オジュウチョウサン物語 第1章2「稀代のシルバーコレクター」

 

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  1996年の暮れに2歳(当時表記3歳)でデビューしたステイゴールドがようやく初勝利を上げたのはそれから6戦目、翌年5月のことだった。同世代のトップホース達は既に皐月賞日本ダービーといった大舞台で凌ぎを削っている頃である。遅咲きの馬だった。
 夏の間に500万下のすいれん賞、900万下の阿寒湖特別と条件戦を2勝したステイゴールドは、なんとか3歳クラシック最後の一冠菊花賞への出走にこぎつける。しかし一線級の馬たちとは実力が違ったか、本番では特に見せ場無く8着という結果に終わる。この時点でのステイゴールドはまだどこにでもいる条件馬の一頭にすぎなかった。ステイゴールドがあらゆる意味で「真価」を発揮しだしたのは翌年4歳からである。
 
 明けて4歳となったステイゴールドは1月に万葉ステークス(OP)に出走し、そこで2着に入ると、続けて出走した松籟ステークス(1600万下)、ダイヤモンドステークスGIII)でも2着と好走。重賞レースで2着に入り晴れてオープン馬となったステイゴールドが次に向かったのは日経賞(GII)。ここでも4着と好走するも惜敗。勝ちきれないレースが続いた。
 
「勝ち星こそあげられないが、能力自体はあるはず」
 
 そう考えた陣営が次に選んだのは、古馬にとって春の大一番となる天皇賞・春だった。レース当日、ステイゴールドは10番人気、単勝オッズは57.9倍の大穴馬。重賞未勝利馬の人気としてはごくごく真っ当な数字である。しかし何とここでステイゴールドは、並み居る重賞馬たちを抑えて2着を飾る。
 
 実力馬の覚醒か、二流馬のフロックか。多くの競馬ファンがここでの結果に対し判断にとまどう中、ここからステイゴールドはさらに(いろんな意味で)凄まじい快進撃を続けることになる。
 前走天皇賞・春に比べ相手関係が大きく落ちるハンデ重賞目黒記念(GII)に出走するも3着惜敗。「やはり前走はフロックか」と多くの人が感じた矢先、次走、春のグランプリ宝塚記念では42.3倍9番人気の低人気から、またもや2着と大駆けを披露する。夏を挟んで秋初戦の京都大賞典(GII)ではコロリと6着に沈むと、次の天皇賞・秋では50.3倍12番人気から再び2着激走。古馬王道GI戦線で3戦連続の2着である。もはや実力に疑うところはない。そう考えた競馬ファンが次走ジャパンカップでは13.9倍の5番人気にステイゴールドを支持するも、ここでは10着に惨敗。一年の総決算である有馬記念ではジャパンカップの惨敗により11番人気と再び人気を落とすも、人々の思惑をあざ笑うかのように3着とまたもや好走。
 低人気で好走し、人気を集めると惨敗する。そして1着にだけはならない。世代のトップホースたちとGIの舞台で互角以上に戦いながら、彼らより格下のはずの馬たち相手にも何故か勝ち切れないステイゴールド。この年は勝利数ゼロのままに2億6千万を超える賞金を獲得した。
 
 ステイゴールドの勢い(?)は5歳になっても止まらない。この年もGIレースとGIIレースをそれぞれ5走ずつ走り、2着1回、3着4回と好走しながら肝心の勝ち星はゼロのままであった。特に春シーズン後半の金鯱賞(GII)、鳴尾記念(GII)、宝塚記念の3戦連続3着は圧巻ですらあった。
 6歳になっても年明けからAJCC(GII)2着、京都記念(GII)3着、日経賞(GII)2着を経て、今年GI初戦の天皇賞・春では4着と、ステイゴールドの勝ちきれない好走は続いた。同世代のトップホース達は既に引退し、ステイゴールド自身の獲得賞金は5億5千万まで増えていたが、勝利数だけが2年半前から1つも変わらぬままだった。
 いつの時代も「好走はするもなかなか勝ちきれない馬」には、大舞台で華々しく勝利するスターホースたちに対するものとは異なる、判官贔屓的な人気が集まるものである。しかしステイゴールドのここまで極端な競走成績は前代未聞であった。「主な勝ち鞍:阿寒湖特別(900万下)」を背負ってGIレースで好走を続けるステイゴールドは、稀代のシルバーコレクターとして多くの競馬ファンから愛された。

 

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