オジュウチョウサン物語 第7章3「障害騎手、林満明」

 

目次 前話 次話

 

 

 多くの出会いに彩られたオジュウチョウサンの競走馬生活だが、出会いがあればまた別れもある。
 親子2代で助け合いながら馬を育ててきた和田親子厩舎だが、父の正道の厩舎がこの年の2月に定年のため解散が決まっていた。管理場の内の何頭かは、正一郎の厩舎に移された。定年後は実家の和田牧場を継ぎ、今後は馬の育成に携わる。70歳にして50年越しに父正輔との約束が果たされた形になる。
 そんな中でオジュウチョウサンと石神のもとに、もう1つ大きな別れの報せが飛び込んで来た。アップトゥデイトの主戦騎手である林満明が、障害2000回騎乗を区切りに騎手を引退すると発表したのだ。
 
 林満明が騎手の道を歩み始めたのは中学2年の時だった。牧場で生まれ育った林だったが、中学2年で父を早くに亡くす。途方に暮れていた林に、以前から林牧場と繋がりのあった調教師の吉田三郎が「俺の所に弟子入りして騎手になれ」と誘いをかけたのが、騎手人生の始まりだった。
 中学を卒業した林は競馬学校に入学する。1982年、競馬学校騎手課程の第1期生だった。同期にはこれまでGIを11勝し10度の優秀騎手賞を獲得した柴田善臣らがいるが、林は1年卒業が遅れ、騎手としてデビューしたのは1986年になってからだった。
 障害競走には騎手デビュー後3週目に早くも初騎乗を経験している*1。しかし、初めから障害に対して熱意があったという訳ではない。当時の新人騎手は障害にも乗るのが普通だったのだ。むしろ初騎乗では余りの過酷さに「自分にはとても無理だな」と感じたと言う。
 
 そんな林の障害競走に対する意識が変わり始めたのは、2年目の1月の障害競走2勝目のことだった。勝ち馬のジョーバカボンドは、初期調教から自分が担当した馬だった。
 障害競走は平地以上に騎手と馬とのコンビネーションが重要になる。どんな名手と名馬であっても、息が合わなければ勝利に足りうる飛越は絶対にできない。障害馬の多くは騎手自らが入念に乗り込んで調教を行う。
 乗り替わりが激しくヘマをすれば即交代もあり得る平地に比べ、勝てる馬を自分自身で1から作り上げていく面白さが、障害騎手という仕事の中にはあった。
 
 障害騎手の魅力に気付き始めた林は、徐々に障害競走の騎乗数を増やしてゆく。しばらくは平地との二刀流でやっていたが、1994年に師匠の吉田三郎が亡くなったのを契機に、障害競走を主戦場とし始める。
 1997年には年間で重賞3勝を含む18勝を上げ、最多勝障害騎手の座に輝いている。その後も通算で優秀障害騎手賞を5度受賞。気がつけば、栗東を代表する障害騎手とまでなっていた。

 

目次 前話 次話

 

*1:1986年3月15日、阪神5レース障害4歳以上400万下。騎乗馬は牝馬のビュウガール。