映画「漁港の肉子ちゃん」感想という名の明石家さんま論

はい毎度お馴染みブログではお久しぶりのあでのいです。

いやーーーー、見てきましたよ。「漁港の肉子ちゃん」。明石家さんまプロデュース、あの「えんとつ町のプペル」でヒットを飛ばしたSTUDIO4℃吉本興業のタッグが再び実現の話題作ですね!!
まあ私はテレビから聞こえてきた女の子の声の「イメージの詩」にビックリするという、さんまファン拓郎ファンの風上にも置けない感度の低さでこの映画の存在を知った訳ですが。

でまあ、とにかく見てきた訳なんですけど、やーーー、泣いたね。開始5分くらいでもう既にボロ泣きして、そのまま涙腺回路ぶっ壊れたまま上映時間2時間、度々ボロ泣きしながら見るはめになったよね。本当に素晴らしい映画だったと思います。

なんだけどさあ、ぶっちゃけそんな話題になってないよね「漁港の肉子ちゃん」。特にオタク界隈で。
まーねー、しゃーないと思うよ。「明石家さんまプロデュース!」って前面に押し出して吉本のバックアップ感じさせて、キャストも大竹しのぶ木村拓哉の娘でしょ。これ私自身、冒頭でその辺ちょっと皮肉った書き方したのだけど、実際普段アニメ映画よく見るオタクからしたら地雷っぺーなと感じる人らが多いのもしゃーない話ではあるんですよね。
それは一昔前だと「アニメ映画」ってだけで見ない人らが多かったのと全く同じ話であって。

一方、個人的な感触で言うとtwitterとかで感想見る限り、見た人の評判は結構良いと思うんですよ。やっぱり自分が見て好きになった映画が他の人にも褒められてると嬉しいじゃないですか。だからそこは素直に嬉しい。
ただね、そんなふうに人様の感想眺めてると、

明石家さんまカラーはほとんどない」
「さんま色はキャスティングの人脈くらい」

みたいな評をいくつか見かけるんすけど、これマジでモヤるんですよね。
少なくともこの映画は、私にとっては極めて明石家さんま「らしい」映画だったので。

多分なんだけど、これ別に「肉子ちゃん」評に解釈違いがある訳じゃなくって、十中八九明石家さんまに対する解釈違いなんですよね。
ちょっと批判的な言い方で敢えて言うと、この映画から明石家さんま的なるものを感じないのだとしたら、それは明石家さんまという芸人に対する理解が表層的なとこで止まってるからなんすよ。

ただこれもしゃーない所はあって、明石家さんま自身が自分への理解が表層的な所で止まるようなキャラクターを一貫して堅持してるってのがまずあるんですよね。
さんまさん自身が深読みさせる気を起こさないような振る舞いを徹底してるので、だからお笑いとかにそんな興味持ってない人にとっては、「明石家さんま的なるもの」を表層的にしか捉えられてないのは当然と言えば当然なんですよ。

でまあ結局のとこ、私が「漁港の肉子ちゃん」の何を話したいかって言ったら、どこがどう「明石家さんま的」な映画なのかというのをちゃんと文章にしておこうってモチベーションな訳です。
という訳で本記事は「漁港の肉子ちゃん」の感想とか言ってますけど、その実やりたい話はあくまで明石家さんま論です。タイトル通りですね。
(ってーか、ぶっちゃけ作品の魅力そのものについては他に語ってる人いくらでもいるし……)

(参考に一個置いとく → 一週遅れの映画評:『漁港の肉子ちゃん』それはずっと、揺れ動きながら。|すぱんくtheはにー|note 

という訳で例によって例の如く、ネタバレばりばり感想となりますのでご注意下さい。

 

 

 

明石家さんまは何をしたか?

まずそもそも明石家さんま企画・プロデュースってさんま師匠自身どこまで噛んでんねんって話を先にしとこうと思うんですが、なんかアレですよね、パンフのコメントが軽くバズったんですよね。


これもパンフの無断転載なんでアレっちゃアレなんですけど、まあこれ実は公式が上げてる宣伝動画のインタビューの書き起こしみたいなんで、そこまで気にせんで良いかなと思ってリンク貼りました。

www.youtube.com 
ここでさんまさん「自分は土鍋とガスコンロ用意して最後にアク抜きしただけ」と言ってて、まあ額面通りに受け取るとあくまで企画持ち込んだ後は広告塔に専念してて、作品作りそのものにはほぼほぼ関わってないみたいに読めますよね。
なんだけど実情はかなり違うらしく、かなり現場に関わったらしい。
ソースはこちらの監督の渡辺歩監督のインタビュー記事。

nlab.itmedia.co.jp
軽く抜粋するとこんな感じ。

アニメだと、会話の流れがパツンと途切れることがあります。発言を受けて「それでね」と別の話になるような。さんまさんはそういう流れを気にされていて、すかさないというか、それをちゃんと受けて笑いに変えたりしながら転じていく。そういう部分は非常に新鮮でした。

