無事に全馬完走で終えたレースの後、林満明は検量室へと戻ってくるなり周囲に向かって
「バケモノ!」
と一言発した。何を意味する言葉かは誰もが理解し得た。その表情は敗戦の将にも関わらず、晴れ晴れとした笑顔だった。
この日のアップトゥデイトの結果はオジュウチョウサンとは大差の2着。しかしほとんど余力の無い中で、それでも3着ニホンピロバロンを9馬身差まで突き放す、王者の貫禄をまざまざと見せつける2着だった。タイムの4分45秒4は自身の3年前のレコードタイムを1秒以上更新してのゴールである。
出しうる力の全てを出し尽くし、なすべきことの全てをやり切った林の心は勝敗とは裏腹に、不思議と晴れ渡っていた。生涯最高の相棒に対し、恥じる所は何1つ無かった。
集まるファンから「林! 辞めるな!」の声が飛ぶ中で、それでも林はキッパリと
「もう未練はない。これで悔いなく引退できます!」
と断言した。こうしてアップトゥデイトと林満明の最後の戦いは幕を閉じた。
その後、林は引退までの残り6鞍を東京ハイジャンプ(JGII)の重賞1勝を含め3勝し、今シーズン圧倒的な最多勝障害騎手の立場を堅持したまま、ステッキを置きターフを去っていった*1。
前人未到の2000回障害騎乗。197度の勝利に106度の落馬を経ての大記録である。障害騎手林満明の名は、日本競馬障害史の中に今後も永遠に刻みつけられることだろう。
一方、勝ったオジュウチョウサンの鞍上、石神深一は勝利騎手インタビューで、相棒の強さを称えつつ
「もう負けないと思います」
と語った。衝撃的な圧勝劇の余韻も冷めやらぬ中、誰もがその言葉を信じた。
最後に石神は、
「暮れももっと沢山の人達に来てくれることを願っています」
と集まった観客らにメッセージを残し、この日のインタビューを終えた。
この時、本書の執筆を既に決めていた筆者は、現地でこの石神騎手のインタビューを聞きながら、オジュウチョウサンの物語を書くのであれば、この中山グランドジャンプが実質的な最終章となるだろうと予想していた。もはや障害馬として特筆すべきドラマは残されていない。残り年内の2戦か3戦かを波乱無く圧勝し、引退して長山オーナーが夢だと語った種牡馬入りを果たすのだろう。そう思っていた。
結果だけを言えば、上記石神騎手の2つのコメントはどちらも果たされることなく、私の予測も完全に外れる結果となった。
オジュウチョウサンの次走が発表され、競馬界に激震が走るのは、それからひと月余り後のことである。