと見でもかなり賑やかに見えるページ構成になっていることが分かるのではないだろうか。
この絵的な「賑やか」の理由は単純に言えばキャラクター数の多さにあり、多数のキャラクターが常に絵的に表現され続けているのが漫画版『restart』の特徴と言える。
上記抜粋ページ以外でも、本作では作品全体を通してもバストアップの連続のような画作りは丁寧に避けられており、セリフやストーリー進行上の行動が特に無いキャラクターであっても、ページの端に常に入り込むような構図が取られている。
これにより、読者は常に「複数キャラクターが同時に動いている」というストーリー構成を意識することとなり、またそれぞれのキャラクターの微妙な表情の違いやリアクションの差異が絵として描かれることによって、原作のような視点変更による内面描写を経ずに、キャラの定着化を進めている。
原作の群像劇的な特徴が、「画作り」の観点から強固に保持されていると言える訳である。

 

改めて述べる必要は無いが、小説は「文字」で漫画は「絵」である。
現代小説では特に形式上は三人称小説であっても、あくまで「誰の視点か」かに関してはほぼほぼ固定された形で書かれる場合も多く、『魔法少女育成計画』シリーズはその典型例と言って良い。
である以上、そのような視点形式小説における「描写」はあくまでその視点キャラクターの目に映る範囲内の事象でしかなく、キャラクターの視界外については基本的に描写されない。(と完全になってしまうと都合が悪いので、明確に一人称でなくある程度揺らぎをもって書けるように三人称の形を採用しているという面はあるのだが)
一方、映像作品の場合は描写の主体は作中のキャラクターではなく、原則的にその外の「カメラ」が担う形になるため、キャラクターの視界外の事象についても必然として、常に視聴者に対し情報が提示され続ける。

 

漫画の場合、映像作品に比べ文字情報を投入しやすく、背景の描写の取捨選択が作者に制御可能で心象世界的な演出もしやすいため、一人称小説的な作りにも、映像作品的な作りにもどちらにも振れるという特徴があるが、漫画版『restart』は(あくまで比較的という程度ではあるが)映像的な作りを志向した画作りが選択されていると言えるだろう。
漫画版ではシャドウゲールが主人公として固定されていると上述したが、例えば下記のようなシーンでは本来シャドウゲールは他2人の表情を感知していないのであるが、それが我々読者には提示される訳だ。

 

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ただし、繰り返すが一人称小説的な作りにも振ることが可能なのが漫画の利点であり、漫画版『restart』もそうした作りを適宜挿入している点には留意したい。
例えば第8話は、漫画版全体で原則的に通底している「シャドウゲールが主人公」という枠組みから外れて、丸々1エピソード、ディティック・ベルを主人公に置いているが、このエピソードでは彼女のモノローグを主軸にして描かれており、極めて一人称小説的な構成が採用されている。

 

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こうした流動性に漫画という媒体の強みがあるのだ。

 

繰り返すように、『魔法少女育成計画』シリーズは本質的に群像劇である。が、群像劇をどのようにして表現するかという点に関しては、原作小説と漫画版とでは大きく異る。
冒頭で本作漫画版『restart』は、できるだけ原作のストーリーを忠実に再現しようとしている「穏当」なコミカライズ作品であると延べたが、そういったコミカライズ作品を敢えて原作と比較することで、小説と漫画それぞれの表現形式の差異が見えてくる訳である。

 

漂う空気感の違い

「原作の忠実な再現」を可能な範囲で志向している漫画版『restart』であるが、ストーリーの筋自体は原作から大枠ほとんど逸脱しない範囲で描かれている一方で、作品全体に漂う「雰囲気」に関しては、実は原作小説から比べて多少変化している節がある。

 

