富野アニメは「巨大ロボット」をどう描いたか?

さて皆様お久しぶりです。あでのいです。
シン・ゴジラの記事がブクマ数でGレコ記事を越えたことにより、ブログの人気記事ツートップが富野と無関係になってしまったので、そろそろ気合入れて長めの富野記事も書いておこうと思った次第であります。

富野アニメを「富野由悠季(喜幸)監督作品」と定義すると、その作品総数は以下のようになります。

TVシリーズ 19作品
劇場アニメ 11作品
OVA 2作品

 計32作。そしてその内で「ロボットアニメ」と分類できる作品は29作。非ロボットアニメはわずか3作のみであり、その内、全編通して監督したTVシリーズは原作付きの「海のトリトン」のみ。あとは途中交代で後半のみ監督した「ラ・セーヌの星」、3話限りのOVA作品である「ガーゼィの翼」のみです。つまり、(今更のようではありますが)富野アニメはその大部分がロボットアニメであり、富野アニメについて語ることはロボットアニメについて語ることと半ば同義と言えるわけです。
 という訳で今回は、富野アニメにおいてロボットが、すなわち「巨大な人型の乗り物」がどのように描写・演出されてきたかについて、時系列を追いつつ語ってみようと思います。

※先に注意しておきます。長いです。相当長いです。これとほぼ同じ内容の話を、今年の10月30日に開催される富野監督作品オンリー同人誌即売会トミケット4にて、壇上でスライド発表する予定ですので、「興味はあるけど長い文章読んでらんない」という人はトミケット4に参加すると良いと思います。今ならまだサークル参加も受付中だそうです。(宣伝)
「長くても大丈夫。読む」と言ってくださる方は以下どうぞ。


大きなロボットと小さなロボット –無敵超人ザンボット3–

 さて、「時系列を追って」富野ロボットアニメについて論じるのであれば、本来はロボットアニメ初監督作品である「勇者ライディーン」から、ないしは長浜アニメの富野コンテ回などから始めるのが正当であろう。が、本記事ではあくまでトータルでの監督作品に限定して、少々片手落ちではあるものの、「無敵超人ザンボット3」から話を始めようと思う。
(「ライディーン」に関してはバンダイチャンネルに存在していないため、正直に言えば私の環境では正確に話を進めるのに難がある、という事情もある)

 ザンボット3はそれ以前のサンライズロボットアニメの「コンバトラーV」や「ボルテスV」よろしく、比較的小型のメカが複数合体して完成する巨大ロボットである。しかし、ザンボット3にはコンバトラーやボルテスには無い1つの特徴がある。それは、主人公である神勝平の乗る合体前小型メカもまた巨大ロボット、ザンボエースであるという点だ。つまり「ザンボット3」には主役ロボットと呼べるロボットが都合2体存在していると言えるのである。
 この2体の主役ロボット、ザンボエースとザンボット3はその機体サイズが大きく異なる。そもそもザンボエースが他の2機のメカと合体してザンボット3となっているのだから当たり前だ。設定上の全高はザンボエースが30メートル、ザンボット3が60メートルとされている。この「サイズの違い」は、ザンボエースとザンボット3の作劇上の役割を強く差別化させるのに一役買っている。

 ザンボエースの場合、戦闘パートでは基本的にはザンボット3の前座扱いで、活躍するのはむしろ各話の前半パート、いわゆるドラマパートにおいてだ。ザンボエースは勝平専用の乗り物として単独行動も多く、難民船に救援物資を届けたり、友達を助けたりと、勝平の手足となりドラマを進める役を果たしている。


 ここで重要なのは、印象的ないくつかのカットでザンボエースが人物キャラクター達と同一画面上に映されているという点だ。ザンボエースは小型であるが故に人間ドラマに介入することが可能となっているのである。
 一方、ザンボット3へと合体後は、人とザンボット3が同一カット内で対比されることはほとんどない。対比物として描かれるのはもっぱら敵ロボットや破壊される建物などの「巨大」な存在であり、ザンボット3はいわゆる「ロボットプロレス」の側面での主役のみを担当しているわけである。
 勿論、ザンボエースがドラマパートで活躍できるのはサイズだけが理由では無いが、上にあげた本編カットを見れば、ザンボエースとザンボット3のサイズの違いが重要なファクターとして働いていることが分かるのではないかと思う。
 
(とは言え、ザンボエースも設定上は30メートルでこれはサザビーをはるかに上回る全高であり、このサイズでも厳密に描こうとすると人間と絡ませるには大きすぎる。劇中で描かれるザンボエースは場面によっては設定よりもかなり小さめに描かれている)
(さらに言えば、場面によっては100メートル級くらいの超巨大ロボットとして描かれていたりもする)

 巨大ロボットは「巨大」であることそのものが子供に対する商品バリューであり、ハッタリの上でも全高数十メートルという設定自体が重要となるが、大きすぎるロボットは人物と絡めたドラマの進行には不向きであり、結果ドラマパートと戦闘パートでロボットの活躍が分断されてしまうという面がある。そうした問題に対し「ザンボット3」の場合、ドラマパートでは比較的小さなサイズのザンボエースが主役を張り、戦闘パートでは巨大なザンボット3が主役を務める、という役割分担がなされており、この2体の主役ロボットが「合体」というシーケンスを通して接続することで、人間ドラマとロボットプロレスが連続性を持って描かれるのである。

