映画「風立ちぬ」感想 二郎のエゴイズムが向かう先

「エゴイスティックな映画だ」 風立ちぬの感想を一言で表せと言われれば、おそらくこう言わざるを得ない。
 この映画の舞台は1920~30年代の日本だ。当時の日本と言えば、1923年の関東大震災、29年の世界恐慌により経済的に大きな打撃を受け、国家として深刻な苦境に立たされていた。外交面では柳条湖事件を足がかりとした満州全土の占領、いわゆる満州事変が31年。33年には国連を脱退。周辺国との領土争いが激化する中で、日本は米中を始めとした連合国を相手に泥沼の消耗戦へと突入する事となる。
 そんな過去の日本を舞台にし、主人公がゼロ戦(すなわち人殺しの道具)の開発者ともなれば、おそらくほとんどの観客は、そうした当時の時代背景が如実に反映された物語を想像 することだろう。実際、予告編では震災により壊滅する街の様子がクローズアップされ、そのような苦しい時代の中でも愛を育む二人、というような宣伝がなされている。
 しかしながらそんな予告編とはうらはらに、この映画は「苦境の時代を生き抜く人々の姿」なんてものは殆どと言って良い程に描いてはいない。この映画の中では震災も敗戦も、主人公である堀越二郎の内面には何も影響は与えていない。インテリで富裕層である二郎達の影で悲惨な目に合っているはずの多くの国民は、二郎にとってはまるでどこか遠い世界の存在かのようだ。それは、二郎と親友の本庄が会社へ向かう際に、車の中から倒産した地銀に群がる民衆の姿を眺めるシーンが象徴している。「世の中不景気だ」と語りながらも、その不景気に翻弄され る庶民の姿は、彼らにとってはあくまで窓ガラス越しに見える「向こう側」の世界なのである。

 「飛行機の開発者」と言う意味で二郎に最も近い位置にいる本庄は、二郎に向かって「俺達が戦闘機を作る為の金で日本中の貧しい子供達に上手い飯を食わせる事ができる」と言う。彼は自分の人生が多くの不幸な人間の上に成り立っている事を自覚している訳だが、しかしその上で本庄は「それがどうした」という態度をとる。彼は自らのエゴイスティックな生き方を自覚しながらも押し通そうとしているのだ。
 そしてそんな本庄だから、彼は二郎が安易に貧しい子供達に菓子パンを恵もうとした事に対して「それは偽善だ」と批判する。しかし一方で「偽善だ」と批判された二郎自身は、本庄の言葉を聞きながら 、分かっているのか分かっていないのか、興味あるんだか無いんだか、何とも言えないポカンとした顔をする。
 おそらく、本庄が敢えて自分らの矛盾を口に出すのは、彼がそこに多少なりともの後ろめたさを抱えているからこそなのだろう。その上で「それがどうした」という態度をとるのは、内心感じている後ろめたさの裏返しだ。しかし二郎は違う。おそらく二郎にとっては自分の足下にいる多くの不幸な人間の事など、本心から重要ではないのだ。たまたま目に入った可哀想な子供達に施しを与える二郎の純朴さは、むしろ彼が決定的に他人に無関心である事のあらわれだ。
 あえて自分の欺瞞的立場を口に出さずにはいられない本庄と、そうした己の社会的立場に根本的に興味を持てない二郎。この対比こそが「偏屈ぶった秀才」と「孤高の天才」という2人の決定的な差を表している。

 そしてそんな二郎の純朴さを備えた冷酷さは、妻の菜穂子に対しても容赦無く向けられる。「一緒にいたい」という理由で菜穂子を病院から連れ出したにも関わらず、二郎は菜穂子を放って飛行機作りに没頭する。仕事中に結核の妻を思い浮かべるといった描写が一切存在しないのは、単に描かれていないだけと言うより、二郎が真実仕事中に菜穂子の身を案じる事が無かったからなのだろう。
 妻よりも飛行機作りに没頭する二郎だが、しかしそのくせ仕事が終わって家に帰れば菜穂子に甘えても見せる。あまつさえ彼は結核に苦しむはずの菜穂子の真横でタバコを吸うのだ(菜穂子が許したからと言って)。そんな二郎の身勝手な態度に何一つ文句を言わずに献身的な妻をやってみせる菜穂子は、二郎にとってどこまでも都合の良い女性なのである。

 この映画は堀越二郎の純朴で冷酷なエゴイズムが全編を貫いている。そして映画は二郎が夢の中で死んだ菜穂子から「あなたは生きて」と許しを貰う事で完結する。このラストシーンを、身勝手に生きてきた男の甘ったるい自己肯定と見るべきか、それとも好き勝手生きたはずの孤高の天才が、それでも最後には生きる免罪符を欲してしまう哀れさと見るべきか、その点に関しては未だ私の中で結論は出ていない。



(本当は、そうした二郎と菜穂子の関係が「エゴイスティックな亭主とそれに耐える良人」ではなく、あくまでお互いの共犯関係で成り立ってる、みたいな内容も入れ込みたかったんだけど、上手くまとまらなかったので断念。ちなみにこの文章は劇場公開当時の感想の発掘公開です)