魔法少女育成計画』シリーズの基本コンセプトは「16人の魔法少女らが血みどろの殺し合いを繰り広げる」である。
そのため当然ながら作中ではシリーズ全体を通じて重苦しく殺伐とした空気が流れている。
主要登場人物である魔法少女らにしても、女児向け作品に見られる健康的な少女像なキャラクターだけでなく、日々の日常に対してうっすらとした鬱屈を抱えたリアル寄りのキャラクターが少なくない。
そもそも「魔法少女」と言ってはいるが、その正体が少女でないキャラクターが多数存在する(どころか人間でない場合すらある)のだ。
特に『restart』の場合、語り部を担っている5人のキャラクターはそれぞれに、経済的な困窮や身分上の不自由、性格的な自己嫌悪などを抱えており、そんな彼女らの視点で描かれる本作は作品全体を通して厭世的な雰囲気に包まれている。

 

が、漫画版ではそうした殺伐として厭世的な雰囲気が原作に比べると多少(人によっては大きく)軽減されており、どちらかと言うと真っ当な「可愛い女の子が沢山出てくる作品」に寄せられている節がある。
その理由、原因は複合的なものであろうとは考えられるが、概して言えばその半分は前節同様に「文章」で語る小説と「絵」で描く漫画との媒体差に起因していると考察できる。

魔法少女育成計画』シリーズはそもそも「魔法少女」という本来女児向けコンテンツであるジャンルのガワを流用し、その魔法少女らに殺し合いをさせるという、ある種のオタク向けパロディ作品である。
そのため本質的に、作中のビジュアルイメージに関しては読者らの「パロディ元」についての共有知識を利用している面がある。

 

作中で魔法少女がポーズを決める時、華麗に飛び跳ねる時、必殺技を放つ時、我々読者の側ではプリキュアよろしく一般的な「魔法少女アニメ」の定番シーンの記憶が参照される。
それは概してキラびやかで可愛らしいものだろう。
そしてその上で『魔法少女育成計画』では、そういったシーンを極めて抑制的に、極端な言い方をすれば無味乾燥な筆致で描く。
何故無味乾燥に描かれるかと言えば、それは視点役を務める魔法少女ら本人が既に「魔法少女」という存在を「キラびやかで可愛らしいもの」だと思わなくなっているからだ。

 

そうした視点で特に第1作の無印『魔法少女育成計画』を評すれば、本来「魔法少女」という存在にキラキラとした無邪気で純粋な憧憬を抱いていたスノーホワイトが、その憧憬を血に染めるまでが無印の物語なのである。
冒頭と終盤での魔法少女に対する描写のコントラストこそが無印のコンセプトと言って良い。

閑話休題

ともかく『魔法少女育成計画』シリーズでは、実際にはアニメで見るような可愛らしい魔法少女達が動いているシーンを描写しながら、その筆致はあくまでドライで淡々としているという二重性がある訳である。
もちろん全てのシーンがそうである訳ではないが、『魔法少女育成計画』シリーズは概ねそうしたビジュアルイメージの二重性を巧みに利用しながら作中の雰囲気を構築している。

 

さて翻って漫画版『restart』である。
既に言わんとしている事が分かった人も多いとは思うが、原則的に漫画は「絵」による表現形態である。
原作における上記の二重性において、魔法少女の設定上のビジュアルイメージはあくまで「前フリ」であると言える訳だが、コミカライズの場合その「前フリ」こそが物語の「主体」になってしまう訳だ。
可愛いらしいデザインの萌え絵の少女達が、個性豊かで魅力的な魔法少女の衣装に身を包んで、飛んだり跳ねたりしている訳なのだから、それを真っ当に漫画として絵にすれば、必然的に賑やかで華やかな紙面になってしまうのは当たり前である。
必然的に原作において通底していた厭世的な雰囲気は一定以上脱臭され、正統派の「かわいい女の子を楽しむ漫画」の様相が一定以上出始める。

 

好例として、1つのシーンを漫画版、原作からそれぞれ抜粋する。

 