 少し富野アニメから脱線。
 こうした「合体」による主役ロボットのサイズ変化を極めて効果的に利用していたアニメとして印象深いのが勇者シリーズだ。「意志を持ったロボットと少年との交流」が一つのテーマとして描かれる勇者シリーズでは、数メートル程度のサイズの主役ロボットが主人公の少年と心の交流を行い、敵と戦う時には合体して数十メートル級の巨大ロボットとなる。


(左が合体前のデッカード、右が合体後のジェイデッカー。右の図は数少ないジェイデッカーと人間キャラが同じ画面に置かれたカットだが、逆説的に人間と一緒にカメラに映すのが難しいサイズであることが分かるのではないだろうか)

 また、直近では(ロボットアニメではないが)話題のシン・ゴジラでも、第2形態ゴジラ、通称蒲田くんが比較的小型の怪獣として、人間のアイレベルから道路や家屋などの身近な街の風景を破壊する姿が前半で描かれ、後半の第4形態に進化して以降はミサイルの直撃ももろともせず、高層ビルを次々と破壊する「巨大かつ強大なゴジラ」の姿が描かれていた。これもサイズ変化を利用した作劇上の役割分担の好例だろう。

 ところで、ロボットアニメにおいて「比較的小型の人型ロボットが別のメカと合体してさらに巨大なロボットに」というアイディア自体は「ザンボット3」が史上初という訳ではない。「ザンボット3」以前にも「UFO戦士ダイアポロン」、ほぼ同時期のアニメにも「未来ロボ ダルタニアン」「闘士ゴーディアン」が挙げられる。しかしながら、それら他作品に関しては不勉強ながら未見であるため、そこまで絡めて論じることは申し訳ないができない。
 この記事を読んだ方の中でこれらの作品にも造詣のある方がいたらコメントして頂けると助かります。

 閑話休題。以上のように、「ザンボット3」では2体の主役ロボットに対し、小さなザンボエースをドラマパートに、大きなザンボット3を戦闘パートにと、双方のサイズに見合った役割分担が行われていた。
 この「ザンボット3」の特徴、特に「ロボットを人間キャラクターと絡ませてドラマを進行させる」という特徴は、以降の富野アニメにおけるロボットの描き方の基礎となってゆく。

人とロボットが共存する世界 –機動戦士ガンダム

 「ザンボット3」から「無敵鋼人ダイターン3」を挟んで製作された「機動戦士ガンダム」では、巨大ロボットを「人との対比」によって描写するという点が、より強く意識された作品となっている。
 おそらく、今日本で「ガンダム」をロボットアニメであると一切知らずに見始める人というのはほとんど皆無であると言って良いだろう。しかし、純粋にフィルム情報のみから考えた時に「ガンダム」がロボットアニメであることに我々視聴者は一体いつ気づけるのだろうか。(OPで? それは置いとけ)

 「ガンダム」第1話の本編は、コロニーに潜入しようとする3機のザクのシーンから始まる。しかし実はこの時点ではこの緑色の人型機械が巨大ロボットであるのか、はたまたもっと小さな、それこそ人間大程度のサイズであるのかは分からないようになっている。むしろ、宇宙空間を移動するザクのシーンで流れる、くぐもった呼吸音のようなSEは、ザクを人間が「着込んだ」パワードスーツであると視聴者にミスリードしているようにすら感じられる。
 実は視聴者は、コロニーに潜入したザクが林に降り立ち木々と対比され、そして最後に胸のコクピットからパイロットが出てきて手のひらの上に立つカットを目にすることで、初めてザクを「ああ、このくらいの大きさの巨大ロボットなのか」と理解できるのである。


 第1話の冒頭、すなわち物語のスタートラインでこのように極めて意識的な演出がなされていることから分かるように、「ガンダム」では全編通して「ロボットの大きさ」と「人との対比」というファクターが作劇上かなり重要視されて描かれている。特に序盤の数話ではほとんどのエピソードで1カット以上は人とガンダムが同じ画面内に収まっているカットがなにかしら存在するのだ。



(作画レベルは気にしてはいけない。というか右下のガンダム4、50メートルくらい平気でありますよね)

 そもそも「ガンダム」におけるロボット、すなわちMSは、敵が現れてから秘密基地から発進するロボットヒーローではなく、あくまで戦闘兵器だ。言い換えるなら「人の乗り物」の一種に過ぎない。故に戦闘以外の場面でも、例えば物資の運搬にMSが使われるし、運搬される物資自体がMSであったりもする。人間達もまた敵が襲ってこなくても日常の一環としてMSの整備や訓練を行うから、必然的に人間ドラマも格納庫やコクピットの中を舞台に進む事が多い。だからこそそこにロボットの姿が入り込む。
 一方戦闘パートでは、今度は逆にロボット対ロボットの構図の中に人間達が介入する。MSパイロットは作戦の都合によってはMSを降りて行動するし、時にはジオン兵がMSに乗らずに生身でガンダムに襲撃を仕掛けたりもする。