(中略)

―― アフレコの様子をみても、さんまさんはその場でアイデアを出されていますね。話芸に対する自身の知見も生かされたのだなと感じます。

(中略)

先ほど言ったように間を埋めることと隙あらばのギャグで、会話の流れがとてもよくなりました。せりふの位置は変わってしまうんですが、会話の流れとしては掛け合いがちょっとかぶるような形で流れていく。せりふまわしは機械的にやろうとすると幾らでも機械的にやれちゃうものですが、一辺倒にならない流れが出来上がっていくのは新鮮で、僕は気付かされてばかりでした。

 
でコレ、さんまさんのファンだとピンと来る所があって、さんまさんってもう20年くらい生瀬勝久と組んで舞台演劇やってるんですよね。多分その時の仕事の仕方とかなり近いっぽいんですよ。
舞台でも生瀬さんが書いた脚本がまずあって、その脚本で稽古しながら物語が破綻しない範囲ギリギリまで現場で笑いの要素を盛り込みまくるっていう。

www.oricon.co.jp(上の記事と読み比べると分かるが、生瀬勝久と渡辺監督がまんま同じ事言ってて結構びっくりする)

これ以外の記事を読んでも、かなり明石家さんまが企画段階からかなり密に製作スタッフと打ち合わせでやりとりしていたことが明かされていて、少なくとも単なる広告塔という訳ではなかったのは確からしいようなんすよ。

realsound.jp
そういう訳で、芸能人の所謂お飾りプロデューサーでは決してない、というのが前提としてあって、こっから先はその前提に立った上で話を進めていきます。

 

 お笑いにおける「身体性の開放」について

で、いきなり「肉子ちゃん」の話は一旦置いといて、いわゆる「お笑い」一般の話から入るのだけど、まず「お笑い」における重要要素の1つに「身体性の開放」っていう考え方があると思うんですよね。
これが何かについては私がここでグダグダ語るより、まず下の記事を参照して欲しい。

larimer-larimer.hatenadiary.org
これ別にお笑い批評やってますって人でも何でも無いんだけど、未だにノンスタイル評の中でも最高峰の1つだと個人的には思ってて、当時これ読んだ時本当に衝撃だったんですよね。ちょっと長めに引用する。

石田明のほっそい手足がダイナミックに動くのがなんとも快感。

長沢節先生はとにかく痩せた人が好きな人だったから、細い人間のクロッキーばっか描かされるうちに私もどんどん針金みたいな体型の美しさにはまっていったけど。ノンスタイル石田ってその極致のひとつだなー。着ている物が全部白いのがまたいいな。あれが変な形に凄い速さで動き回るだけで気分がいい。

凄いダンスとかを見て「あんなに体が動いたら気持ちいいだろうなー」ってよく思うけど、お笑いの誇張された無駄な動きがあんだけダイナミックだとなんか感情が開放されそうだよなあ。ドッキリで仕込まれたオバケに異常に驚くときのウソみたいに転げるのもすごかった、演技なしでもあんな動きになっちゃうのかー……。私なんかびっくりしたらむしろ体が固まるほうだからそんな時にあんなに体が動くなんて考えらんない。恐怖の反動であんなに体が動いたらその恐怖は全部体を通して出ていってくれるかもしれないとか思う。


これマジで名文すぎて正直俺がここに足すことって何も無いくらいなんだけど、「誇張された無駄な動き」ってのはお笑いの基本要素の1つでありながら、そこには何と言うか、単なる滑稽さってのでなく、身体性の、もっと言うと人間の開放があるんですよね。
(というか多分もっと正確に言うと、そうした開放感が緊張と緩和の中で滑稽さに繋がっている)

人間ぶっちゃけ普段生きててそんな大声出すことなんて無いじゃないですか。笑うにしろ怒るにしろ悲しむにしろ。
感情の動きを肉体のダイナミズムで表現する人って見てて気持ちいいし好ましいんだよね。
そこには恐らく、普段私たち自身が解き放ちきれない感情の開放がある。その開放感の肩代わりをテレビ画面を通して芸人達にしてもらってるって部分があるんじゃないかな。

