範馬勇次郎の成長物語としての刃牙シリーズ

はいどうも。ブログでは毎度お久しぶりのあでのいです。

いやーーーー、マジで衝撃的なくらい面白かったですね劇場版GレコIII。

って何ヶ月前だよって話題は一旦置いといて、今日したいお話は48時間限定全巻無料配信とかいう最近ちょいちょい見るアホみたいな企画を実行してた刃牙シリーズについてです。

本日は以前からつらつら考えてた、「範馬勇次郎の成長物語」という、ちょっと一風変わったフレームワーク刃牙シリーズについてダラダラ語ってってみたいと思いやす。当然ながらネタバレバリバリなのでお気をつけ下さい。

 



迷走する刃牙シリーズ


言うまでもなく、「グラップラー刃牙」から始まり30年間全140巻以上に渡って連載を続けている刃牙シリーズは大ヒット漫画である。そしてさらに言うまでもなく、大ヒット漫画である以上、その漫画としての面白さに疑う所は一切無い。筆者も当然そのご多分に漏れず、ちょうど「バキ」が始まった頃くらいから今に至るまでそれなりに愛好させてもらっている。
刃牙シリーズは紛れもなく「面白い漫画」である。その大前提を共有した上で率直に言わせて貰うと、極めて面白い漫画であると同時に、極めて迷走している漫画でもある。

長寿作品の場合、その多くが連載の長期化に伴い、話の展開スピードの冗長化、キャラクターの性格や世界観設定における矛盾、パワーバランスの崩壊など、種々の問題を抱えるケースが多く、概ねそうした作品群は「迷走してる」と批判されがちだ。漫画を愛好するほとんどの者が、心当たりが1つや2つと言わずあるだろう。
刃牙シリーズはそうした長期化作品の中でも、その迷走具合において他の追随を許さないレベルにある。迷走であるにも関わらず全力疾走している風情すらある。
連載当初は、漫画的なハッタリを聞かせつつも基本的にはある程度リアル寄りの格闘バトル漫画として始まったはずだが、その作中リアリティラインは連載の長期化と共に訳の分からないレベルにまで下げられており、現在でもかろうじて明示的に気や魔術や超能力などの存在こそ無いものの(ただしイタコや霊は一応いる)、実質的にはレギュラーキャラ達に関してはほぼほぼ単なる「超人」と化しており、全体的にもはや「なんでもあり」な漫画になっている。

またそれに伴い、最新シリーズまで追っている者は分かると思うが、刃牙シリーズではもはや作中でも誰がどの程度強く、どんな序列でパワーバランスが成立しているのかが混迷を極めている。新キャラが登場するたびに既存キャラ以上のインパクトを与えようとして強さの描写を盛りに盛るのだが、その一方でかと言って既存人気キャラの格も落とさずに描く上に、あまり安直に「成長」させない(主人公以外は中年も多いのでパワーアップイベントが起こしづらい模様)ので、結果的に既存キャラの「強さ」描写が過去と現在とでしばしば矛盾を起こす。言うなれば「以前はこう描いていたが元々このくらい強かった」という過去改変に近いことが常態的に行われている訳だ。その結果、連載が進めば進むほど「要はこのキャラどんくらい強いんや」という認識があやふやになっていくのだ。

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(一例を挙げると、初期の鎬昴昇の斬撃拳くらいだともはやレギュラーキャラクラスなら大体の人間ができそうな印象なので、結果的に鎬昴昇自身の斬撃拳の切れ味描写が異常なレベルになっていく、みたいな事が起きる)

刃牙シリーズにおける迷走の例は挙げようと思えばいくらでも挙げられるが、中でも象徴的なのは、誰あろう主人公範馬刃牙のキャラクター性のブレであろう。
刃牙シリーズ未読者にとっては同一人物と認識するのが不可能なレベルで連載初期と現在とでビジュアルが変わりすぎている範馬刃牙だが、ほぼ同じことが性格面でも言える。