(作画レベルは以下略。やっぱり左図のガンダムがでかすぎ)

 「ガンダム」の世界ではロボットが人間ドラマの中に入り込むし、人間もまたロボット達の戦闘の場に介入する。要するに、人とロボットが極めてフラットに扱われているのだ。だから必然ロボットと人とが同じ空間に共存した状態で物語が進むし、フィルムには常に絵的に人とロボットが同時に映る。そして、そうした「絵」の積み重ねが「ガンダム」の「巨大ロボットが存在する世界」という絵空事に、力強い説得力を与えているのである。

 この「人とロボットの共存」という方向性は次々作の「戦闘メカ ザブングル」にてさらに深化し、そこで一つの大きな「発明」が生まれることになる。

巨大すぎるロボット達 –伝説巨神イデオン

 この流れからそのまま「ザブングル」の話に繋げたいところなのだが、ここで少し寄り道して「伝説巨神イデオン」におけるロボットの描き方について触れておきたい。

 イデオンは全長105メートルという設定で、ロボットアニメの中でも非常に巨大な部類だ。このサイズまで行くと、「ガンダム」で行われていたような、人とロボットの接触描写はほとんど不可能と言って良い。ロボットがロボットとして認識できるくらいにカメラを引けば人間キャラはもはや表情などが分からないくらいに小さく映る。人が演技可能な位置までカメラが寄れば、ロボットは単なる金属の壁程度にしか映らなくなる。
 膨大な数のロボットアニメを制作している富野監督だが、そのほとんどが大きくても精々20メートル以下のロボットを主役機に設定しているのはおそらくそうした理由が大きい。そういう意味では「イデオン」は富野アニメとしてはかなり特殊な作品なのである。

 ではその巨大「すぎる」ロボットであるところのイデオンの場合、劇中でその巨大さはどのように表現されていたのだろうか? 手法としてはいくつかの演出方法を挙げることはできるが、本稿ではあくまで「人との対比」に焦点を当ててみたいと思う。
イデオンは巨大すぎて人との対比を描くのが不可能」という先の記述と矛盾するようだが、「イデオン」では少し変わった方法を用いて間接的にイデオンと人とのスケール対比を行っている。その「変わった方法」とは、イデオンの「内部」の利用だ。まず第一に、イデオンコクピットは、通常のロボットアニメにおけるロボットのそれとは一線を画すレベルで広い。もはや「部屋」と呼んでも差し支えない広さだ。そして第二に、イデオンの内部には「通路」がある。3機のメカが合体して誕生するイデオンでは、各パイロットは合体後、状況に応じてコクピットルームを出て通路を渡り別の持ち場へと移動する。劇中で主人公のコスモが「合体後の通路図が欲しい」と言っていたのが印象的だ。

 イデオンパイロットが通路を渡って部屋から部屋へと移動できるくらいに巨大な構造物なのだ。想像してみれば分かる。自分の部屋くらいの大きさの空間が丸々スッポリ内部に収まり、それがあくまで全体の一部でしかない。この時点でイデオンが20メートルや30メートルの大きさでは到底効かないレベルの巨大さであることが体感的に理解できる。このようにイデオンは、ガンダムやザンボエースとは異なる方法で巨体さを表現しているのである。これも変則的ではあるものの、「人との対比」の一種と言えるだろう。

 ところで、上述のように富野アニメの中では珍しい巨大「すぎる」ロボットのイデオンだが、富野アニメにおける100メートル級のロボットはイデオン以外にも約2体存在する。1つはダイターン3、もう1つは主役ロボットでは無いが「戦闘ロボ ザブングル」のアイアン・ギアーだ。


(左から105m、120m、129m)

 おそらくこの記事を読んでいる人達に改めて説明するまでも無いのだろうが、これら3体のロボット達はかなり近い時期に放送が集中している。「ダイターン3」が78年、「イデオン」が80年、ザブングルが82年で、ちょうど1年おきに作られていた訳である。この3体の巨大ロボットの動かし方を比較すると面白い。

 元々陸上戦艦ランドシップから変形してロボットになるアイアン・ギアーは、イデオンにおける「内部構造を利用した人との対比」が、より強く表現されていると言って良い。
 一方ダイターン3の場合、作品自体が一番古く、「イデオン」との間に「ガンダム」を挟んでいることもあってか、「100メートルを超える巨大な人型の構造体」に対する説得力、リアリティラインが他2作に比べて極端に低い。「ダイターン3」ではダイターン3の圧倒的な巨大感は正直言って十分に表現されているとは言い難いのだ(もちろんそれはコメディ路線の作風も影響しているが)。しかしながら、上述の「内部構造を利用した人との対比」に着目すると、ダイターン3の描写においても一箇所だけ面白いシーンが見つかる。
 ダイターン3は主人公破嵐万丈がダイターン3の飛行形態ダイファイターを呼び出し、自動車から変形した戦闘機マッハアタッカーがダイファイターに格納される、というプロセスを踏んで登場する。