リアクション芸人っているじゃないですか。出川哲郎とか上島竜兵とか。
彼らのリアクション芸ってのはぶっちゃけ驚かされたり痛い目にあわされたり、そういう時に発揮されてて、それを見て笑うというのは、悪く言えば無様さ滑稽さを下に見て可笑しがってる、いじめの笑いではあるんだけど、その一方で「酷い目にあった時にこんだけ大騒ぎできたらそれはそれで気持ちよさそうだな」っていう、開放感の快もそこに少なからず感じてるんじゃ無いかなって思う。

「誇張された無駄な動き」なるものが、お笑いにおける基本要素になるのは、そういう側面があるからなんじゃないかなと思ったりする訳です。

 

「動」の芸人、明石家さんま

で、我らが明石家さんま師匠ですよ。
あんまり普段この辺意識されることって少ないんだけど、明石家さんまってのは「動き」をかなり重要視してるお笑い芸人なんですよね。(というかまあ、さんまさんクラスの芸人になってそこ重要視しない事なんてありえないとも言える訳なんだけど)

明石家さんまの持ちネタの1つに「自分大好き」ってのがあるのは割とよく知られてると思う。
夜中に自宅で録画した自分の番組を見ながら「俺ってなんて面白いんだろう」と一人笑いながら見ている、というエピソードトークが本人の口から度々語られてる。
で、そのエピソードトークは「流石さんまちゃん」と自画自賛するセリフを言うのが1つのオチになってるんだけど、何パターンかあるそのオチの中の1つが
「流石さんまちゃん、セットいっぱい使ってよく動いてる」
だったりする。多分聞き覚えのある人も結構いるんじゃないかと思う。
これはあくまで笑いのネタの自画自賛セリフではあるんだけど、実は結構真を突いてる所があるんですよね。

明石家さんまって男は、言ってみたらひな壇バラエティの「王」な訳ですよ。
お馴染み「さんま御殿」に古くは「恋のから騒ぎ」、今なら「ホンマでっかTV」に「お笑い向上委員会」と、何十年とゴールデン深夜問わず一貫してひな壇バラエティのMCを務めてきたのが明石家さんまなのだ。
もちろんひな壇バラエティはさんまさんの専売特許って訳でなく、昔から数多くの番組があって、数多くの芸人がMCをやってる。
でね、これマジで意識して比較してみて欲しいんだけど、さんまさんのMCって、数あるひな壇MCの中でもかなり「動いてる」方なんだよね。

話題に食いつく時には身を乗り出すし、何なら数歩近寄ったりもする。
笑う時には肩幅まで腕を広げて手を叩くし、手に持った指し棒でバンバン机を叩く。
ゲストが大ボケかました時には崩れ落ちて床に倒れ込んでまで見せる。

それこそ他のひな壇バラエティだと、MCも席に座りっぱなしだったりする番組もある中で、さんまさんって本当に縦横無尽に「動く」んだよ。
ていうか、そもそもさんまさんが一貫して座って喋ってる番組自体が結構少ないんだよね。
「自宅」という設定のさんまのまんまですら度々立ち上がってあっちに行ったりこっちに行ったりするし、ソファーの上で倒れ込んだりもする。

これも割といっぺん試して欲しいんだけど、さんまさんのトーク、特にさんまさんと息の合った相手との二人トークの動画とか音消して見てみて欲しいんだよね。
ビックリするくらい「面白い」から。
身振り手振りだけで何となく「あ、今面白いこと言ったな」「今話題のオチ言ったな」ってのが結構伝わる。
(これ一番例に出したいのが紳助さんとのトークなんだけど、残念ながら参照できるの違法アップロード動画だけという問題があるのでここでは貼らない)
(というかさんまさん自身が自分の番組のソフト化を頑なに拒否ってるので、さんまさんを評しようとすると必然的に違法動画を参照先にせざるを得ないという難しさがあるんだが)

明石家さんまと言えば「お喋り」だし、何なら「お喋り」と言えば明石家さんまってくらいなんだけど、凄え極論を敢えて言うと、明石家さんまの「お喋り」にとって「音声」ってのはあくまで主成分の1つに過ぎない、という言い方まで出来ちゃうんですよ。
そのくらい明石家さんまってのは「動」の芸人な訳ですよ。
(もちろんそれとは逆に「静」の芸人もいて、そういう芸人がさんまさんに比べて劣っているという話では無い。それこそ「静」のトークの代表例が森田一義だったりする。そしてそんな「動」のさんまと「静」のタモリによって、「ただの雑談」がテレビの1コーナーとして成立させられた、というのが日本テレビ史における1つの事件だったりするのだ)

