鉄血のオルフェンズ22話までとりあえず感想「ドラマになる死とならない死」

 ブログの方ではお久しぶりですあでのいです。皆さん年度末いかがお過ごしでしょうか。
 えー、鉄血もそろそろ2クール目終了間近なので、この辺でちょっと語れることでも語っておこうかなと思って筆をとった次第です。


 1話時点で殺伐オーラが全開だった鉄血ですが、中盤割と楽しそうな雰囲気の珍道中を経て、10話辺りからは継続して主要キャラクターの死に別れが描かれるという殺伐作風へ回帰しています。
  鉄血は元々非常に理路整然として無駄の無い物語構成となっています。ほぼ全てのシーンが物語において何らかの意味性を持ち、無駄な描写というのがほとんどありません。伏線が丁寧に張られ、視聴者に混乱を与えない程度の間隔を置いて丁寧に回収されます。劇中で重要なシーンは視聴者の記憶に残りやすいよう「重要なシーン」として強く強調され、同程度の重要度のエピソードを平行して描くことは出来るだけ避けて作劇されております。
 「鉄血のオルフェンズ」というアニメは、驚く程に正しい作劇論をベースに紡がれています。(そしてそれと対照的な全く正しくないアニメの作り方が貫かれているのが何を隠そう「Gレコ」だったりする訳です。→参考「『Gレコ』は何故「分からない」アニメだったのか?」)

 鉄血における「正しい作劇」は上述の「死に別れ」においても例外ではありません。ここまでで主な「死に別れ」は

・10〜13話 ブルワーズ編 昌宏と昭宏

・14〜17話 コロニー編 フミタンとクーデリア

・18〜22話 地球降下編 ビスケットとオルガ

と、ちょうど「1章につき1組ずつ」という進度で丁寧に描かれています。

 鉄血におけるそれぞれのキャラクターらの「死」は、ドラマの上でも非常に意味深いものとして効果的に描かれます。ヒューマンデブリという出自に苦悩する昭弘は、自身の出自の不幸の象徴とも言える昌弘を、火星独立の旗印としての不甲斐なさに悩むクーデリアは、幼き日から自分を支え続けてくれた姉代わりのフミタンをそれぞれ喪失します。そして鉄華団のリーダーであるオルガは、団の参謀でもあり団員全体の精神的支柱であるビスケットと今後の自分達の行き先を巡り衝突し、悩み、その上でろくに和解もできぬままに死別という悲劇を迎えます。
 彼らはそれぞれに戦場で大切な人を失くしますが、最後の言葉を受け取って、それを糧に迷いを払って決意を固めます(オルガの場合は、受け取り損ねた上でかなり危うい決意をするのですが)。

また、戦死した3人のキャラクターは、それぞれ

 昌宏 → レギュラーキャラの血縁に当たるゲストキャラクター
 フミタン → 比較的キャラの掘り下げが浅いレギュラーキャラクター
 ビスケット → 元々重要ポジションであり視聴者好感度も高いレギュラーキャラクター

と表現することができます。この3人がこの順番で死んでゆくのは、視聴者の悲劇に対する共感度が段階的にエスカレートするように配置されています。この順序がどこかで逆になっていたら、それぞれに視聴者への劇効果が薄れていたでしょう。
 
 彼らの「死」はドラマとして深い意味性を有すると同時に、視聴者の感情を揺さぶるよう非常にドラマチックに描かれまていす。鉄血で描かれる「死」は、作劇の上での強い必然性があるのです。いえ、ありすぎると言っても良いかも知れません。

 ここで少し対比として富野アニメにおける「死」についても述べておこうと思います。
 富野アニメでは、特に新しく作られた作品であればあるほどに、人の「死」を劇中で可能な限り等価に描こうという傾向が強くなっています。その「死」の描写は、時として主要キャラクターですらドラマとしての大した必然性の無いまま、名前の無いモブキャラクター同然のように雑に死んでゆきます。

 ここで富野監督の自伝記である「だから僕は」から一文引用します。

十一時間の悶絶の末に穴見薫は逝った。
何ひとつ残してくれなかった
これが残された者の愚痴なのだ
人がこんなに簡単に逝くものだとは知らなかった
ドラマにあるように遺言のひとつもあって
泣く人々にとり囲まれて逝くものだと
それがどうだ
いつ逝ったのか分からぬほどに苦しみ
切れたときには、すでに逝っていたとは!
私は、教訓さえ得られなかった

 穴見薫は手塚治虫プロダクションの重役の1人で、当時虫プロの制作体制に不満を抱えていた富野監督にとって唯一信頼できる人、とのことでした。彼の死後、程なくして富野監督は一時アニメの世界から身を引きます。少し物事をシンプルなストーリーとして捉え過ぎではありますが、富野アニメにおけるドラマから距離を置いた「死」の描写の原点には、こうした経験があるのかも知れません。
 翻って考えてみると、Gレコではカーヒルの死にせよデレンセンの死にせよ、何かしら「大切な人の死をきっかけに少年たちが成長する」というストーリーそのものを拒否しようとしていたのではないかと今さらのように思い当たります。


