「劇場版GのレコンギスタI 飛べ!コア・ファイター」閃光試写会感想 映画ってのはこう作るんだよ!

はい。という訳で毎度恒例、ブログの方ではお久しぶり、あでのいです。

 

twitterのフォロワー諸氏の方々は既にご存知とは思いますが、行ってきましたよ福岡市美術館の劇場版Gのレコンギスタ閃光試写会(変換ミスだが気に入ったのでそのまま)。

『Gレコ』です。

Gのレコンギスタ』です。

ガンダムGのレコンギスタ』です!

 

思えば5年前、このブログを立ち上げたそもそもの目的が『Gレコ』感想のためでした。このブログのレゾンデートル自体が本来は『Gレコ』にあったと言っても過言ではありません。ブクマ数人気上位4つがドラゴンボール西野亮廣と理系学習漫画シン・ゴジラとで埋められてる状況は何かの間違いかなんかとしか言いようが無い訳ですよ(それはそれとしてお読みいただいた方々ありがとうございます)。
遂に『Gレコ』が始動した事により、ようやくこのブログの本来の姿をこれから取り戻す訳ですよ。

 

「劇場版GレコI 行け!コア・ファイター」、率直に言って最高でしたね。最の高ですよ。
いやー、閃光試写会行けて良かった。twitterで指を咥えて試写会組の盛り上がりを見てるだけとか発狂してる所でしたよ。けど今回は俺がお前らを発狂させる側!羨ましかろう! っふうううううーーーーー!!!!

 

という訳で今回は劇場版Gレコの完全ネタバレ感想です! 本当は富野監督のお墨付きも貰えたしtwitterでガンガン呟いちゃおっかなーとも思った訳ですが、まあやっぱりネタバレ忌避派もなんやかんやで多いし、ブログにしとこうと思った次第です。「ネタバレなんかで映画の価値は変わんねえよ!」という方は是非とも読んで頂ければ良いんじゃないかなーと思います。

 

 

はじめに

さて、まず最初に重要な話として、そもそも劇場版Gレコ(以下、劇レコ)は今回の試写会が最速という訳ではない。世界最初の一般公開は1ヶ月以上前のフランスはパリのJapan Expoで行われてます。基本的にネタバレオールオッケーな私は、パリ在住の日本人や、現地フランス人のレポート記事を読み漁っていて、いくつかの劇場版の改変部分については把握済みでした(一応補足しておくと、私自身はフランス語はビタイチ読めない。フランス語は機械翻訳でも英語への翻訳は結構精度が良いのでGoogle翻訳して英語で読んだというのが実際のところ)。

 

で、その中で「あ、これは……!」と思ったのが何かと言ったら、クリムの初登場シーン(「ジャベリン、ありがとうね!」のあの一連のシーン)が削られているという情報。これは正直結構デカい話で、クリムの初登場シーンはわずか1分半足らずの間に完璧に「クリム・ニック」というキャラクターを説明し切っている序盤の名シーンの1つなんだよね。
と、いう事はですよ。そのクリム初登場シーンが削られているという事は、下手するとクリムのキャラクター性そのものがテレビ版からズラされてる可能性すらある訳だ(まあ実際はクリムに関してはこの予想は外れてたのだが……)。

 

こりゃあ下手にテレビ版の印象が頭に焼き付いたままだとそっちに引っ張られて劇場版単体の内容を読み違える可能性があるぞ。とまあ、そんなふうに考えた私は、『劇レコ』鑑賞前に予定していたテレビ版の復習を取りやめた次第でして。まあ何が言いたいかって言うと、一応テレビ版比較で『劇レコ』について語るけど、結構記憶違いとか勘違いとかもあるかも知れんよ、という事前注意な訳です。

 

テレビ版からどのくらい変わってた?