そもそも明石家さんまって、元々落語家に弟子入りして「上半身の動きだけで舞台を構築し人物を演じ分ける」という落語の型を叩き込まれる所から芸人人生が始まってる訳ですよ。
師匠に「舞台で体を動かす所作を学んでこい」って言われて日本舞踊の教室に数年間通ってたりもしてて、そういう来歴考えても「身体を動かす」ことでの表現についてかなり拘りがあるのは当然っちゃ当然なんですよね。

 

肉子ちゃんの身体性

で、ここまで話してようやく「漁港の肉子ちゃん」の話。
アニメ映画としての「肉子ちゃん」の魅力って色々あるんだけど、その中で劇中全体を通して一本柱としてあるのは、とにかくメインヒロインである肉子ちゃんのキャラクター魅力で、そんでその肉子ちゃんの魅力を支えているのが何かって言ったら、「とにかくよく動く」って所なんだよね。
肉子ちゃんは喋る時も食べる時もコケる時も笑う時も泣く時も、何なら寝てる時ですら、とにかく人一倍デカい体を全体使ってダイナミックに動くのが痛快で、その可笑しさと気持ちよさが画面の魅力の屋台骨になってる。
そこには紛れもなく「身体性の開放感」がある。

この肉子ちゃんの魅力は予告動画からでも伝わるようになってて、特に肉子ちゃんがフレンチトーストをぐるっと一巻きにして一口で食べるシーンなんかはその代表例の1つだと思う。

www.youtube.com(ここで母と娘が2人で食べる朝食がフレンチトーストというのは、ある程度のさんまファンなら誰もがピンと来るシーンだったりする)

劇中で涙止まんなくなったシーンが1個あって(いやまあ実際には1個どころじゃなく泣いてたんだけど)、運動会の父兄参加の借り物競走のシーンがあんのね。
そこで肉子ちゃんが走るんだけど、まずスタート直後に豪快にすっ転んで、走るのもまあドッタドッタと音が聞こえてきそうな感じで走るし、借り物の紙を受け取る時にも係の人に過剰なくらいペコペコ頭下げながら受けとるしで、言ったらもう「無駄な動き」の集合体みたいな存在なのよ肉子ちゃん。
ここ普通に考えたら単に笑うシーンのはずなんだけど、何か俺このシーン見てたら何故かもう「人間って、生きてるって素晴らしいな」ってなってボロボロ泣けてきちゃってさー。

いやまあそれはどうでも良いんだけど、とにかくこの肉子ちゃんの「誇張された無駄な動き」による「身体性の開放感」がこの作品における骨子となっているのは間違いなくって、でそういう映画が「明石家さんまプロデュース」により作られたってのは俺としては無茶苦茶納得できる話なんですよね。

 

偶然か必然か

ただまー、ここまでの論立てに「?」ってなってる人も結構いるんでないかとも思うんですよ。
どういう事かって言ったら、そもそも「誇張された動きによる笑い」なんて別に「漁港の肉子ちゃん」に限らずアニメって元からそうじゃん。別に明石家さんまを持ち出すまでもないじゃん。って話でもあるんすよね。
それはね、正直その通り。
アニメキャラクターっての自体が元々デフォルメ=誇張された表現な訳で。
だから結局のとこ、そういう意味ではそもそもアニメーションという表現技法自体が、「お笑い」というものと実はかなり連続した文脈を本来的に備えてるんだと言えちゃうんだよね。

でさらにもっと言うと、絵の素人である明石家さんまがじゃあ「肉子ちゃん」のビジュアル面についてどこまでタッチしてるのかって話もある。
実際前述の渡辺監督のインタビューでも絵に関してはさんまさん自身はあまりタッチしてない旨の発言がある。

―― アフレコの様子をみても、さんまさんはその場でアイデアを出されていますね。話芸に対する自身の知見も生かされたのだなと感じます。一方で、アニメの絵そのものにはオーダーを出しにくい部分もありそうです。

渡辺 そうですね。絵に対するオーダーは出しづらかったと思うので、そこはある程度任される形でした。ただ、次がもしあるならばそうした部分にも踏み込みたい気持ちがあります。


ただ一方で、監督のインタビューからはかなり密にさんまさんと打ち合わせ重ねてるっぽい話はあって、そう考えた時に、肉子ちゃんのビジュアル面での特徴にさんまさんの意向とイメージが一切反映されてないと考えるのも逆に不自然ではあるんだよね。