 この一連の流れがバンクシーンとして毎話流れるのだが、マッハアタッカーの操縦席部分がダイファイター内部をレールに乗ってダイターン3の操縦席まで移動するシーンで、明らかに万丈は数十メートルの距離を移動している。このシーンにより視聴者はダイファイター=ダイターン3がかなり巨大であることが感じられるようになっているのだ。


 「コクピットが移動する」のは当時のロボットアニメにおける単なる定番バンクシーンに過ぎない、と言ってしまえばそれまでだ。だが、このわずかなシーンに、後のイデオン、アイアン・ギアーにおける描写の萌芽を見てみるのも面白いのではないだろうか。

そこから身をのり出せ! –戦闘ロボ ザブングル

 巨大ロボットをあくまで量産型の戦闘兵器として描いた点がロボットアニメとしての「ガンダム」の革新性だ。そして、それが人間とロボットとを同じ空間に配置して話を進める作劇技法と直結している、というのは前述の通りである。「ガンダム」におけるこの特色は、「戦闘メカ ザブングル」においてさらに強化される。
 「ザブングル」における巨大ロボット、WM(ウォーカーマシン)はMSのような戦闘兵器ですらない。WMは荷物の運搬や長距離移動の足、建物の建築や鉱物の採掘などにも使われ、「ザブングル」世界の住人達にとって日常生活になくてはならない汎用的な作業機械だ。ロボットアニメとしてアニメの華にロボット同士のバトルアクションが置かれているが、世界観的に言えば、WMはあくまで戦闘「にも」使われる、という程度でしかないのだ。

 そうした世界観設定を反映してか、「ザブングル」では「ガンダム」の世界よりもさらに人とロボットの距離間が縮められている。実際、「ザブングル」で人とWMが同一画面内に存在するカットは、「ガンダム」と比べても大幅に増加している。そしてそれは、「ザブングル」のメカデザインとも密接に関係する。
 人とロボットが同一画面内にいるためにはロボットは大きすぎない方が良いというのは、この本稿内でも述べてきたし、ちょっと考えれば誰でも分かることだ。「ザブングル」の場合、MSと異なり登場するWMのサイズは統一されておらず、いろいろな全高のロボットが登場する。特に「人との対比」という点で活躍するのが、全高8〜9メートル前後のトラッド11、ギャロップ、クラブタイプの3体だ。

 これら3体は劇中でも、最も日常生活に身近なWMとして非戦闘パートでも頻繁に登場し、様々な用途で使用されているシーンが描かれる。(しかも戦闘にも結構使われるのが侮れない)
 しかし、「人との対比」に着目した時に、この3体のメカデザインで重要なのは(画像を見れば即座に分かると思うが)サイズだけではない。この3体のWMには「ロボット」としての顔が無く、まるでショベルカーやブルドーザーのように操縦席が露出しているのだ。そのため、ロボットが動いている所を描けば、必然そのパイロットも同時に画面に映りこむ。ロボットを映すことがそのまま人を映すことに直結する訳だ。

 「ザブングル」において「顔が無い」ロボットはこの3体に限らない。劇中のWMは主人公機のザブングルを含む数体以外、そのほとんどがまともに顔らしい顔を持たないのだ。

 その代わりと言うべきか、ガラス張りの操縦席が外部から見える位置に存在し(「ザブングル」の世界では映像技術自体がほとんど世の中に浸透しておらず、WMの操縦も肉眼有視界で行われる)、WMを何らか主体的に画面に映そうとすれば、その中心には操縦席に座るパイロットが映し出されることとなる。しかも、キャノピー越しでは不十分とばかりに、WMのパイロット達はしばしばハッチやキャノピー部分を開け放ち、操縦席から身を乗り出して自己主張をする。

 そんな脇役メカのパイロット達に負けじと、と言って良いのかは分からないが、本来「顔」をちゃんと持っているはずのザブングルまでもが、「目」のキャノピー部分を開放して、そこからパイロット達が大きく身を乗り出だす。


ザブングルのサイズが左右で全然違うことには目をつむろう)

カメラ映像も通信機器もほとんど存在しない「ザブングル」の世界では、何か主張したいことがあれば操縦席から身を乗り出して、大声を張り上げるのが「常識」なのだ。

 こうした描写・演出により、「ザブングル」ではロボットのサイズ感が実感をもって視聴者に伝わり、サイズ感の実感は「巨大ロボット」というアニメの絵空事に強い存在感を与える。単なる設定レベルではなく、肌感覚レベルで「ロボットが存在する世界」が説得力を獲得するのだ。また、ロボット同士の対峙するシーンであっても、人間のキャラクター達がダイナミックに身振り手振りの演技をし、決して無味乾燥な絵面にはならない、というメリットも無視できない。