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(未読者がこれを同一キャラだと認識するのは率直に言って不可能だと言って良い)

連載初期は「人懐っこい好青年」然とした範馬刃牙だったが、ちょうど第2シリーズ「バキ」開始時辺り以降では「戦いは好きだが面倒事は嫌いなヤレヤレ系主人公」へと大きく転身を遂げている。
刃牙の場合、中学時代は不良少年だったので、そういう意味では連載初期のキャラクターの方が単に猫を被っていただけ、と見れなくも無いが、こと戦闘時においても第一シリーズの地下闘技場編を読むと「今の刃牙ならこんなリアクション絶対しねえな」というシーンに頻繁に出会えるという点は特筆しておいても良いだろう。

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刃牙シリーズにおけるテーマ性


さて、そんな迷走だらけの刃牙シリーズだが、一方で作中のメインテーマ、コンセプトについては実は極めて一貫している。
それが何かと言えば「闘うとは何か?」「強さとは何ぞや?」「勝利とは一体何なのか?」という問いかけである。
厄介な事にその問いに対する解答が連載時期によって微妙に違っていたり、禅問答的な解答であるため結局どういう事なのかイマイチ不明瞭だったりするので、そこが迷走の原因であったりもするのだが、解答の内容はともかくとして、これらを問いかけ続けるという姿勢については全シリーズを通して真摯に一貫していると言って良い。
刃牙シリーズとはこれらの問いかけを行い続ける漫画なのである。

一方、この漫画の具体的なストーリー面での主軸は「刃牙vs勇次郎」の親子対決である。第3シリーズ「範馬刃牙」にて2人の戦いに一応の決着が着いた形になるが、未だに刃牙シリーズを一言で語るとすれば「地上最強の親子喧嘩」と表現するのが最も適当だろう。
であるとするなら、刃牙と勇次郎の2人による「闘うとは何か?」の問いに対する答えは何であろうか?
これについては、少なくとも半分は2人とも共通した答えを持つ。と言うより、刃牙世界では概ねほぼ全ての格闘家たちが一貫して同じ答えを有している。
すなわち、彼らにとって闘争とは根源的欲求である。

彼らは「何のために闘うのか?」という問いをほとんど持たない。というのも、彼らにとって闘うことはそれそのものが目的であり、何か別の目的の達成手段ではないのだ。「やりたいからやる。ただそれだけだ」のようなセリフが、刃牙シリーズでは多種多様なキャラクター達から度々発せられている。
刃牙世界の住人達にとって闘争行為とは睡眠食事セックス、いやどころか呼吸にも等しい生命活動に
おける必需行為なのである。

概ね刃牙世界では、その戦闘欲求の純度の高さが「強さ」にも繋がっているとされており、最強キャラである所の勇次郎こそがその体現者として描かれる。

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(なんか良い感じの該当セリフ無いかと思ったらまんまあったわ)
(一方で「観客に囲まれたリングの上でだけ強い」アントニオ猪狩がいたり、「仲間を守るために闘う」本部が強かったり、立身出世のために人を斬る宮本武蔵が「不純も突き詰めれば純」と評されたりもするのだが)

閑話休題

そしてそれは主人公である範馬刃牙も同様であり、彼もまた勇次郎同様に純粋な闘争欲求の持ち主であることが繰り返し描かれる。

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(でまあ、そんな中で「いや俺親父に勝ちたいだけで親父が世界最弱だったら世界で2番目に弱くて良いし」とか言い出して何かやる気ない時期があったりするのが面白いとこだったりもする)

ただし、この2人の「闘いとは?」という問いに対する答えで共通するのはここまで、すなわち「何故闘うのか?」という部分までだ。刃牙と勇次郎とでは残りの半分、すなわち「闘いから何が得られるのか?」という問いに対する答えで、立場を違にしている。
その差異については、「グラップラー刃牙」における幼年期編にて刃牙自身の口からセリフの形で明確に提示されている。