そういう意味ではやっぱり、「漁港の肉子ちゃん」という映画が肉子ちゃんという、とにかくよく動くキャラクターがメインに据えられており、そんな映画を企画プロデュースした明石家さんまが日本でも有数の「動」の芸人であるという事実を併せて考えた時に、それが偶然なのか必然なのかはともかくとして、「漁港の肉子ちゃん」は極めて「明石家さんま」的な映画だなと個人的には思う訳です。

2021/06/30 追記
本ブログ記事上げた2日後に公開された記事で、この辺の話の答え合わせみたいな渡辺監督のコメントが載ってたので折角なので追記。

www.oricon.co.jp

さんま:あのねぇ、渡辺監督がしつこいぐらいに、“さんまさん一人で、一本のアニメを作りたい”って言うんですよ。僕が普段、過ごしてる姿が、アニメのようだと。
渡辺監督:さんまさんの動きはもう、ほぼアニメですよ。昔の『オレたちひょうきん族』の頃の動きなんていうのは、めちゃくちゃ凄いですからね。アニメみたいな動きをしてますから。

 

「みんな、望まれて生まれてきたんやで」

さてここまでは、アニメーションとしてのビジュアル面のお話。
こっからはテーマ性、物語としてのコンセプトのお話を、これまた「明石家さんま」を軸にやってみようと思う。

でさあ、これ俺も映画見終わった後に知ったんだけど、キャッチコピーが軽くネットで炎上したらしいじゃない?
「みんな望まれて生まれてきたんやで」って奴。
いやまあね、分かるよ? お笑い芸人プロデュースで吉本バックアップでこのキャッチコピーくらったら、まあそりゃ「幸せの押し売り」に感じる人がいるのも分かる。しゃーない。

これ、映画見た人は分かるんだけど、まあぶっちゃけ「嘘」なんですよね。
主人公であり肉子ちゃんの娘であるキクコちゃんは、少なくとも実母には望まれて生まれた訳じゃないという話なので。
世の中には望まれて生まれてきた訳じゃない子供だって沢山いるんだっていう残酷な事実が紛れもなく織り込まれた映画だった。

ただ、じゃあこのキャッチコピーが客寄せのためにでっち上げられた、作品テーマにそぐわない文句かって言ったらそれも違うんでねーかと思う。
この映画を見終わった後に「みんな望まれて生まれてきたんやで」って書かれたこの映画のポスター見たら、やっぱり「ああ、そういう映画だったな」って思えるんでねーかと思うんだよね。
言っちゃえばね、この映画って、ちっともそんな事ない子供相手にだって「お前はちゃんと望まれてここに生きてるんだ」ってのを言わなきゃいけねえだろって映画なんですよ。

肉子ちゃんが劇中でたびたび「普通が一番ええんやで」ってセリフを言う訳なんだけど、これも同じ話で、ぶっちゃけ嘘って言うか、肉子ちゃん自身が全然普通じゃない親子なんですよ。
そんな立場にいながらニコニコ笑って「普通が一番ええんやで」って肉子ちゃんが口にするってのがこの映画な訳。
でまあそこで娘のキクコちゃんは「肉子ちゃんの言う普通ってなんなの?」って聞き返して、それに対する肉子ちゃんの答えが映画の中でも重要シーンとなっている訳ですが。

まあね、キャッチコピーってあくまでマーケティングだから、このコピーに嫌悪感持って映画見に行かない人が増えるならそれは失敗だと言わざるを得なくなるんだけど、そういう話抜きにした時にこの映画に一言添えられる文句として「みんな望まれて生まれてきたんやで」があるの全然悪くないんですよ。

で、明石家さんま論的にそれが何かって言ったら、結局さんま師匠の座右の銘の「生きてるだけで丸儲け」も実はかなり近い話なんですよね。
この「生きてるだけで丸儲け」も微妙に誤解されてる所あるよなって話があって、これ「生きてるってこんなに素晴らしいよね」っていうポジティブ全開な言葉では決してなくって、どっちかってと「そういう事にしておかねえとやってらんねえ人生が世の中にいくらでも転がってる」っていう諦観の言葉なんですよね。
そもそも芸能界という浮き草稼業の世界で生きてるさんまさんにとって、道踏み外して全部失って破滅した人間の姿とかいくらでも見てきてるはずなんすよ。
その上での言葉なんですよね。

さんまさんのこの座右の銘にね、「無神経な幸せの押し売り」を感じる人がいるって問題もあって、それは実際しゃーない話ではあるんですよ。言葉単体だけで抜き取ったらやっぱり能天気に見えちゃうよね。
ただ結局それも「肉子ちゃん」のキャッチコピー問題と同相の話で、深い所まで解きほぐした時に見えてくる景色が、表層的理解とは正反対、とまでは言わなくても130度くらいは違うんですよ。