 さて話を鉄血に戻しましょう。
 元々鉄血は非常に殺伐とした世界観であり、フミタンやビスケットに限らず、これまでも戦場でいくらでも名前の無いキャラクターは死んでいっています。それが主要キャラクター達の「死」だけが殊更クローズアップされて悲劇として描かれるのは、一種の「劇」としての欺瞞めいたものがあります。
 勿論そうした「劇」の問題は、鉄血に限らず多くの物語において言えることであり、いろいろな作品においていろいろな解決策が提示されます。鉄血が面白いのはここからです。

 鉄血では、主要キャラクター達の死が劇中で必要不可欠なドラマの1要素として描かれるのと対比されるかのように、画面上でドラマになり得ないモブキャラクター達の死もまた明示的に描き続けられます。そしてその上で、主要キャラクターの「死」がそんなモブキャラクター達より重視される理由を劇中の中でさえ提示します。

 12話では三日月やタービンズの面々が昭弘と昌弘に兄弟同士の話し合いをさせるため、2人に近づこうとするMSを追い払います。故に彼らは思いの丈を打つけ合うドラマを演じられます。しかしその一方でそれ以外のヒューマンデブリの少年達が、三日月らに邪魔な障害物として殺されてゆきます。昌弘が他のヒューマンデブリの少年達とは違う扱われ方をするのは、彼が昭弘の弟であるからに他なりません。彼だけが「鉄華団のメンバーの兄弟だから」という理由で優遇されるのです。


 16話では、大量虐殺が行われたその中心地でフミタンの死だけが強くクローズアップされますが、それは我々視聴者が見ている画面上だけではありません。劇中の現地報道番組のカメラが、大量の死体の中で敢えてクーデリアにレンズの矛先を当て、クーデリアを庇って死ぬフミタンの姿をテレビ画面に映し出します。それはその姿が「絵」になるからであり、そしてクーデリアの存在が政治的に(すなわち物語的に)強い意味性を持っていたからです。

 アニメ「鉄血のオルフェンズ」では、キャラクターの「死」を決して等価に描きません。ドラマ上で意味のある「死」と意味の薄い「死」を残酷なまでに描き分けます。そしてそんな「死」に対する残酷さをそのまま体現しているのが、主人公である三日月自身です。三日月は人を殺すのに躊躇いがありません。道に置いてある障害物を取り除くかのように、はたまた都合の良い道具を使い捨てるかのように敵の命をあっさり奪います。
 一方で彼は自分の仲間の命には非常に敏感です。仲間を救う為ならどんな危険も顧みません。仲間を殺されて激昂するカルタの声を「うるさいな」と鬱陶しそうに振り払った直後に、同じようにカルタがビスケットを殺したことに怒髪天を突く勢いで怒りをあらわにします。

 アニメという表現は、画面上にあるモノは全て作り手が意図して描かなくてはなりません。実写のように「偶然映り込む」ということはありません。鉄血が、物語の進行上は特に意味の無いキャラクターの「死」を描き、それを三日月達に無視させた以上、それは「三日月達が自分達にとって重要でない死には特に頓着しない」ということを描こうとしているに他なりません。
 そんな三日月のパーソナリティは物語を進行する上でも有効に機能します。何故なら三日月にとっての大切な命と顧みるに値しない命の差は、多くの場合劇中における重要な「死」と意味の無い「死」に同期しているからです。

 鉄血の世界では、キャラクターによって「死」に明らかな軽重があります。そして、「死」に軽重があることそのものを、視聴者に対して露悪的とも言える執拗さで描き続けます。
 上で述べたように、富野アニメでは「死」の軽重をできるだけ均そうとして描きます。すなわち「死」を「物語」に利用することを避けようと描いている訳です。それがおそらく富野監督の「死」に対する誠実さなのでしょう。
 しかし鉄血では、ある種くどいまでに「死」がドラマとして機能します。「物語」の進行のために様々な「死」が利用されています。では、利用価値の無い死は?

 鉄血は、昌宏やフミタンやビスケットの「死」をドラマチックに劇的に描写した上で、ドラマチックでない死の存在を視聴者に突きつけ続けます。それを露悪的とも趣味の悪さとも言うことは出来るでしょうが、そこに私は富野アニメとは別方向の一種の「誠実さ」を感じるのです。
 「死」という要素をドラマのため、物語のために利用する。それは鉄血に限らず数多のフィクション作品において行われていることです。しかし、そこにはやはりなにかしらの歪さがある。その歪さを、歪なままに描いた上で、歪であるという自覚(のようなもの)も同時に描く。それがおそらく鉄血の選んだ方法であり、物語に対する誠実さの1つのありようなのではないでしょうか。


(いやまあ個人的好みで言えばなんぼなんでも悲劇の一個一個が「劇的」すぎねえかってのはあって正直そこら辺好きになれねーんだけどね。ただその「劇的」さに対するエクスキューズの誠実さは好感が持てます、という話)
(あと、結構22話の展開が初動の私の感想とリンクする所多かったので、読んで頂けるとありがたいなーと思ったり → 鉄血のオルフェンズ1〜3話感想「三日月の成長物語?」