で、まず重要なのは「ザックリどんくらいテレビ版と違ってるのか?」って話なんだけど、まず今回の第1部、上映時間がほぼ95分。テレビ版と同じオープニングがあって、エンディングは名曲「Gの閃光」がフルで流れるので、まあ大体それ差っ引けば本編分の時間は90分って所。この90分を使って5話までやってる(正確には6話のAパートもちょろっと)。
さてこれを時間換算して考えると、どうなるか。

 

テレビ版がOPとEDを抜かした本編時間が1話21分なので、これが5話分で105分。つまりテレビ版を単に繋ぐだけでも、わずか15分間削れば成立してしまう訳だ。
で、実際そうなってる。確かに劇場版で足されたシーンもあるにはあるけど、完全な新規カットに関しては、映画内トータルしても4、5分かそこらしかないはず。もちろんそれとは別にテレビ版のカットを改めて書き直したシーンも結構あるみたいで、さらに言えば同じシーンでもセリフが微妙に違うシーンがちょこちょこあるのだが、個人的体感で言えば今回の劇場版、8割か9割方はテレビ版と同じ内容だと言って良い。

 

となると当然、皆さんこう思う訳ですよね?

「じゃあテレビ版見てれば劇場版見る必要ないの?」

ところがどっこい、そこが凄まじい話で、コレがまあテレビ版と全っ然違うんですよ! いやーヤバかったね。「映画なんざあ1割変えれれば別物に出来るんだよ」っつう富野マジックですよマジで。
という訳で、以下の節では劇場版Gのレコンギスタが、テレビ版と比べてどう変わったか、どういう目的で変えられたのかについて細かく語っていきます。


分かりやすい!

テレビ版と比べて、一番分かりやすい最大の変更点と言ったら何と言っても冒頭部分。空から降ってきた謎のモビルスーツ(=Gセルフ)を、カーヒルグリモアとデレンセンのカットシーが追いかけるシーン。
テレビ版では直接的な戦闘は特に無かったこのシーンで、かなり大幅にグリモアvsカットシーの戦闘シーンが足されてる。
上で「完全新規カットは4、5分かそこら」と書いたけど、ここだけで1、2分は足されている。

この追加シーンが一体何のためかと言ったら、単純にしょっぱなからMSのドンパチアクション見せるっていうサービスシーンの意味合いもあったろうけど、それ以上に重要なのは、ここで「敵対する2勢力が存在する」という情報を明示していること。これがテレビ版だと実はかなり分かりづらかったりする。
そもそものデレンセンのこのアニメ最初のセリフが
「坊主頭に先を取られた」
だったのだが、これが劇場版では
「”アメリア軍の”坊主頭に先を取られた」
に変わっており、ここでも「別の軍隊と軍隊がチェイスをしている」というのを強調してる。これにより「一方の勢力がMS本体を接収し、もう一方の勢力がバックパックパイロットを回収した」というのも分かりやすくなっている。

 

とにかく『Gレコ』への批判で多かったのが「分かりづらい」だった訳で、個人的にはその分かりづらさこそが『Gレコ』の魅力であるし、ある程度以上は分かりづらい作りも意図的なものだろうと思っているが、それはそれとして富野監督自身はテレビ版『Gレコ』の分かりづらさに関してかなり反省している模様。

 

この冒頭シーンの追加が示す通り、とにかく『劇レコ』はテレビ版に比べて分かりやすくなっている。
他にも重要点としては、舞台移動についてかなり意識的に混乱しないように注意して描いてる印象がある。テレビ版だと回と回の間に移動が済んでいたりしたけど、そこを細かくカットを繋いで「今ここからここに場面が変わりましたよ」というのが分かるような絵を追加してる。
特に目立ったのは第2ナットのハイヤーンで、テレビ版では銀色一色だった外観が、かなりカラフルーな色彩に変更されている。
この点については、試写会後のトークイベントで詳しく語られていたので参照されたし。

 

こんな感じで絵による説明シーンが足されている『劇レコ』なのだけど、ここで注意して欲しいのは、『劇レコ』の(テレビ版と比較した)「分かりやすさ」の一番のキモは、実は「説明が増えたから」という単純な理由では無い。
そもそも論として大筋のストーリーそのものは基本的に全く変わっていないのであって、勢力が分散して敵味方がハッキリしないという、『Gレコ』の「分かりづらさ」の根本原因は残ったままなのだから、多少説明シーンが増えたからと言って劇的に解消されるものではない。

 

では何故『劇レコ』は「分かりやすい」のか? それは「どこに注視してストーリーを追えば良いのか?」がハッキリした作りになっているからである。これについて次節で語る。

 

ベルリ君の性格が違う?