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範馬刃牙にとって闘いとは、自身の闘争欲求を満たすためのものであると同時に、同じ戦闘狂の仲間達との絆を形作るものでもあるのだ。
一方で勇次郎は全く異なる。勇次郎が闘いを通じて得るものはあくまで自身の殺傷の喜びだけであり、そのためなら対戦相手を再起不能に、それどころか死に追いやることにも躊躇が全く無い。この勇次郎の特性について、刃牙本編では地下闘技場編にて刃牙の口からも近いことが語られている。刃牙が持っているのは闘争欲求だが、勇次郎はそこに殺傷欲求も同時に持っているのだ。

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幼年期編では、刃牙が闘いを通じて友を増やしていくのが描かれるが、それと同時にそうして出来た刃牙の友人達を、追うように勇次郎が破壊していく様が繰り返し執拗に描かれる。そうした描写を通じて、刃牙と勇次郎との相入れられない立場の違いが幼年期編にて鮮明化されてゆく。

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刃牙と勇次郎との敵対関係は、ストーリー上は「母の仇」という形がとられてはいるものの、漫画全体を通したテーマ性の観点で言うなら、「闘いとは何か?」という問いに対する答えによる対立であると言える訳である。

 

 

 

勇次郎の成長


さて、本記事をお読みの方々は知っての通りとは思うが、第3シリーズ「範馬刃牙」において終結した「刃牙vs勇次郎」というストーリーは、最終的には「和解」という形で決着がついた。
この結末には未だに賛否両論が多く、往年のファンからも受け入れられたとは言い難い。そしてこの親子の和解劇は、しばしば勇次郎のキャラ改変とセットで語られる。

主人公である範馬刃牙の連載長期化に伴うキャラ変動に関しては前述の通りだが、同様に刃牙最大の強敵でありラスボスたる勇次郎もまた、そのキャラクターが連載中に大きく変化している。
端的に言えば、残忍で残酷で殺傷本能に忠実だったはずの勇次郎が、「バキ」中盤から「範馬刃牙」にかけて、急速にその性格が丸くなっているのである。

マホメド・アライにはリスペクトを示し、大擂台賽編では日米連合チームのリーダーを務めて皆に助言を行い、ストライダムと一緒に博物館を楽しみ、徳川の爺さんの健康に気を使い、愚地独歩とはいつの間にか飲み友達となっている。

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気がつけば勇次郎は、周囲の格闘家たちと「仲間」であるかのように「友人」であるかのように接するようになっていた。そうまるで息子刃牙と同じように。

このキャラ変化を、連載長期化による矛盾を孕んだ改変だと見るのは簡単だ。と言うより、普通に読めばそうとしか読めないであろう。
のであるが、個人的な意見としては多少の無茶を承知の上で、この変化を勇次郎の人間的な成長であるという見方をしてみたい。

範馬刃牙」における刃牙と勇次郎の最終決戦の最中、唐突に(作中でほぼ初めてと言って良い)勇次郎によるモノローグが始まる。モノローグの内容は、驚くべきことに勇次郎には似つかわしく無い「弱音」であった。

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弱音の内容は「強すぎるせいで何をするにも達成感が得られない」という、あくまで自分自身の問題の話をしているが、これは言い換えるとするなら「孤高の孤独」に対する弱音とも言える。
つまり勇次郎はここでこう言っているも同然なのだ。
「俺だって寂しかったんだよ。俺も友達欲しかったんだよ」
と。

勇次郎と刃牙との闘いは、勇次郎が刃牙に「地上最強の称号」を譲り、刃牙が勇次郎に「勝利」を譲ることで終結する。
おそらくだがこの親子喧嘩の決着を通じて、この世界において誰にとっても「天敵」であった勇次郎は、刃牙を含むグラップラー達と初めて「仲間」となったのだろう。