 この「ロボットに乗るパイロットキャラがコクピットから身を乗り出して演技をする」というシーンは、次作の「聖戦士ダンバイン」においても度々見られる。


コクピットから身を乗り出す」という演出技法が、いかにロボットアニメを描く上で強力だったかの証左ではないだろうか。この「発明」は以降も富野アニメの定番演出となってゆく。

 ……と本節を締めくくれたら格好がついたのだが、不思議なことに以降の富野アニメ数作でこの「コクピットから身を乗り出す」というシーンはあまり使用されなくなる(無い訳でも無いのだが)。あくまで私見ではあるが、「重戦機エルガイム」「機動戦士Zガンダム」「機動戦士ガンダムZZ」の3作とで、永野護小林誠らといった才気溢れる新世代のデザイナー達が「ロボットデザイン」の新たな新機軸を切り開いたものの、「ロボットアニメ」としてはそのデザインを活かし切れずに終わった感が若干ある。
 「ザブングル」で発明された「コクピットから身を乗り出す」という技法は、空白期間を挟んで90年代以降の富野アニメにおいて大きく花開くこととなる。

(※なお、「ザブングル」「ダンバイン」のロボットの描き方を語るのであれば、同時期の高橋良輔監督作品の「太陽の牙ダグラム」「装甲騎兵ボトムズ」の2作品との影響について論じないわけには本来いかないのだが、ここでは話を拡散させないため、あくまで富野アニメにのみ焦点を絞って書くので悪しからず)

小型化するMS –逆襲のシャア機動戦士Vガンダム

 前節の終わりで、「コクピットからパイロットが身を乗り出す」という技法が「エルガイム」以降であまり使われなくなったと書いた。アニメブームが飽和点に達し始めていた80年代半ば頃の富野アニメでは、それ以前の作品と比べてロボット描写、メカニック描写として進歩している面はもちろん多くあるのだが、こと「人との対比」を主眼におくとすれば、むしろ後退した感すらある。
 その原因を一つに絞って語るのは迂闊ではあるが、その中でも大きな原因の一つとして、やはり「ロボットが大きすぎる」という難点があったのではないだろうか。ガンダムシリーズに限って言えば、初代のRX-78ガンダムが18メートルで、それ以降はZガンダムが20メートル、ZZが22メートル、νガンダムが24メートルと巨大化の一途を辿っている。νガンダムのサイズともなれば、頭部から少し離れた位置に人を立たせると、ほとんど人型をしているようには見えなくなってしまう。もちろん、逆にνガンダムのキャラクターがハッキリ分かるようにカメラを引いて描けば、今度は人間の方のキャラクターが分からなくなってしまう。


 アニメの場合、実物や実際に作成したセットなどを使って撮影している訳では無いのだから、ロボットの大きさくらいシーン毎の都合によっていくらでも調整してしまえば良い、という考え方もある。正論だ。実際、ここまで述べてきた話と矛盾するかも知れないが、富野アニメでもシーンの都合によってロボットの大きさはかなり変動する。「劇」を描く以上はあくまで「設定」よりも「描写」が優先されるのだ。

 しかしながら、コクピット周りの場合なかなかそうもいかない。設定書通りにコクピットの出入り口とそこにいるパイロットを同時に描けば、必然その周囲のロボット全体の絵も設定書通りに描かなくてはならなくなる。容易にロボットの大きさを変えることはできないのだ。となると、パイロットがロボットに乗り込むシーンで、パイロットとロボットを同時に個性をもって描くことは不可能になる。厄介な問題なのだ。
(と言いつつ、「ガンダム」や「ザブングル」くらいだと、コクピット周りも相当容赦なくサイズが伸び縮みしてる。大概が単なる作画ミスで、時代の差を感じさせる)

 と、ここまで書けば、多少ガンダムシリーズに造詣のある方は既にピンと来るのではないだろうか? 「機動戦士ガンダム逆襲のシャア」では、一箇所、致命的なMSのサイズミスが存在するのは有名な話だ(どう考えても意図的なので「ミス」と呼ぶべきではないのだが)。シャアがサザビーに乗り込むシーンである。以下の画像をネット上で見かけたという人は多いのではないだろうか。

 シャアが乗り込む瞬間、サザビーの大きさは7、80メートルというサイズになっている。設定では26メートル程度なので、優に3倍だ。設定至上主義者からすれば眩暈の出そうなシーンだ。プラモデルでも、内部構造まで再現したMGシリーズでは、サザビーコクピットの処理に相当苦心した形跡が見られる。
 しかし、設定的には致命的に間違っているこのシーンだが、演出効果という意味では「ロボットに乗り込む」シーンとしては非常に素晴らしい。シャアが乗り込み、ハッチが閉じてMSの顔になり、モノアイが光って起動する。この一連のシーンでMSの巨大さ、モノアイの構造というメカニックの魅力、そしてシャアという重要キャラクターと、その愛機サザビーとの同一性が流れるように「絵」で説明されている。見事と言うしかない。(まあMSの巨大さに関してはサイズ的に間違ってはいるのだが)




 逆説的に言えば、演出上素晴らしいこのシーンが設定上のMSサイズを大きく逸脱することで描写されているという事実自体が、サザビーはじめ「逆襲のシャア」のMSが演出上は不都合なまでに「大きすぎる」ことを意味しているとも言えるのではないだろうか。