最も目立つ追加変更シーンは上記の冒頭MS戦シーンだと上で述べたけど、それはこのシーンが追加カットの中でも最も「まとまったワンシーン」だから。これ以外の追加変更シーンは、かなり細々と本編内に散りばめる形で配置されている。
で、『劇レコ』を語る上で最も重要なのが何かと言ったら、その本編に散り散りに配置された追加変更箇所の大部分が、ベルリとアイーダという主人公2人のキャラ描写と内面描写に関する部分に集中しているという点なのである。

 

特にベルリに関しては、キャラクターそのものがテレビ版と比べて印象がかなり変えられてる。
まず最初の宇宙実習時、クラウン内でのデレンセン教官からのレクチャー時、ベルリ君の生意気な口答えがかなり減らされていて、デレンセンの質問に結構素直に答えている。
次にアイーダのクラウン襲撃時、テレビ版ではこの緊急事態にベルリ君は割とワクワク気味で、先行してアイーダに応戦したトリーティに対しても「先を越された!」的なニュアンスを感じたけど、ここも劇場版ではどちらかと言うと「トリーティが行くなら加勢しよう」くらいのニュアンスになるように、要所要所で微妙にセリフが変えられている。

とにかくベルリ君に関しては、テレビ版に比べて全体的に生意気度が減っていて、割と素直気味の少年になってる。

 

ただし一方で逆に変更されていない部分も考えると、本質的な人間性の部分は本編を踏襲してもいるなとも思う。
初登場シーンではテレビ版同様に、デレンセンのムチを躱すシーンから始まるし、個人的に重要だと思うのが、チアガール達を追いかけてる時に階段で先輩に嫌味を言われたシーン。
先輩「運行長官の息子だからって、クンタラの女子を引き込む権利なんてないんだぞ」
ベルリ「呼んじゃいません」
この会話は劇場版でも特に変更が無かったのだけど、個人的にこの会話がベルリ君を語る上での第1話の最重要シーンの1つだと思っていて、ここでベルリ君は仲の良いガールフレンドを被差別民として侮辱されてる訳なんですよね。
普通の熱血漢だか正義漢的主人公だったら、当然ここは先輩に怒りをぶつけるか、そうでなくても何らか反発的なリアクションを示すもんなのだけど、ここでベルリ君がとったのが「サラッと受け流す」という言動で、この辺りに「根本的に他人の境遇に無頓着気味なナチュラルボーンエリート」というベルリ君のアニメ主人公としての特殊性があるように思う。(善良には違いないのだけど下々の者に対する共感性が足りないというか何というか)

 

でまあ、その辺の深層部分でのキャラ性はともかく、少なくとも表層的にはベルリ君の生意気ではねっかえりで飄々とした所が、テレビ版に比べて『劇レコ』ではかなりなりを潜めている所がある。 

 

嘘をつかないベルリとアイーダ

で、そういうベルリ君のキャラ性の違いがアニメのドラマ全体にどういうふうに作用しているかという話が重要な訳なのだけど、元々ベルリ君の飄々とした態度ってのは、端的に言うと「本心の見えなさ」に繋がってるんですよね。

 

『Gレコ』の特殊性は色んな部分にその原因があるのだけど、その中でもかなり重要なのが、アニメ全般、いやフィクション全般の中でも突出してキャラクターが「嘘をつく」という点だったりする。
『Gレコ』のキャラクター達はとにかく他のキャラクター達に対して、自分の感情や考えを場面場面で取り繕ったりで、容易に本心を見せない。それどころか、我々視聴者に対しても「これが本心です」と開示してくれることがほとんど無い。
その辺の描写の特殊性は本来『Gレコ』のアイデンティティに近いものでもあったが、そこが『劇レコ』では大きく路線変更されてる。より具体的に言うと、主人公であるベルリとアイーダの2人に関して、その内面がかなりストレートに表出されるようになっている。

 