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演技がかったハイテンションな名乗りをする2人の魔法少女に困惑するシャドウゲール、というコミカルなシーンだが、このシーンの原作における描写が以下の通りとなる。


 青色のワンピースに白い毛のマントを羽織り、白黒ストライプの尻尾を生やしたその姿は、魔法少女以外の何物にも見えない。さっきまでなにもなかったはずの空間に、魔法少女が立っていた。シャドウゲールはさらに後退った。
 少女は両手の小指と人差し指を立て、腕を顔の前でクロスし、右膝を曲げ、左膝を伸ばすという苦しそうな姿勢でポーズを決めた。
「戦場に舞う青い煌き! ラピス・ラズリーヌ!」
 マスクド・ワンダーは少女の目前まで近寄り、右手を上げ、左手を腕の前で曲げ、足を大きく開いた「勝利のポーズ」をとった。
「我が名はマスクド・ワンダー! 力ある正義の体現者『魔法少女』!」
 数秒間見つめ合い、どちらからともなくポーズを崩し、お互いに右手を差し出して握手をした。よくわからないが、本人同士は通じ合っているようだ。

この前後でも、特にシャドウゲールのリアクションはセリフでも地の文でもこれ以上は書かれていない。
原作ではマスクド・ワンダーとラピス・ラズリーヌ両名による「正義のヒーロー」のロールプレイじみた言動を、一歩引いた視点でシラけた風情で描写するシャドウゲールだが、漫画版では2人の個性の強さと勢いに飲まれて、彼女達側の土俵でコミカルにツッコミ役を演じていることが分かる。
原作でいくら文章ではドライに書かれていても、このシーンを実際にビジュアル化しようとすればハイテンションなギャグシーンとして描くしかない訳で、漫画版の描写はそうした媒体差に的確に対応した形と言えるだろう。

 

ストーリーの本筋にはほとんど関与しない程度の改変ではあるが、こうした微妙な差異が積み重なることで、漫画版『restart』は作品全体の雰囲気が原作から「大きく」とまでは言えないものの、確実に変化している。(一方できらびやかな魔法少女らが血塗れになるビジュアルが直接描かれることで凄惨さが強調される面もまた確実にあるのだが)
さらに言えば、それと同時にキャラクターの印象にもいくつか差異が見られる。
原作ではリアルな険悪さのあったペチカグループ内の不和が、コミカルなドタバタ風味に描かれ、ウザったさも感じたチェルナーマウスのワガママに、幼女の微笑ましさが入り交じる。

 

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概して言えば原作に比べると全体的に毒っ気が抜け、ストレートに「可愛らしい女の子」に印象が寄っていると言って良い訳である。

 

これらの差異について、ここまでは「小説と漫画の表現形態の差による自動的な帰結」として評してきたが、一方で(当然ながら)それが理由の全てでは無く、作者の意図による積極的な改変でもあることがいくつかの描写からある程度伺える。

 

特に重要な例が漫画版の冒頭数ページである。

こちらで1話が無料公開されているので、確認して頂きたい。

魔法少女育成計画 restart 無料漫画詳細 - 無料コミック ComicWalker

 

漫画版の主人公であるシャドウゲールこと魚山護と、その主人でありパートナーであるプフレこと人小路庚江の両キャラクターの性格と関係性を簡潔に描いたシーンとなる。
前述の通り元々原作上巻ではシャドウゲールは明確に主人公と言えるような位置にはおらず、シャドウゲールに視点が初めて移るのは2章中盤、ページにして64ページからとなる。
そこでシャドウゲールは漫画版同様にプフレと自分との関係性について記述するが、少し長いもののこちらも比較として引用したい。


