ステイゴールドの種牡馬としての評価は実際に産駒が生まれた後も特に向上することは無かった。それどころか、馬格の小さい産駒が多かったことからむしろ種牡馬人気は低下していった。1年目に177頭あったはずの種付け頭数は、2年目には115頭、3年目には87頭と大きく減少している。そして初年度産駒がデビューを果たす2005年。この年、61頭のステイゴールド産駒が中央でデビューするも勝利数はわずかに8つにとどまる。
「期待した程度の滑り出し」
1年目におけるステイゴールドの種牡馬成績について率直に表現すればこうなるであろう。
そんな中でステイゴールドが競馬界を驚かせたのは翌年2006年の暮れのことだ。産駒2世代目にあたるこの年のデビュー馬の1頭ドリームジャーニーが、2歳GI朝日杯フューチュリティステークスを勝利したのだ。ドリームジャーニーの母であるオリエンタルアートは現役時代3勝こそしているが、3度走った重賞では全て10着以下という成績である。お世辞にも良血牝馬とは言えなかった。そんな牝馬から、自身は晩生傾向にあった遅咲きのステイゴールドが2歳チャンピオンを輩出したことで、馬産界のステイゴールドに対する評価は一変した。この年100万円まで下がっていた種付け料*1は、翌年2007年には300万へと跳ね上がった。
繁殖牝馬の質も向上したステイゴールドはその後も順調に活躍馬を輩出し、種牡馬としての地位を着実に高めていった。そして2011年、この年の一頭の馬の活躍がステイゴールドの種牡馬としての名声を不動のものとする。ドリームジャーニーと同じくオリエンタルアートを母に持つオルフェーヴルである。このオルフェーヴルが、この年の皐月賞、日本ダービー、そして菊花賞に勝利し、日本競馬史上7頭目の三冠馬の座に輝いたのである。
オルフェーヴルの誕生により「三冠馬の父」という種牡馬としては最高の栄養を得たステイゴールドだが、その快進撃は翌年以降もさらに続いた。芦毛の2冠馬ゴールドシップ、天皇賞・春連覇馬フェノーメノ、2歳女王レッドリヴェール。世代を代表するGI馬たちを次々と輩出し、2013年にはその種付け料は遂に800万にまで達した。
競走馬としてはお世辞にも「華々しい活躍」とは言えなかったステイゴールドだが、その血の中には凄まじい爆発力が秘められていた。その片鱗を垣間見せたのは、現役時代に関して言えば結果的にはラストランの香港ヴァーズの一戦だけだったと言える。彼の血に秘められたサラブレッドとしての真価は、彼の子供達によって証明されたのだ。
気がつけばステイゴールドは、日本競馬史に名を残す大種牡馬の一頭にまで数えられるほどとなっていた。
しかし、生き物である以上「別れ」は避けられえぬものである。
2015年2月のことだ。この年最初の種付けを終えたステイゴールドは、馬房に戻ると急に息を荒げて苦しみだした。すぐさまホースクリニックへと運び出されたが、そのまま帰らぬ馬となった。死因は大動脈破裂だったという。享年21歳。人間換算で言えばおよそ60歳*2。骨折や内臓器官の不具合が死に直結するため老衰死の珍しい馬としては、決して「早すぎる」とまで言える年齢ではない。しかし、まさに当日まで元気に種付けを行い、これからも数多くの活躍馬を送り出してくれるものと信じていた関係者、そして競馬ファンらにとっては、余りにも突然すぎる別れであった。
勝ちきれないシルバーコレクターから、日本産馬初の海外GI勝利馬へ。サンデーサイレンス後継種牡馬の末席から、日本競馬を代表する大種牡馬の一頭へ。多くの驚きと感動に彩られたステイゴールドの生涯は、多くの人々に惜しまれながらこうして幕を閉じた。
さて、ここで時計の針を少しだけ巻き戻す。
2011年4月3日。オルフェーヴルが皐月賞に勝利し三冠馬としての第一歩を踏み始めるわずか3週間前のことだ。この日、北海道のとある牧場にてステイゴールドの血を引く1頭のサラブレッドが新たに誕生する。その馬こそが本書の主人公であり、並み居るステイゴールド産駒の中でも父に劣らぬ波瀾万丈な競走馬生活を送ることとなる、オジュウチョウサンである。
*こぼれ話*
現在7章まで執筆完了しているが、結果的にはこの第1章が一番楽だった。というのも、ぶっちゃけ本章の内容は参考文献にある「黄金の旅路 人知を超えた馬・ステイゴールドの物語」から必要なところだけ抜き取って短くまとめ直しただけだったりする。ソースもこの本一冊だけで事足りるのでありがたい限り。