これもう15年近く前の番組だったと思うんだけど、さんまさんが若手芸人だか誰かに「20年前に蒸発した父親が連絡とってきたと思ったら金の無心だった」ってエピソードを披露されて、それにさんまさん爆笑しながら
「一般の方てね、テレビに出てる人見るとお金持ってると思いはるみたいで、そういうのようあんねん」
ってコメントしたんすよ。
要は明石家さんまにとって、「自分を捨てた親が20年ぶりに会いに来たら借金の頼みだった」ってのは「よくある話」であって、そして「笑い話」なんですよ。
何もかもを笑い話にしてしまうしかない。それが明石家さんまの人生観であって、望まれて生まれてきた訳じゃない人間がこの世にいくらでもいるってのも織り込み済みで言ってるとこがある訳ですよ。

まあそもそも例のキャッチコピーに明石家さんまが関わってるのかどうかってのも正直分かんないんですけど、ただ額面通りに受け取っていい言葉では無いのは確かなんすよね。

  

明石家さんまと両親

この映画に対して私自身は「明石家さんまらしい」と感じた訳なんだけど、これさんまさんが「作りそうな話」かって言ったら微妙に違ってて、というかそもそもさんまさん自身は作家じゃないので作りそうもクソも無いんだけど。
ただこの映画見た時に「ああ、さんまさんが好きそうな映画だな」とは凄い思ったんすよ。
というかそもそもこの映画は原作小説があって、その小説にさんまさんが惚れ込んで映画化されたってのが経緯な訳ですよね。
で、そこでじゃあなんでさんまさんが西加奈子の原作小説に惚れ込んだのかってのが明石家さんま論の重要な話になる訳ですよ。

ただそこはさんまさん自身が普通に自分で言ってて、元々さんまさんってこの手の家族がテーマの映画が好きなのずっと公言してんすよね。
 

とにかく僕は昔から、親子の愛情の物語に弱いんです。僕が泣く映画といえば『チャンプ』と『クレイマー、クレイマー』ですから(笑)。離婚したとか、子供を育てたとか、そういう話にグッときてしまいます。
(上述のパンフより)

 

こっからかなり危険な話をするんだけど、明石家さんまにとって「家族」というキーワードって結構センシティブな所があるんすよね。
どういう事かって言ったら、まずさんまさんって実母とは物心つかないくらいの時に死別してるんですよ。で、5歳くらいの時に親父さんが再婚されて、そっからはその後妻さん、要するに継母と暮らしてるんですね。
この継母さんとの関係についてはググると結構いろいろな噂話が書かれてて、曰く「無視されてた」とか「冷遇されてた」とか、とにかく確執が少なからずあったらしいことが書かれてる。
これに関しては私の知る限りソースは基本見当たらなくって、おそらくデマだと言っても良い。そうした噂話を肯定する材料は少なくとも簡単に参照できる範囲には存在してなくって、まあよくあるネットの都市伝説だと思われる。

ただ、実は逆に、この噂話を否定できる材料も一切存在してないんですよね。
何故否定できる材料が一切無いのかと言ったら、さんまさん自身がほぼ一切喋ってないから。
これ結構ゾッとする話で、あの明石家さんまがですよ。周囲の人間のあらゆるエピソードを喋りのネタにする、誇張でもなんでもなく日本一お喋りな男である明石家さんまが、義母との思い出について何一つ喋っていない。
(*知り合いから指摘が入ったので追記訂正。「何一つ」は流石に言い過ぎ。そういや納豆家出事件とかあったわと言われて思い出した)
あの明石家さんまが「喋ってない」ってことは、もうそれ「無い」と同義でしょ。
しかもこれ実父に対しても同じことが言えるんですよね。義母ほどではないし、皆無とまで言い切れる訳ではないんだけど、それでもほとんど語られてないってのは確かなのよ。
2006年に父の杉本恒氏が亡くなられてて、その時当然ニュースにもなったんだけど、その当時ですらトークのネタにしたのは葬儀場でのエピソードだけで、父親本人の人となりや思い出については、俺が知る限りさんまさんほぼ一切喋ってないの。

明石家さんまが語る家族の思い出はもっぱら祖父と兄の話ばっかりで、特に祖父とはかなり仲が良かったらしく、例の「生きてるだけで丸儲け」も祖父からの教えだって話がたびたび語られてる。
で、それとは対照的に両親についてはほとんど語られていない。
あくまで推測に過ぎないと言ってしまえばそれまでだけど、これもはや「喋りのネタにできるような思い出が両親との間に一切無かった」ってことの状況証拠みたいなもんだろって思っちゃうんすよね。