 プフレはぶれない。現実世界でシャドウゲールとコンビを組んでいた時となにもかわっていない。自分が考えることは他人のためになることだ、だから当然他人も従うのが当たり前だという自分中心主義者だ。傲慢で自分勝手だ。
 魚山護の近くにはいつだって人小路庚江がいた。それは魔法少女になってからも変わらなかった。魚山護が魔法少女「シャドウゲール」になり、人小路庚江が魔法少女「プフレ」になってからも、プフレの背中を護るようにシャドウゲールがついて回った。
 護が庚江を尊敬していたとか、大好きだったとか、依存症だったとか、そういう事実は護の名誉に誓って一切ない。
 他人の上に立つことを当然と思い、敵を追い落とす時はサディスティックに追い討ちをかけ、身内以外は家畜か奴隷かゾウリムシかミカヅキモ程度にしか考えず、なのに、自分は典雅で優しく愛されるべくして愛されていると本気で思いこんでいる。
 誰よりも近くで庚江を見続け「こいつホントひでえな」と思うことにさえ飽き、それでも護は庚江の傍らにいなければならない。
 人小路の家は、先祖代々綿々と金持ちだ。蓄えて肥えて太って転がって現代まで続いてきた怪物のような家柄だ。
 庭石に使った金高がサラリーマンの生涯年収をはるかに超えている。町内一つ分を埋める屋敷のために、ついた地名が人小路で、駅もバス停も全て「人小路邸前」だ。庚江に向かって石を投げた悪餓鬼の家は、翌日遠くへ引っ越した。
 そして魚山家は、代々人小路家に仕え続けている。両親から聞かされた護という名前の由来は「お嬢様をお守りできるように」からも護の存在意義がわかるように、物心つく前から従者として庚江の後ろに立ってきた。それを嫌がれば大人から怒られる。
 護は後ろに立ちながら庚江への賞賛を聞かされた。人小路に取り入ろうとする者のおべっかや阿諛追従が六割をしめたが、四割は的を射た賞賛だったように思える。
 お嬢様学校の中にあって学業スポーツともに全国トップクラス。ただし飽きっぽいため特定のスポーツをやりこむことはない。均整のとれた身体、すれ違う十人中八人が振り返る派手な見目。幼稚園、小学校、中学校、高校と全ての中心に庚江がいた。
 そのことによって護がひねくれたりねじくれたりといったことは当然あっただろう。しかし幼い頃から「人小路の家にお仕えする」ことを当然のように教えられ、世間を知ってからは両親や自分をシニカルに見えるようになった。


原作と比較すると、漫画版ではシャドウゲール(護)はプフレ(庚江)に対し文句を言いながらもどことなく距離の近さが感じられ、2人の関係性は愛着を持ちうる腐れ縁感とでも言えるような描写へとかなり大胆に改変されていることが分かる。
原作に無く漫画版で「足された」シーンとしては、この改変は現時点で最大のものであると言って良い。
当然ながら、シャドウゲールを単独主人公に据えるとしても、原作と同じようにプフレとの関係性をドライでシニカルでビジネスライク寄りなものとして描写するという選択も出来たはずである。
にも関わらず、原作に存在しないエピソードを用いて2人の関係をコミカル寄りなものへとシフトさせている点に、単なる媒体差では説明できない作者の主体的な意図が見える訳だ。

 

この改変が第1話の冒頭シーンに置かれているという所に、『restart』の原作小説と漫画版における差異がある意味では集約されていると言えるのである。

(ただし一応追記しておくと「プフレ(庚江)がシャドウゲール(護)の顔に落書き」というシーン自体は、前後の状況は大きく違えど、後の短編集『episodes』に収録されたエピソードからの流用だったりする)

 

弱者と強者の物語

前2節では、原作小説と漫画版における差異について「表現媒体の違い」に主に着目し論じてきたが、最後に原作で描かれているテーマ部分、特に人間ドラマに焦点を当てた際のコンセプトについて少し掘り下げた上で、現在連載中断中の漫画版『restart』における今後の展望について触れておきたい。

 

