えー、これは冬コミのGレコ批評本の総括章の1節を転載したものです。まあサンプルみたいなモンです。
内容は以前にブログにアップしたこちらの記事→「Gレコが失敗した理由と、今後Gレコを46年語り継ぐために」のブラッシュアップ版みたいなモンです。基本論旨はほとんど変わりませんのでご注意下さい。
「分からない」 『Gレコ』の感想(特に初見時に顕著である)における代名詞と言っても良い一言だ。本書の各話解説においても何度かその点について触れてはきたが、ここでは再度『Gレコ』の「分からなさ」に焦点を当てて、その理由と意味について考えてみたいと思う。
『Gレコ』が「分からない」と言われる時、「何が」分からないのかは大きく分けて3種類に分類できる。(何についての分からなさを指しているのかが噛み合っていない場合、議論がうまく成立しないことが多い)
まず第一に挙げられるのが、世界観設定や勢力関係、キャラクター達の相関図や目的、現在位置などの難解さ、すなわちストーリーそのものの分かりにくさだ。ストーリーが難解である理由として、「専門用語の多さ」や「陣営の多さと関係性の複雑さ」などを挙げてきたが、ここでもう一点重要な理由として「情報が登場する順序」を挙げておく。
例えば「空気と水の球」というワードが第1話にて登場したが、実際に水の球のビジュアルと機能が劇中で説明されたのは5話が最初で、空気と水の球がパイロットスーツのバックパックにセットされているのが明かにされるのは、そこからさらに15話まで待たなくてはいけない。
ミック・ジャックの初登場は5話だったが、その話では新登場キャラだというのに一切活躍することなく顔見せ程度で退場し、再登場したのは8話になってからである。その上8話で助っ人として現れた際には、せっかく5話で愛機として紹介したヘカテーには乗らず、これまた新登場のMAアーマーザガンを乗り回している。ヘカテーが再登場するのは11話のことである。
徹頭徹尾『Gレコ』では、設定もキャラクターもMSも、ありとあらゆる情報が順番通りに現れてくれない。見ている側は一体どの情報を覚えるべきで、どの情報を見流すべきかが判断できず、記憶容量は瞬く間にパンクする。『Gレコ』のストーリーが分かりにくいのは、単純な情報量や情報密度そのものだけでなく、情報の開示の仕方が視聴者に配慮されていないという面が実は大きいのである。
第二の「分かりにくさ」は、キャラクターへの共感の難しさだ。何度も繰り返すように、『Gレコ』ではキャラクターの内心が直接描写されることがほとんど無い上に、キャラクター達がコクピットでつぶやく独白すら、どこまで本心が反映されているのかが定かではない。
ただし、それはキャラクターの内心が一切伏せられたままだという訳ではない。5話の解説においても述べたが、ベルリを始め、キャラクター達の内心を推し量るための断片的な情報は劇中に数多く存在している。しかしあくまで直接的な描写が徹底的に避けられているため、我々視聴者はその断片的情報を総合しながら、キャラクターの内面をそれぞれに想像しなくてはならない。
これらの『Gレコ』における「分かりにくさ」は、率直に言えばフィクションとして不親切にすぎると言える。だが、そもそも世の中とはそういうものではないだろうか?
「世界は、四角くないんだから!」
アイーダは第1話においてこう叫んでいる。そう、世界はもともと整然とはできていないのだ。『Gレコ』の世界は雑多で複雑で理解しづらい。が、その雑多さ、複雑さ、難解さは現実の世界の雑多さ、複雑さ、難解さの反映なのだ。現実世界で出会う全ての人々が自分のために自己紹介しながら現れてくれるはずなど無い。新聞やニュースで分からない言葉が登場しても、自分自身で調べなくては何も分からないし。昨日まで仲の良かった男女が、今日になって突然お互い避け合っていたとしても、昨夜2人に何があったのかは、誰も教えてくれはしない。
世界は四角くなんてできていない。そして、だからこそ我々は想像しなくてはならない。アイーダも言っている。
「想像しなさい!」
と。
それこそが『Gレコ』が視聴者に伝えようとしていることであるのなら、『Gレコ』の難解さ、分かりにくさはテーマ性と直結した不可分なものだ。
そして、最初に述べたように『Gレコ』の「分かりにくさ」はもう一種類存在する。それは「どう受け止めて良いかが提示されない」という点にある。「価値判断が与えられない」と言い換えることもできるだろう。
そもそも映像作品における演出効果の大きな役割の1つに、見ている者の感情をいかにコントロールするか、という側面がある。カメラワークや音楽、照明効果により、見ている者を不安がらせたり期待させたり、悲しませたり喜ばせたりする。それが映画の演出だ。にもかかわらず『Gレコ』では、視聴者の感情誘導を放棄しているようなシーンが非常に多い。
6話にて、ベルリはデレンセンを殺した直後に、その際の戦闘でチャージしたリフレクターパックのエネルギーを使ってクリムの命を救っている。恩師を殺した武器で敵国(では厳密にはないが)の兵士の命を救う、といういろいろな意味でドラマチックなシーンだが、しかしそこに何か感動的な演出や、はたまた悲痛さを感じさせる演出は無く、あくまで淡々と事実を描いているといった向きがある。我々視聴者はこのシーンに感動すれば良いのか皮肉を感じれば良いのか、『Gレコ』はハッキリと教えてはくれない。
『Gレコ』では画面上で展開されているドラマに我々はポジティブな印象を受ければ良いのか、ネガティブな印象を受ければ良いのかを明示してくれない。どう受け止めるべきなのかは自分達で判断するしかない。(一方で、数少ない明らかに感情誘導を演出しているシーンの多くが、マスクとマニィのシーンに偏っている、というのがまたこのアニメの厄介なところなのだが…)
こうした『Gレコ』の特性は、見ている側にとっては居心地の悪さを感じざるを得ない面がある。しかし、価値判断が明示されないことこそが、逆説的に「自分で判断できるようにならなくてはダメだ」という強固なメッセージなのではないだろうか。
「分かりにくい」ことは、確かに『Gレコ』における大きな欠点であることには違いない。
しかし、おそらくそうでなくては『Gレコ』は『Gレコ』たり得ない。そうでなくては、『Gレコ』に込められたメッセージは成立しない。
世界は四角くなんてできていない。だからこそ我々は想像しなくてはならない。そしてそのためには、全て自分の目で確かめなくては意味がないのだ。『Gレコ』は、我々にそのことを教えるための物語だったのだ。