その後、第4シリーズ「刃牙道」にて、勇次郎の性格はさらにその丸みに磨きがかかる。
子供のサインには応じてやるし、お気に入りのコニャックの美味い飲み方を勧めるし、息子の家にフラッと遊びに来るし。もはやそこに闘う相手全てに恐怖を与え屠ってきた過去のオーガの姿は無い。

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そしてそんな勇次郎の変化を最も象徴するのが、花山薫との闘いのシーンだ。
過去に勇次郎が花山相手にやってみせた殺戮ショーは、刃牙が勇次郎とその主義において袂を分かつ契機となったシーンだ。この殺戮ショーにより花山は再起不能レベルの怪我を負い(つつそれが割とすぐに治っちゃうのがこの漫画なのだが)、恐怖と絶望を植え付けられた。
がしかし、その再戦である「刃牙道」での両名の闘いでは、過去同様完敗するも満足そうな顔をして気絶する花山を見届けて、勇次郎はその場を立ち去っている。

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勇次郎はもう、自分の欲望のためだけに相手を破壊するのでなく、戦った相手との絆を大切にすることを選ぶようになったのでだ。
「勇次郎にとって闘いとは何か?」
その現時点での答えが、この花山薫との再戦には込められているのである。

これを勇次郎は刃牙から学んだ、とするには描写は足りないし、矛盾点も多い。それを承知の上で、重ねて言いたい。
刃牙シリーズとは、範馬勇次郎という男の成長物語なのである。

 



その後の刃牙シリーズ


さて、ここで本記事を終わらせても良いのだが、もう少し刃牙シリーズのテーマ性について語っておこう。
刃牙と勇次郎との間に決着がついたことで、刃牙シリーズ全体のメインストーリーにひと段落ついた訳だが、ではその後の刃牙シリーズでは何が描かれているのか?
勇次郎に続いて「敵」として登場したのが「現代に蘇った宮本武蔵」であり、荒唐無稽ここに極まれりと言った風情だが、テーマ性に関して言えば、ここでも「闘いとは何か?」という問いかけが貫かれていると言って良い。

本節は正直オマケ程度なので、丁寧に順を追って語るのはやめてザックリした話だけするが、第4シリーズ「刃牙道」では語られてるのが何かと言うと要するに、ここまでのシリーズで皆繰り返し「殺す気で」「死ぬ覚悟で」「命を賭けて」と言いながら闘ってきたけど、「いやでもやっぱり本当に殺すのは駄目だよ」という話だったりする。(一般常識だ………)
言葉にすると余りに当たり前の話すぎて脱力してしまいかねないが、これも意外と刃牙シリーズにおいて大事な話ではあるのだ。
と言うのも、「闘いを通じて仲間と絆を結びあう」という「解答」は、刃牙と勇次郎が共有したことで刃牙シリーズにおける「法」であり「原理原則」となったと言って良いからだ。であるならば、闘争の相手を斬り殺すしかない宮本武蔵は、この刃牙世界にはいてはいけない存在なのである。故に宮本武蔵は作中において度々「居場所がない」と表現され、最後には闘争でなく、霊能力者によって再び魂を天に返す、という形で決着がつけられる。

この辺りのテーマ性は本部の口からかなり明示的に語られている。

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刃牙世界の住人は、闘争によりそれぞれがそれぞれに存在価値を有し、そして闘争を通じてそれぞれがそれぞれと繋がりとを持つ。しかし闘う事が離別へと直結する宮本武蔵にはその「繋がり」が存在しえない訳である。

こうして概観するように、刃牙と勇次郎との関係性に決着がついて以降も、刃牙シリーズにおける「闘いとは何か?」という問いかけを続けているのだ。
が、しかるに現行の第5シリーズ「バキ道」である。
実はこの「バキ道」が、どうにも今もって何を描こうとしているのかが私にもよく分からないのだ。
日本の国技である「大相撲」を話の主軸に置いた。それは良い。今更「いやとっくに金竜山が猪狩と良くて引き分け扱いだったじゃん」などという矛盾の指摘はすまい。
しかしながら、結局の所それで何を描きたいのかがよく分からない。