16人という大量のキャラクターが同時並行的に物語を進める『魔法少女育成計画』シリーズの場合、一口に人間ドラマと言ってもそのコンセプトを端的に言い表すのは難しい。
が、その上で『魔法少女育成計画』シリーズ、特に『restart』における人間ドラマを概観する足がかりとして一つのキーワードを用いるとすれば、「弱者と強者の物語」という視点が考えられる。
16人の魔法少女達が突如として殺し合いをさせられるのがシリーズの基本骨子であり当然ながら『restart』も同様だが、劇中でプフレは自分たち魔法少女らについて「戦う魔法少女」と「戦わない魔法少女」の2種類が存在すると評した。
プフレの言葉は単に「各魔法少女の固有特殊能力は戦闘に特化したものとそうでないものがある」という程度の話だったが、物語上特に重要な役割を与えられたキャラクターの内面的特徴に焦点を絞ると、彼女らは概ね、強い意思を持って殺し合いゲームという特殊状況に立ち向かう(ないし積極的に殺し合いに参加する)「強い魔法少女」と、確固たる目的意識を持たないまま状況に対し消極的に流される「弱い魔法少女」に分類できる。
物語の進行は概ね「強い魔法少女」が牽引し、そしてそれを主に「弱い魔法少女」の視点から描くのが『魔法少女育成計画』である。
上記の観点から極端に単純化させて『魔法少女育成計画』シリーズのコンセプトをより詳しく表現すると、「弱い魔法少女らが強い魔法少女らに巻き込まれ、殺され、護られる物語」だと言えるのだ。

 

『restart』がペチカとシャドウゲールのダブル主人公の構造を取っていることは前述の通りだが、2人は決して「強者」ではない。
引っ込み思案で自分に自信の無いペチカは基本的にグループの他の魔法少女についていくだけで、生まれながらの従者であるシャドウゲールはプフレの指示通りに動くだけで、両名共それぞれ主体的能動的に行動するシーンはかなり限られている。
典型的な「弱者」に属するこの2人の視点から物語が描かれるのが『restart』なのである。
(そしてミステリー小説としての『restart』における「犯人」であるのっこちゃんが、その両方の属性を併せ持った存在であるというのが本作最大の仕掛けなのである)

 

ペチカとシャドウゲール両名の「主人公」としての役割は大きく異なる。

 

ペチカの属する魔法少女グループは概して仲が悪く喧嘩が絶えない。気弱で積極性の低いペチカは諍いの度にオロオロするだけだが、一方で自身の能力で生み出す料理によって場を和ませることで、彼女はチームのつなぎ役となっている。
ペチカのチームは諍い合いながらも協力しつつゲームを進めるが、ペチカが後方で怯えている間に1人また1人と死んでいく。
物語終盤、メルヴィルという「強い魔法少女」相手に、自分の命と引き換えにチーム唯一の生き残りのクランテイルを守るという形で、ペチカは最期を遂げる。
状況にオロオロと流されるだけの「弱者」であったはずのペチカが、最後に勇気を振り絞り機転を利かせ、「強者」たるメルヴィルに一矢報いる、というこのシーンが『restart』におけるハイライトの1つとなっている。

 

一方、シャドウゲールは基本的に物語を通してプフレとの2人チームであり、他のキャラクターとの交流は非常に乏しい。
正確には序盤でマスクド・ワンダーも含めた3人チームを組んではいたが、ドラマとして言えばマスクド・ワンダーとシャドウゲールとの間に内面的な交流は無いに等しい。
シャドウゲールは作中を通して、一貫して幼少期からの主人であるプフレに(内心では悪態を付きながら)付き従うだけである。
その当のプフレは、戦闘能力こそ無いものの、冷静沈着、頭脳明晰な「強者」であり、誰が敵で誰が味方か不明瞭で混迷する物語内において、16人の魔法少女の中でも最も我々読者に正確な情報を提供してくれるキーキャラクターだ。
物語の要所要所にてプフレが現状の状況整理と謎解きの推理をシャドウゲールに披露し、シャドウゲールの視点を通して我々読者は物語の全体構造を把握する。
『restart』では最終的に生き残った魔法少女はシャドウゲールとプフレを含めわずか3人だが、プフレが謎を解き、真犯人を見つけ出すことでこの3人は生存に成功する。
シャドウゲール自身はそんなプフレの活躍をただそばで見ているだけに過ぎない。
シャドウゲール自身は物語上はあくまでワトソン役に過ぎず、彼女自身は人間ドラマにはほぼ関与していないと言って良いのである。