特に印象的だった明確な追加・変更シーンをいくつか列記

1. 3話前半部分、ベルリが調査部のクンパの部屋に訪問した際に、アイーダが奥の部屋から出てくるシーンで、テレビ版では踊りながら現れたのが、劇場版では駆け込むように入ってきて「人殺し!」とベルリを糾弾するシーンに変更
2. 4話前半部分、メガファウナに到着後、ドニエル艦長からの尋問(?)の後でベルリの「僕は一体こんなところで何をしているんだ?」的なモノローグが追加
3. 5話前半部分、ベルリがカーヒルとの戦闘を回想し「あの人(アイーダ)はあの時(カーヒルグリモアに)殺されそうになったことを忘れているんだ!」とモノローグと共に憤りを露わにするシーンが追加
4. 5話終盤部分、マスク部隊を退けた後でアイーダがドニエル艦長に「ベルリを褒めてやれ」と諭されたシーンと、MSデッキのベルリのもとに行くシーンとの間に、アイーダパイロットスーツをロッカーにひどく乱暴に押し込む(蹴り入れる)シーンが追加

 

上記1番目のシーン、テレビ版の元のシーンは驚き続きの『Gレコ』の中でもかなりのインパクトがあった。なにせ何の脈絡もなく突如踊りながら登場するのだから、一体どういう意図のもとのシーンなのか、本放送中には多くの視聴者が困惑した。
この時のアイーダの心情については、富野とかBLOG坂井さんの記事が考察として極めて説得力がある。要するにアイーダはベルリに対し、自身の精神状態を欺いて余裕を見せようとしているらしい訳だ。
その後、エピソードを重ねる中で『Gレコ』の世界観ではダンスやステップが感情表現やコミュニケーションの手段として一般に使われているらしいということが描かれて、ある程度このシーンの謎が解けた感がある。
で、つまる所このシーンではアイーダがベルリと、そして視聴者の我々に対して「嘘」をついてる訳だが、このシーンが劇場版では、ベルリに対してカーヒルを殺された事への怒りをストレートにぶつけるというシーンに変更されている。アイーダの内面が直裁に開示されている訳である。

 

3話から5話にかけてのエピソードで最も分かりづらいのが主人公のベルリ君の内心で、テレビ版はこの辺りでほとんど「これがベルリの本心」と視聴者がハッキリ確信できるようなシーンがほとんど皆無に近い。この時点ではメガファウナの中で半ば捕虜的な立場にいるベルリだから、海賊クルーらに対して弱みを見せる訳にはいかないので、ベルリは常に余裕の態度で周囲と接する。それはそれで良いのだが、その「余裕の態度」が視聴者達に対しても崩されることが無いので、我々視聴者はベルリが何故海賊船に居座り続けているのかがよく分からない。
ただし、テレビ版でもベルリの動機に関して一切描かれていない訳ではなく、「キャピタルガードとしてスパイをやっている」「カーヒルを殺してしまった償いをする」など、いくつかの(相反した)動機が断片的には語られている。実態としては「何を考えるか全く理解できない」と言うより「どれが本心なのか確定できない」とした方が視聴者感情としては正確な表現だと思う。

 

で、2番目と3番目の追加シーンはそこにある程度の「解答」を与えた形になる。この2シーンがあることで、ベルリが状況に流されるまま気がつけば敵国の戦艦に居座るはめになり、それについて内心で焦りを抱いている事と、気になる年上の女性である所のアイーダから「人殺し」と罵られることについて、納得のいかなさを強く抱いていることが分かる。
特に3番目のシーンが追加されていることで、ベルリがGセルフで出撃することを申し出るシーンでアイーダに向けて言った「返せる借りじゃないけど、返せる努力はします」のセリフと合わさって、ベルリが海賊達に協力する理由に、アイーダに自分を認めて貰いたいという欲求が大きく関わっていることがハッキリと分かるようになっている。

 

最後の4番目の追加シーンに関しては、テレビ版と比べて明示的に何かが変化したり、新情報が開示された訳ではないが、極めてストレートに怒りを露わにするシーンが挿入されることにより、ベルリに対して内面を押し殺しながら接している事や、そのすぐ後の泣き崩れるシーンで、テレビ版に比べてアイーダに対し強く感情移入できるようになっている。

 

ボーイミーツガール!