 そうした反省があったから、とは断言できないが、その後の「機動戦士ガンダムF91」において、劇中のMSサイズは15メートル程度にまで一気に縮小する。「逆襲のシャア」のνガンダムが24メートルだったので、約3分の2にまで縮められた訳だ。
 実際、「ガンダムF91」では冒頭から敵も味方もMSの操縦中にコクピットハッチを開いて直接会話するというシーンが多用される。



(冒頭のガンダンクR44はさらに10メートル以下という小サイズ)

 また、それ以外の整備シーンなどでも、自然にMSと人とが絡んだ絵が実に自然に描かれているのが分かる。逆襲のシャア冒頭におけるνガンダムの登場シーンと比較すると、人との絡めやすさの差が一目瞭然なのではないだろうか。


 その次作であるTVシリーズの「「機動戦士Vガンダム」」でも、MSサイズは引き続き15メートル前後に設定され、当然のように「人とロボットの対比」はふんだんに多用される。何といっても、第2話(本来の第1話)で主人公のウッソがMSと初めて遭遇するシーンは、パラグライダーで滑空していたウッソが突然現れたMSの胸にしがみつくという、アクロバットなシーンなのである。


また、Vガンダムの場合(後継機のV2の場合も)、コクピットの位置が「コクピットからパイロットが身を乗り出す」というシーンを描く上で非常に都合が良い。胸の上部にハッチがあるため、ハッチを開いて立ち上がるとちょうどそのすぐ後ろにVガンダムの「顔」が映るのだ。従来のガンダムのように腹部中央にあるより、ずっとコクピットから身を乗り出すシーンでロボットのキャラクターが認識しやすくなる。劇中ではコクピットハッチを開いて主人公のウッソが立ち上がり、その背後にVの頭部が映るというシーンが何度も見られた。


「3機の戦闘機が合体して1つのMSに」という制約上、コクピットの位置まで指定する程の余裕があったのかは何とも言えない所だが、F91も同じ位置にコクピットハッチがあったことと、その演出効果とを考えれば、富野監督からの指示があったとするのも、あながち無茶な想像ではないのではないだろうか。

 大きすぎるロボットは人と絡ませづらくなることを富野監督は以前から分かっていたはずで、そもそも何故「ガンダム」から「逆襲のシャア」にかけてMSを巨大化させたのかという点で疑問はある。ガンダムシリーズの主力商品であるガンプラが、1/144という統一スケールを採用している以上、MSサイズに関してバンダイ側から要請があったという可能性も否めないが、そこは推測の域を出ない。
 とにもかくにも、「ザブングル」から生まれた「コクピットから身を乗り出す」という描写技法は、約10年の期間を経てMSの小型化を伴い一気に花開いた訳だ。この技法は(今度こそ本当に)以降の富野アニメにおける定番演出となったのである。

コクピットはどこにある? –ブレンパワード∀ガンダム

 前節で軽く触れたが、「コクピットから身を乗り出す」というシーンを描く場合、コクピットをどこに位置させるかが非常に重要となる。コクピットをロボットの頭部付近に配置することで、人間とロボットとを自然と同じカット内で表現することができる訳だ。
 しかし、そうした視点で見た時に、富野暗黒期間を挟んで「Vガンダム」の次作として作られた「ブレンパワード」は我々の目にはとても奇妙に映って見える。「ブレンパワード」劇中のロボット(と厳密には呼べないが)であるブレンパワードとグランチャーは、その股間部分、より直接的に言えば「子宮」の位置にパイロットのコクピットが存在するのだ。



 「子宮の位置にあるコクピット」という設定はそれだけでそこにテーマ性を見出してしまいたくなるところではあるが、本稿ではあくまで絵的な演出効果にのみ話を絞る。

 ブレンパワードの設定全高は12メートルと、F91Vガンダムと比べてもかなり小さい。サイズの面では人と絡んだ絵を描くのにブレンパワードは非常に適している。しかし一方で、コクピットをここまで頭部から離れた特殊な位置に置いてしまうと、パイロットがコクピットから身を乗り出すカットでは、ロボット側のキャラクターは殺されてしまう。
 では演出の上でブレンパワードコクピット位置は失敗なのかと言えば、実はそうではない。逆に面白い効果が生まれているのだ。

 上でも少し触れたが、ブレンパワードは正確にはロボット(人の乗り物)ではない(そもそも狭義ではロボットは自律機械であるべきなので、乗り物はロボットと呼ぶべきではないという話はあるのだが、それは置いといて)。ブレンパワード達はそれ自体が意思を持った生命体であり、パイロットがいなくても自分たちの意思で動くことができる。パイロットはあくまでブレンパワードの協力者、教導者という立ち位置だ。
 すなわち、ブレンパワードとそれに乗り込むパイロットとは、あくまでそれぞれ独立した別のキャラクターなのである。