 

端的に言うのであれば、物語全体の概観役をシャドウゲールが担い、人間ドラマ部分の成長物語をペチカが担っている訳である。
(そしてそんなシャドウゲールが生き延びて、勇気を振り絞り「強者」に一矢報いたペチカが死に絶えるのが、『魔法少女育成計画』なのである)
(ただしここは少しだけ嘘があって、シャドウゲールにもプフレとの関係性において「弱者と強者の物語」として見た時に一箇所ドラマポイントがあったりする。が、それもあくまでプフレ側からのアクションであって、シャドウゲールは『restart』作中では最後までほとんど能動性は見せない)

 

さて、こうして原作の構造を腑分けした上で見えてくるのは、漫画版『restart』がシャドウゲールを単独主人公とし、ペチカを実質脇役として扱っているという事実の重要性である。

 

単独主人公化した事そのものは、ごく単純に表現媒体の差と尺の問題だろうとは推測される。
前述した通り『restart』も含め『魔法少女育成計画』シリーズでは、短期スパンで複数キャラクター間の視点変更を目まぐるしく行うことで物語の全体像を描く構成となっているが、この技法をそのまま漫画に導入するのはほとんど不可能に近い。
実態としては小説であってもこの技法は読者の混乱を招きやすく、実際原作シリーズにおいても第1作の無印『魔法少女育成計画』を除く『restart』以降の作品では、視点変更時には毎回どのキャラクターの視点かが太字で明示されるという潔い処理がなされている。(逆に言えばそうした潔い処理も可能なのが小説の利点と言える)
原作のようにペチカをシャドウゲールと同格の主人公に据えるのであれば、丸々1エピソードごとペチカ視点の話を複数回挿入する必要があり、単純に言えば現状の倍近いページ数を費やさなくては難しい。
そして、そこでどちらかを単独主人公にしようとした場合、終盤とは言え途中退場が定められているペチカではなく、状況の全体像を把握しつつ最後まで生存するシャドウゲールが選ばれたのも自然な流れと言えるだろう。

 

しかしながら、『restart』において人間ドラマの側面の中核を担っているのは間違いなくペチカなのである。
ペチカ視点抜きには「弱者と強者の物語」をフレームワークとして見た時の『restart』においてカタルシスを得るのは困難であると言わざるを得ない部分が大いにある。

 

が、一方で「単に視点を失っただけ」と簡単に言い難いのが漫画版『restart』の極めて興味深い点の1つである。
個人的感覚も強く混入しているとは思うが、ここで原作から比べて漫画版『restart』にて大きく魅力が向上したキャラクターを2人挙げておきたい。

 

1人はラピス・ラズリーヌである。

 

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屈託無く真っ直ぐな性格で最後まで正義の魔法少女として戦い続けたラピス・ラズリーヌは、息苦しい展開の続く原作中でも一種の清涼剤的な役割を果たしているが、漫画版では彼女の天真爛漫さがコロコロと変化する表情や体全体を使った感情表現が絵によって表現されており、一層魅力的に描かれている。

 

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キャラクター的にもデフォルメされた表情や漫符による表現がマッチしており、ページの端で複数人同時にいる時でも強い存在感を放っているシーンが少なくない。

 

もう1人はメルヴィルだ。

 