その辺考えた時に、さんまさんの「親子の愛情の物語に弱い」っての、どうしても深読みしてしまうってのはあるんですよ。
(ただまあこの辺は、上の噂話も含め「無い」ことの証明はできないので、単に俺の目にこれまで入ってないだけという可能性も一応あるよ、というのは最後に注意点として)

 

明石家さんま大竹しのぶ

明石家さんまと家族」を話題にする時、当然もう1つ思い浮かぶのが大竹しのぶとの結婚と離婚の話ですよね。というか大体みんなこっちをまず先に思い浮かべるでしょ。
「漁港の肉子ちゃん」でもメインヒロイン肉子ちゃん役を務めております大女優大竹しのぶさんです。

しのぶさんとさんまさんは、一度結婚して夫婦となった後に破局して今は他人となるも、何やかんやで今でも仲が良く、定期的に一緒にご飯食べたり仕事でも共演してたりするのは、まあ皆さんもご存知の通りだとは思います。
この2人は今でもお互いに自分の番組で相手のことを話のネタによくするんだけど、概ねそれらのトークは「安全圏の笑い」として消費されてるんですよね。
2人が互いの離婚ネタで笑いを取る時、「離婚してもこんな良い関係を築けるんだ」という2人の人間性への安心感と「お互い仲良いから言えてるネタなんだから笑って良いんだ」という笑いへの安心感がそこにはある。

私自身もそうやって2人のトークに笑ってはいるのだけど、一方で個人的にはこの2人の関係について逆の見方をしてたりもするんすよね。
どういう事かって言ったら、まあまずなんだけどこのラジオ聞いてみて下さいよ、と。

www.nicovideo.jp



いやまあ長さが長さなんで気軽に聞けるもんでもねーだろとは思うので、一応ザックリ言っとくと、10年前にしのぶさんのラジオに明石家さんまがゲストで出た回のアーカイブです。(いやまあ例によって例のごとく違法動画ではあるんだけど、まあソフト化されねーし削除もされてねーしで目をつぶって頂きたい所)
で、これ聞いたら分かるんだけど、まーーーー2人とも仲良いの。マジで時折、マンガの中の両ツンデレカップルかよみたいな雰囲気出てるんすよね。
俺の記憶が確かなら、一時期この動画には「イチャイチャ動画」だか「ニヤニヤ動画」だかってタグが付けられてたはず。

このラジオは本当凄まじい内容で割と定期的に聞き返してるんだけど、一ヶ所マジで戦慄したやりとりがあって、さんまさんとしのぶさんが「お互いに本名で呼びあった事無かったよね」って話題になった時に、2人でこういう事言い出すのよ。

 

しのぶ「もしね、(あなたが)死んじゃう時にね、あたしがいたら何て呼ぶんだろうね? 例えば『高文さん、さよなら』『高文さん、ありがとう』とかって言えない」
さんま「俺もしのぶさんって言ったことないもんな」

 

これ笑い話の一つとして何の気無しに話題に出してるし、一応「もし」ってIFの話として出してるんだけど、何が凄えって、しのぶさん、明石家さんまという男が死の床に伏した時、臨終の間際になった時、その隣で最後の言葉をかけるのは自分なんだろうって当たり前のように思ってるし、さんまさんもそれを当然のように受け止めてるって事なんですよね。

もうさあ、そんなん「愛」じゃんって思うよ。

でね? 何が言いたいかって言ったら、このラジオ聞いてると本当に「2人ともお互いのことよく理解しあってるんだな」「本当に愛し合ってたんだな」ってしみじみ思うんだけど、これ逆に言うと「こんだけ愛し合ってる2人が夫婦を続けることができなかったんだな」って話になるんですよね。

つまりですよ。
明石家さんまという男は、幼少期に両親とまともに思い出を作れず育ち、大人になって本気で愛した女性とは家族になることに失敗しちゃった人間なんですよ。(いやまあ幼少期の話は状況証拠からの完全な憶測に過ぎないのだけど)
そんな男が「親子の愛情の物語に弱い」「離婚したとか、子供を育てたとか、そういう話にグッときてしまいます」って言ってたら、それ単なる映画の好みとかそういう領域超えた所の話になっちゃうよね。

で、そんな明石家さんまが「これを何としても映画にしたい」と本気で思って5年かけて完成にこぎつけた映画が「漁港の肉子ちゃん」なんですよね、と。

 

明石家さんまにとっての家族とは

実はこの記事書き始めた時は、ここまでで終わりにするつもりだったんだけど、今回この記事書くために上で貼ったさんまさんとしのぶさんのラジオ聞き返して、ちょっとだけ考えが変わったんですよね。