 例えば、通常のロボットアニメで、あるロボットとあるロボットが対峙した状態のカットで両パイロットの会話が音声で流れるシーンがあったとする。この時、視聴者の目からは2体のロボットと2人のパイロットキャラクターは完全に同一視される。言わばロボットが人間キャラクターの「分身」と化すのである。
 しかしブレンパワードでは、そういったシーンがかなり少ない。ブレンパワードパイロット同士が会話する際は、高い割合でカメラは腰の位置、すなわちプレンパワード自体のキャラクターが認識できない位置に配置され、会話はコクピットから身を乗り出したパイロット同士により行われる。
 ここではブレンパワードパイロットと同一視されることは無くなる。さらにこのシーンに続けて、会話の最中にパイロットがブレンパワードの顔を見上げて同意を求める、といった演技が入ったりもすれば、ブレンパワードパイロットはキャラクターとしては完全に分断され、視聴者にあくまで「別の存在」として認識される。




要するに「ブレンパワード」では、コクピットがロボットの頭部から離れた位置に置かれることで、パイロットとロボットをキャラクターとして分離させている訳だ。
 ブレンパワードやグランチャーのデザインがそうした画面効果を狙って作られたものであるかどうかは定かではない。むしろ、正直に言えば単なる結果論であると考える方が自然なように思える。が、結果論であったとしても、そうした画面効果を演出する結果になったことは確かである。
コクピット股間の位置にあることは他にもいくつか作劇上都合の良い効果が得られているのだが、その点についてはここでは触れずに置いておく)

 「ブレンパワード」では全てのロボットが同じように子宮の位置にコクピットを持っていたが、その次作「∀ガンダム」では、MSによってコクピット位置にバラツキがある。その中でも面白いのが主役機の∀と、ライバル機のターンXの比較だ。
 ∀のコクピットブレンパワード同様、股間の位置に配置されている。一方でターンXの場合、ロボットアニメ定番の頭部がコクピットとなっている。このコクピット位置の違い自体が、実は∀とターンXとのキャラクター性の違いに直結している。


 主人公のロランは∀に対してどこか距離を置いて接している。
 例えば、「ガンダム」の主人公アムロ・レイは、ガンダムパイロットであることを自分の重要なアイデンティティの1つとしていた。だからそのアイデンティティを奪われそうになればホワイトベースから脱走したし、独房の中で「僕が一番ガンダムを上手く使えるんだ」と叫び声を上げた。アムロにとってガンダムは自分の「分身」に近い存在だったのだ。
 それに比べるとロランは明らかに∀に対する愛着が薄い。ロランのアイデンティティはむしろディアナ様に仕える従僕としての自分の中にあり、「ホワイトドールパイロット」という立場はあくまでディアナの役に立つための手段でしかない(そもそもローラ・ローラという偽りの自分な訳で)。ロランは∀を自分の手足や分身かのようには認識しておらず、あくまで便利な(そしてそれでいて極めて恐ろしい)「道具」として扱っているのだ。

 他方、ターンXパイロットであるギム・ギンガナムはロランと全く対照的に、ターンXを自分の手足のように自由自在に操り、自分の身体の延長、自身の分身として扱う。ターンXが敵MSを撃破して決めポーズをとる時、我々視聴者はまるでギンガナムがコクピットの中で同じポーズをとっているかのように錯覚する。ギンガナムがコクピットの中で高らかに笑い声をあげる時、我々にはまるでターンXが大声で笑っているかのように聞こえる。

 そんな2人の自機MSに対する精神的な距離感の差が、2機のターンタイプのコクピットの位置と奇妙に符合する。∀と距離を置いて接するロランは、∀の顔から遠い股間部に乗り込み、ターンXを自分の分身のように操ってみせるギンガナムが、キャラクター性の「核」とも言える頭部に乗り込む。
 劇中、ロランが∀のコクピットに座りながらマニュアルを読み、∀は自動操縦で一定の速度で歩いている、というシーンがあった。

 このシーンにおいて∀とロランとの同一性は完全に消失している。一人で動く機械人形のシートにロランはロランでただ乗っかっているだけなのだ。実に象徴的なシーンではないだろうか。

(とか言ってるとこういうシーンもあったりするのが曲者なのだが、まあそれは棚に置いといて)

 ターンXが戦場に赴く時、ギンガナムがコクピットに乗り込みハッチが閉まることで、ターンXはその目に光を灯す。まるでターンXというキャラクターはギンガナムが操ることで初めて命が吹き込まれるかのようだ。ロランが手を離していても勝手に歩いてくれる∀とは違うのだ。



 この差は単なる偶然だろうか。
 ミードガンダムによれば、∀の股間の位置のコクピットは富野監督からの指示が最初にあってのものであり、またターンXコクピット位置に関してもミード氏本人のデザイン案では本来胸部にある。頭部をコクピットとしたのは日本側スタッフの判断のはずで、これも富野監督の意向と考えて間違いないだろう。
 であれば、そこに意味性を見出すのは決して的外れではないはずだ。
(ぶっちゃけ監督含むスタッフがそう意図してなかったとしてもそれはそれでえーねん。重要なのは作り手の意図でなく視聴者に対する画面効果)