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ゲームに参加しつつ他の魔法少女らを密かに次々と殺していたメルヴィルは本作最大の「悪役」の1人である。
訛りの強い東北弁で喋るのが特徴の彼女だが、正直読みづらさのデメリットの方が勝っていた感のある原作に比べて、漫画版では16人中でも特に「美人」よりのビジュアルとのギャップが非常に効果的に描かれている。

 

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翻訳係をラピス・ラズリーヌが務めているが、無表情で凛としたビジュアルが表情豊かでチョコマカ動くラピス・ラズリーヌとが良いコントラストとなっており、魅力的なページが多い。

 

この2人のキャラクター魅力が漫画版にて特に向上している点は、上記の「弱者と強者の物語」という角度から『restart』を捉える際に非常に重要となる。
と言うのも、この2人が『restart』内でも屈指の「強い魔法少女」だからに他ならない。
原作『restart』にて「弱い魔法少女」の視点から描かれる「強い魔法少女」らは、恐怖、畏怖、畏敬、憧憬と共に描かれることが多く、少なくとも「理解者」「共感者」としてはほとんど描かれない。
極端な言い方をすれば、「弱者」にとって「強者」はあくまで「異物」である、というのが『restart』なのである。
ラピス・ラズリーヌとメルヴィルの2人が原作に比べて特に魅力的に描かれているのは、単純に「性格的にコミカルな動きをさせやすい」「セリフと外見のギャップが漫画の方が効果的に描ける」という、これまた媒体差による所も大きいのは確かである。
が、その上で作中屈指の「強い魔法少女」であるこの2人が特に魅力強化されているという事実自体は、ペチカ視点が取り払われている点と含めて、今後の展開が与える印象に何がしかの影響を持つであろうと個人的には思う。
それがどのような影響となるかについては現時点では明確なことは何も言えない。
その答えを得るためには、連載再開を待つ必要があるだろう。

 

 

既に何度も繰り返しているが、漫画版『魔法少女育成計画restart』はあくまで原作小説をできるだけ忠実に漫画という表現形式に落とし込んで描かれた、極めて「穏当」なコミカライズである。
本記事では原作との相違点についていくつかの観点に着目し評してきたが、漫画版『restart』の本質はあくまで「穏当なコミカライズ」にあり、ここで述べた内容はむしろ本質外の枝葉に過ぎない。
のであるが、本記事で挙げた細かな相違点が、多少ながらであるが原作に無い漫画独自の魅力とオリジナリティを生成しているのも事実である。

漫画版『restart』は現在連載中断中だが、現状最新話でおよそ原作の3分の2を消化した段階にある。
原作ではここから一気にストーリーは苛烈な方向へとさらに雪崩れ込み、「血みどろ」と呼ぶにふさわしい魔法少女同士の殺し合いが展開され始める。
漫画版『restart』は現時点までがそうであったのと同様に、十中八九原作の展開を忠実に踏襲するだろう。
が、その場合でも(媒体が違う以上当たり前の話ではあるが)原作と「全く同じ」にはなり得ないはずだ。
そこには何がしかの漫画版固有のオリジナリティが発揮されるはずである。
その固有性を追う際に、本記事で取り上げた要素の着目が、読解のなにがしかのヒントになるであろうことを筆者自身は期待しておきたい。

 

 

 

はい。という訳で以上、漫画版『魔法少女育成計画restart』感想でした!

やー、「基本的に原作に忠実で作家性はあまり出さない」類のコミカライズ作品の感想とか多分ほぼほぼ初めて書くので、普段とは色々勝手が違う所もあって、大変ではあったけど、これはこれで楽しかったし色々勉強になった感あり。

えー作者ののりせんさんにも、色々興味深い話聞かせて頂きありがとうございました。

望!連載再開!

 

という訳で今日はそろそろこの辺で。

皆いろいろ大変だろうけど、劇レコ完結までは生き抜くぞ!

それでは皆さんもお大事に。