明石家さんま大竹しのぶの関係ってのはかなり特殊で、「元夫婦」ではあるのだけど、それは世間で言う所の「元夫婦」とは大きく逸脱した関係でもある。
ものすごい極端なことを言うと、この2人の関係を簡便に表す単語がそもそも日本語として存在してないんですよ。
それは大竹しのぶ本人も感じてるらしいんだけど、ラジオの中でこういう会話があんのよ。

しのぶ「何なんだろうね? 友達ともまた違うし」
さんま「だからいまると二千翔の母と父というだけのことやから」
しのぶ「そうだね」


これをサラッと当たり前のように言える明石家さんまと、それにああそっかって納得できる大竹しのぶ、この2人が「家族」でなくて何なんだって話なんですよね。

もう一個引用するんだけど、これは上のラジオのさらに3年前に27時間テレビでさんまさんが裏番組があって出れない間に、大竹しのぶ笑福亭鶴瓶トークで繋ぐコーナーがあったんですよね。そん時のやり取りかこれ。

しのぶ「凄い嫌なのは、例えば家族でお寿司に……、いや家族じゃないんですけど」
鶴瓶「家族でええやないですか(笑)」
しのぶ「家族じゃないですよ!」
鶴瓶「いや家族じゃないですか(笑)」 


ここでしのぶさんは鶴瓶兄さんに「元家族」と訂正させたのだけど、見た人の大部分は鶴瓶兄さん側についたと思うんですよ。「いやもう家族でいいじゃん」って。
確かに離婚してもう籍は入ってない。同じ家に住んでもいない。普通の家族とは全然違うけど、それでもこの2人といまる二千翔の4人は、紛れもなく家族なんじゃないか、と。
前節で俺は「心底愛した女性と家族を作るのに失敗した」って書いてて、最初はそういう結論にしようと思ってたけど、それは多分間違いだったんですよ。
さんまさんは世間一般の普通の家族の形とは違ったけど、間違いなくちゃんと家族をやってるんだ。これはそういう「愛」の話なんだ、と。

でね、結局「漁港の肉子ちゃん」がそういう物語な訳ですよ。
血は繋がってない、実の親子じゃない。
悪い男に度々騙されてお金貢いで、裕福な暮らしもさせてあげれず、土地から土地へと転々とする。
ちっとも普通でないし、良い母親なんかじゃない。
けどそれでも2人はちゃんと親子で、家族なんだ、と。
そういう映画なんですよね、「漁港の肉子ちゃん」。

そんな「漁港の肉子ちゃん」という映画を企画・プロデュースしたのが、同じようにちっとも普通じゃない、けど紛れもなく家族なんだと言える、愛する息子娘と元嫁を持つ明石家さんまな訳ですよ。

ここまでの文脈を乗せた上で、最後にもっぺん断言するんだけど、「漁港の肉子ちゃん」はどう考えても極めて「明石家さんまらしい」映画なんです。それはもう絶対間違いない。
それだけはちゃんと言っておかなきゃならないと思って、この記事を書いた次第であります。

 

 

 

はいという訳で以上、「漁港の肉子ちゃん」感想という名の明石家さんま論でした。
いかがだったでしょうか。
やーマジで今回ばっかりは好き勝手書いちゃったね。いや自分のブログなんだからいくらでも好き勝手書きゃ良いんだけど。
あとさー、これ最後にちょっと付け足しておくんだけど、渡辺監督のインタビュー読むと分かるんだけど、なんか凄えさんまさんへのラブコール度むっちゃ高いんだよね。
次またさんまさんと組むことがあったら今度はああしたいこうしたいってやたら語るの。

まあまずもってさんまさんが主体的に映画作りに関わるって時点で結構イレギュラーな事態ではあったんだけど、ひょっとしたらこれから2本目3本目があったりするかもね、と。
もしそうなったらまた楽しみに待ちたいもんですねー、と未来の話をしてこの記事を締めさせて頂きたいと思います。

という訳で、読んでくれた皆さんに感謝を。
そして「漁港の肉子ちゃん」を今すぐに見に行け。マジで人気無いみたいでもう上映終わっちゃいそうだからはよ。

(あと最後に、実は本記事の内容は我が盟友すぱんくtheはにーと収録したラジオで喋った話だったりします。ラジオではあんまし理路整然と話さず、話題があっち行ったりこっち行ったりしててこれはこれで文章とは違った面白さあると思うんで、興味ある人は聞いてくれるとうーれしーいなー)

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