実のところ正直な話をすると、上記のテレビ版からの修正に対して、中盤くらいまでは私自身は「やー、確かに分かりやすくはなってるけど、こういうふうに日和って良いのかあ?」みたいに思ってた節がある。
上でも軽く触れてはいるが、『Gレコ』におけるキャラクターの誰も彼もが腹芸を使い、視聴者にすら内面が開示されない作りは、このアニメの極めて重要なアイデンティティの1つでもある。あらゆるキャラクターのあらゆる言動が、特に内心には立ち入らずフラットに描かれることで、テレビ版の『Gレコ』はある種の「究極の群像劇」とでも言うような作劇になっている。
だもんで、上記の『劇レコ』におけるベルリの内面をストレートに描写する改変は、そうした『Gレコ』のアイデンティティを放棄する行為に見えた訳だ。でまあ、実際その辺確かに放棄してはいるのだけど、第1部を最後まで見て分かったのは、これらの改変が単に「分かりやすくするため」という単純な目的でなく、5話分のストーリーを「1つの映画」として成立させるためのものだったという事だ。

 

重要なのは上記の内面描写の追加・変更が、ほぼ全てベルリとアイーダの主人公2人に対して集中している点であり、そしてそれらの改変シーンが特にベルリからアイーダアイーダからベルリへの感情描写に割かれているという点だ。
とにかく『劇レコ』では3話パート以降、アイーダがベルリに対して常に辛辣で、延々と怒るか糾弾するかしている姿ばかりを見せる。ベルリの方もそんなアイーダに対するリアクション描写が追加されたことで、映画全体の印象として常にアイーダ相手に一喜一憂しているような印象を受ける。
で、そんな2人の緊張状態が90分間続いた末に、5話ラストのアイーダの大泣きシーンがドラマとしてのクライマックスに来る訳だ。

 

もう1つ重要な改変シーンをつけ加えると、シーン単位での改変ではないが、5話パートの戦闘シーンでアイーダに一ヶ所台詞が追加されている。コアファイターで出撃したベルリがGセルフにドッキングしようとするも十字砲火に怯むシーンで、アイーダがベルリに向かって「キミならできます!」と叫ぶ。これが追加台詞な訳だが、この台詞がカーヒルが死んだ直後に「このコクピットを元に戻してカーヒルを私に返してください! いきなりMSに乗ってカーヒルと戦えたあなたなら、そのくらいの事できるでしょう!?」とベルリを締め上げながら言った台詞とちょうど対になっている。映画一本を通した主人公とヒロインとの関係性の進展が明示的な形で提示されている訳だ。
これが映画として無茶苦茶まとまりの良い構成になっていて「これがあのとっちらかってたGレコ!?」と衝撃すらある。

 

元来『Gレコ』の分かりにくさの原因となっているのの1つに、「あらゆるテーマと要素がパラレルかつフラットに進行する」という作劇の特徴がある。ストーリー要素1つ1つはある程度理解可能であっても、それがハイスピードで同時進行することで、どこに注目すれば良いかが分からなくなるのだ。
これもこれで『Gレコ』の特徴の1つではあるのだが、ある程度の繰り返し視聴と1話ごとに情報を整理する時間が与えられるテレビシリーズではともかく、1本の映画でそれはやれない、という判断がおそらくあったのだろうと予測される。

 

「Gレコとはどういうアニメか?」という質問に答えるのは極めて難しい。多岐にわたるテーマやコンセプトが同時進行しながら描かれ、台詞による明示がほとんど存在しない『Gレコ』のストーリーを一言で表現するのは不可能に近い。
それに対し『劇レコ』は、「ベルリとアイーダのボーイミーツガール物」とザックリ言ってしまうことが実質的に可能となっているのだ。

 

これは一本の映画として無茶苦茶デカい。そもそも論として、多少組織図や勢力関係が複雑な映画の場合、観客の多くは実の所、ストーリーの全体像を正確に把握していない場合が多い。例を挙げると国民的アニメとして認知されている『風の谷のナウシカ』だが、ペジテとトルメキアと風の谷の関係を正確に理解している視聴者がどれだけいるか、という話なのである(少なくとも俺の姉貴は5回以上見ているくせに全くと言って良いほど理解していなかった)。それでもメリハリの効いたアクションシーンを重ねながら「気高く心優しい少女が命を張って人々と蟲達を救うお話」としてナウシカの行動にのみ注目させれれば映画はエンタメとして受容されるのである。