 「ガンダムF91」と「Vガンダム」において確立された「パイロットがコクピットから身を乗り出して演技する」という演出は、「ブレンパワード」と「∀ガンダム」において「どの位置から身を乗り出すかで、キャラクター性を表現させる」という発展を見せているのだ。

「今」と「これから」 –ガンダムGのレコンギスタ

 このように発展していった富野アニメにおける巨大ロボットの描かれ方だが、系統だった分析はここまでにしておこうと思う。だがそれは、富野アニメにおけるロボットの描写方法が完全に完成し、発展の余地が無くなったことを意味する訳では決してない。「∀」以降、「OVERMANキングゲイナー」「リーンの翼」「機動戦士Zガンダム 」と、リメイク含め新たな富野アニメが発表されていったが、その度に我々は、今まで見たことの無いロボットの描き方に出会い、感動してきたのだ。
コクピット位置の違いによるキャラクター性の表現については、「∀」後はほぼ行われていない。複数の年代・作品・設計思想のMSがごった煮で会することができる世界観の「∀」だからこそできた手法なのかも知れない)

 ここでは最後に、最新作「ガンダムGのレコンギスタ」から、特に筆者の目を引いた描写を少し紹介しておく。



 第3話にて、MSモンテーロとそのパイロットのクリム・ニック初登場のシーンだ。MSのコクピットハッチのすぐそばで身振り手振りの演技でキャラクターをしっかり立てて、その直後にMSにサッと乗り込み出撃する。という新キャラ新MS紹介のお手本のような名シーンだ。
 が、ここで注目したいのはこのシーンそのものより、モンテーロのデザイナーである刑部一平氏による以下のツイートだ。

モンテーロコクピット周りには、本来クリムがこのシーンで乗っていた台座は無く、富野監督の要請によって生まれたギミックとのことだ。「Gレコ」ではメカデザインはほとんどデザイナーの好きにやらせて、上がった案は片っ端から採用したという話が関係者発言などから分かっているが、その中で数少ない富野監督からの要請が「コクピット周りで人が演技させれるように」という内容だったというのは、非常に示唆的ではないだろうか。

 コクピット周りのアイディアとして触れておきたいのが、主人公機Gセルフコクピットハッチに取り付けられたワイヤーだ。劇中ではこのワイヤーを使用してパイロットらの非常に多彩な演技やアクションが描かれる。



 単なるワイヤー1本があるだけなのだが、その1本のワイヤーが備わるだけで、これだけ描写に幅広さが生まれるのかと正直驚いた。

 モンテーロのお立ち台にせよ、Gセルフのワイヤーにせよ、キーワードは「人とロボットをいかに絡ませるか」にある。この2例を挙げるだけでも、富野アニメがいかに「人との対比」を重要視して巨大ロボットという虚構を描いてきたか、そしていかに今でも新たな表現を模索しているかが、ハッキリと伝わってくるのではないだろうか。


 少し現実的な話をしよう。おそらく、おそらくだが、私たちが今後望める富野アニメの新作の数は、そんなに多くはない。しかし、きっとその数少ない新たな富野アニメが、また新たなロボットの表現で、私たちを驚かせ、楽しませてくれるはずだ。その時に、この記事がわずかばかりであっても、その楽しみを後押しする役割を果たせれば幸いである。

 ここまでの長大な文章を読んでくれた君に、感謝の心を!

 最後に、富野監督本人の言葉を監督の著作から抜粋し、それを結びの代わりとさせて頂く。

 フィクションの上のマシンなら、人物との対比や、乗り降りの描写をすることが、人とマシン(背景になる)の関係性をしめすことになって、劇的な意味性もあらわれたりしますから、粗雑に扱っていいということはありません。作品独特の劇空間を構成する演出をすることはできなくなるからです。
 観客が、マシンのどこにコックピットがあるのか分からないまま終わる作品は、褒められたものではありません。
 特別なマシンの場合、それをいつも画面のなかに映しこんでおくだけで、作品の個性を表現することになりますから、劇の進行にのせて自然に見えるように配置します。さらには、マシンの性能も描く必要があるのですから、メカの設定書やキャラクター表を目の前において、コンテを切る癖をつけるのです。

富野由悠季「映像の原則」より

(本文中にもあるけど、富野アニメ以外のアニメへの寄り道は、自分でも見てないものが多いこともあって極力避けたので、もし「これが抜けてるじゃねーか」「あれの影響無視しちゃダメだろ」ってのがあったら、誰か補足記事の一つでも作ってくれたらうーれしーなー)
(あと、途中から「身を乗り出す」でなく「ハッチを開ける」の部分の方がキーファクターだなーって気づいたけど、まあ良いやで最後まで書きました)


追記

コメント欄にて、グダちんさん(id:nuryouguda)から、全天周モニターなど含む「コクピット内部からの観点での富野アニメのロボット演出」について非常に内容のあるコメントをいただきましたので、興味ある方は是非。
本記事で抜け落ちてる「エルガイム」〜「ZZ」のロボット描写についても補足していただいています。