重ねて言うが、刃牙シリーズとは「闘うとは何か?」「強さとは何ぞや?」「勝利とは一体何なのか?」、これらについて問いかけ続けることを一貫したテーマ性に置いてきた。
そうしたフレームワークで見ればこそ、「敗北を知りたい」と宣う死刑囚が現れ、岩塩層で眠る太古の原人が目覚め、クローン技術と霊能力によって宮本武蔵が蘇るという展開にも、どれだけ荒唐無稽でリアリティラインを破壊しようとも意義があった。
ドリアンの精神が幼児返りするのも、刃牙が梢枝とセックスした途端にレベルアップするのも、郭海皇が死んだふりで勝ったと嘯くのも、アライJrが刃牙に瞬殺されるのも、オリバが恋人にデレデレのメロメロなのも、刃牙と勇次郎がエア味噌汁でエア晩ご飯を始めるのも、本部が急に脈絡無く実力者扱いされるのも、その是非はともかくとして、これらの問いかけへの解答の試行錯誤であることが理解できる。

しかるに現行の「バキ道」である。

本記事では連載の長期化によって様々な矛盾と問題を抱える刃牙シリーズにおいて、それでも一本通ったテーマ性が存在すること、そしてそのテーマ性を通して見ることで「勇次郎の成長物語」という見方が可能であることを示したつもりである。

しかしながら現行の「バキ道」である。

板垣恵介は一体何を描こうとしているのか。
これまで迷走に迷走を重ねたかのように見えた刃牙シリーズであるが、本当の「迷走」はこれから始まるのかも知れない。

 

 

 

 

 

はい。という訳で「勇次郎の成長物語としての刃牙シリーズ」でしたがいかがでしたでしょうか。

本文には上手く入れらんなかったんだけど、勇次郎が刃牙から「闘争を通じて絆を交わす」事を勇次郎が学んでいくのと対比して、刃牙の方は逆に目覚めた範馬の血の所為で負かした相手に対し拒絶的になっていく、みたいに刃牙の性格の変遷を捉える視点もあったりするんですよね。その辺ももし上手くまとまるようならいつか加筆してみたくもありますね。

あとさー、凄い正直な話するんですけど、「そこそこ好きだし結構語っておきたい内容もあるんだけど、むっちゃ長くて途中から魅力もかなり落ちてるからもう全部は集めてない」ってくらいの漫画って結構語りづらいんですよね。手元に全巻無いと語りたいシーンやストーリーの時系列の確認できないから不安だし、画像引用したくても出来ないし。
だもんで前から「こういう記事書きたいなー」って思ってた所に今回の全巻無料公開は渡りに船って感じでしたね。
無料公開漫画からスクショ引用とか流石にマナー違反やないかと言われると正直反論しづらい所はあるんですが、まあそんなに金も無い学生時代に5、60巻分一度ちゃんと買っとるし、今でも気に入ったシーンのある巻だけはたまに買ってたりするので、その辺で手打ちにして頂きたく候。
(まあそもそもわざわざ微妙に危ない橋渡ってまで画像引用する必要あんのかというツッコミもあるとは思うんだが、やっぱり漫画って絵でないと雰囲気とかニュアンスって伝わんないとこもあるからつい画像で引用したくなっちゃうんだよな)

ちなみに本ブログで一番PV稼いだドラゴンボールの記事に関しては、アレ実はドラゴンボール全巻実家に置きっぱのまま書いてて、画像引用したいとこだけ何巻か買っただけなんすよね。ドラゴンボールに関してだけは読み返した回数が違いすぎて、別に手元に無くても記憶だけで書けるんすよ。

そろそろ何の話してるのか分からんくなってきた所で、今日はこの辺で。
現行の「バキ道」への不安と困惑を共有できたなら幸いです。 まったねー。