 

視点の固定化

以上のようにベルリとアイーダ2人の物語に仕立て直している訳だが、先にテレビ版の『Gレコ』を「究極の群像劇」と評したが、そういう意味で言えば『劇レコ』の場合は群像劇的な作りから、視点をある程度2人に固定化した作劇に修正している。
2人の内面描写が増えているからというだけではない。細かい部分の改変例として1話部分の戦闘シーンに言及すると、一連のシーンからデレンセンとルインの会話シーンと、Gセルフコクピット内の描写が大幅に省略されている。これはこのシーンで観客をあくまでベルリ視点に固定しようとしているように思われる。特に後者の省略が重要で、これによりアイーダの顔が画面に映るのがかなり後になっている。この段階ではあくまでアイーダは「謎のMSに乗る謎のパイロット」としてベルリ視点寄りに描かれているのである。

 

アイーダ側の改変としては、カーヒル周りに細かい修正がある。2話パートでカーヒルグリモアGセルフに対し攻撃行動をとる前の台詞が、テレビ版では「アイーダ様がバックパックを背負って動かすか? 敵対行為!」だったのが、最後の「敵対行為!」の部分が「アイーダ様では無いな!」に変わっている。テレビ版ではギリギリ、アイーダが裏切った可能性も視野に入れている節も見れるカーヒルだったが、劇場版ではシンプルに「アイーダが乗っていたとは知らずに攻撃した」という構図に固定されている。
もう1点はクリムの台詞部分で、モンテーロでキャピタルに向かうクリムが「あの年でふざけているから!」と死んだカーヒルに愚痴る台詞が丸々削られている。
ザックリ言うとカーヒルのネガティブポイントがテレビ版に比べて縮小されており、カーヒルのキャラクターが「アイーダにとってのカーヒル」として固定化されていると言える。

 

他にもデレンセンの撤退時の男泣きシーンなどのテレビ版シーンがいくつか細かく削られているが、テレビ版比較で削られたシーン、残されたシーン、追加されたシーンを並べていくと、「ベルリorアイーダ視点」が最優先されていることがハッキリと分かる。
もちろん、『Gレコ』のストーリー自体は本質的に複数のキャラクターがそれぞれの思惑で動く群像劇であることにはテレビ版も劇場版も違いはないが、その力点の置き方が大きく変えられている訳である。

  

 

という訳で、以上『劇場版GのレコンギスタI 飛べ!コア・ファイター』の感想でした。他にも文中で言及してない改変シーンも沢山あるのだけど、現時点である程度まとめて語れるのはこんくらいかなー、と。一本の映画に直すための細かい修正、特に話と話とを繋ぐテクニックとか無茶苦茶面白いので、テレビ版視聴済みの人も絶対見た方が良い。
やー、それにしても興奮した興奮した。実際そこまで大きく変わってないはずなのに、単に1話から5話まで見るのとで視聴後印象がこんだけ変わるもんかっつう衝撃ですよ。「映画ってのはこうやって作るんだよ!」という富野監督の声が聞こえてくるかのようだった。
好みの話だけで言えば、テレビ版のピーキーな作りが無茶苦茶好きすぎて、まだ1部だから分からんのだけど、劇場版がこういう作りになるなら、最終的にはテレビ版の方が好きってことになるかなーって気もしてる。ただまあテレビ版と同じ物がお出しされるならテレビ版があるからええねんって話なので、とにかく新しい形の『Gレコ』が見れたってのが嬉しくて仕方ないんだよな。

 

とりあえず思いつくままに書いてはみたものの、結局のとこ1回しか見てないので、細かい所で記憶違いとかもあるかも知れんがその辺はご愛嬌。他の参加者の人らも何人か劇場版のネタバレ感想上げてるので、そっちもチェックしてみると良いかもだぜ。

 

やーとにかく本当見れて良かった閃光試写会! 皆マジで首を洗って後3ヶ月間期待してろ! 元気のGだ!
これで1話からまたしっかり見直せるしグダちんさんのベルリの殺人考察記事もようやく読み直せるぜふうううううううう!!   以上あでのいでした!終わり!

 

オマケ