オジュウチョウサン物語 第1章3「シルバーコレクターの逆襲」

 

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 「最強の3勝馬」「最強の重賞未勝利馬」などという通り名で呼ばれるようになって久しいステイゴールドだったが、そんな日々がようやく終わりを告げたのは、6歳5月の目黒記念(GII)だった。このレースでステイゴールドを管理していた調教師の池江泰朗は1つの決断を下す。鞍上の変更だった。
 
 この日まで37戦ものレースに出走したステイゴールドだが、その内33戦で鞍上を務めたのが熊沢重文騎手。日本では珍しい「二刀流」騎手である。
 日本競馬の騎手の多くは、若い内は平地と障害の両方に乗っている者でも、平地の重賞競走でコンスタントに勝ち星を上げるようになると、障害競走には乗らなくなるものである。しかし「一番勝ちたいレースは日本ダービー中山大障害」と公言する熊沢は、デビュー3年目にオークスに勝利し当時最年少GI騎手となった後も一貫して障害競走に乗り続けた。2018年現在、未だダービーにこそ勝てていないものの、2012年にマーベラスカイザー中山大障害を勝利し夢の片方を叶えている。日本競馬史上3人しかいない平地・障害の両レースで100勝以上を上げ、史上唯一障害200勝を達成している名手である。
 
 ステイゴールドの主戦に熊沢が選ばれたのは、彼の癖馬を扱う能力が買われてのことだった。元来気性に難を抱える暴れん坊のステイゴールドに熊沢は根気強く乗り続け、ここまで育てて来たのである。その熊沢を降ろすのは池江にとって苦渋の決断だった。しかし、池江にもこれほどの実力馬を預かった調教師としての責任があった。ステイゴールドの新たな鞍上に選ばれたのは「天才」武豊だった。
 この決断が功を奏し、ステイゴールド目黒記念でおよそ2年8ヶ月ぶりとなる勝利を挙げる。この日、雨の降る中、東京競馬場ではようやく重賞馬の仲間入りを果たしたステイゴールドを祝福する拍手が鳴り止まなかったという。GIIレースとしては異例の光景だった。
 
 重賞初勝利でようやく一皮剥けたかと思われたステイゴールドだが、その後は一度も馬券内に入ることなく2000年の6歳シーズンを終える。年が明けて21世紀に入り、自身7歳となったステイゴールド。人間で言えばそろそろ30歳に差し掛かる頃合いである。デビュー以降毎年10走以上走った上で故障知らずという頑丈なステイゴールドだが、流石に衰えが隠せなくなってきたかとファンも思い始めてきた。
 が、そんな矢先、ステイゴールドは7歳初戦の日経新春杯(GII)を勝利し重賞2勝目をあげる。この勝利に気を良くした陣営は勢いに乗って、次走なんとドバイへの海外遠征を計画する。
 
 ドバイが世界的な競馬開催地となったのは90年代後半のことである。若い頃から競馬に傾倒し、欧州でも馬主業を営んでいたシェイク・モハマド殿下が、祖国ドバイを競馬大国とする夢を叶えるために、莫大な財力をつぎ込んで世界最高クラスの賞金額のレースを次々と創設し始めたのだ。ステイゴールドが出走を決めたのは、98年に創設されたドバイシーマクラシック(GII)である。
 この年、シーマクラシックの出走馬には前年のワールドシリーズ・レーシング・チャンピオンシップ*1で総合優勝を果たしたファンタスティックライトを初めとして、当時の中距離路線における世界最強格の馬が集まっていた。レース格こそGIIだったが、実質的なレースレベルは国際GI競走の域にあったと言って良い。そんな出走馬たちの中で、国内のハンデ重賞を2勝した程度のステイゴールドは明らかに格下だった。しかし一方で「アイツならこのメンツでも2着か3着に入っちゃうんじゃないか?」と冗談混じりに期待するファンも少なくなかった。
 
 その予想は大きく外れた。なんとあのステイゴールドファンタスティックライトを相手に写真判定まで持ち込みハナ差でレースを制したのだ。純粋な日本産・日本調教馬が国際重賞を勝利したのは95年のフジヤマケンザン以来、史上3頭目の快挙であった。

 

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*1:ドバイのエミレーツ航空協賛による競走馬を対象にしたポイント制のランキングレース。指定されたいくつかの国際レースにおける着順をポイント化し、それをもとに年間総合順位を決定する。開催されたのは1999年から2005年の7年間のみ。