オジュウチョウサン物語 その2 初のビッグタイトル

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4歳春での初勝利後、オジュウチョウサンは翌年春までの1年間で計7戦2勝。暮れの中山大障害6着を含め、重賞では好走こそするものの一度も馬券にならず、この時点では「そこそこやれる2線級の障害馬」程度でしかなかった。(とは言えそれでもデビュー後の暗黒期間を思えば十分な成績だが)
そんなオジュウチョウサンが一躍注目を浴びることとなったのが、5歳春の中山グランドジャンプである。
この年の中山グランドジャンプは、前年のJG1春秋連覇馬アップトゥデイト脚部不安で回避のため、そのアップトゥデイトに前走の阪神スプリングジャンプにて土をつけたサナシオンの完全なる一強ムードだった。サナシオン以外にはまともな重賞馬もほとんどいない中、前走OP2着のオジュウチョウサンは押し出される形でなんと2番人気。とは言えあくまで形だけの2番人気でしかなく、単勝オッズ1.3倍のサナシオンの前では完全なる脇役扱いであった。

しかしながらそうは思っていなかったのは、オジュウチョウサンの鞍上の石神深一騎手だった。
石神騎手は2001年に騎手デビューした、いわゆる21世紀第一世代ジョッキーである。デビュー年の成績は12勝、ルーキーとしては上々の滑り出しだ。以降も順調な騎手生活を送っていた石神騎手だったが、転落の始まりとなったのは2005年2月のことである。飲酒運転によりブロック塀に衝突する物損事故を起こしたのだ。この事故により石神騎手は4ヶ月間の騎乗停止処分を受ける。この年、石神騎手はデビュー以来初めての1桁勝利数でシーズンを終えることとなった。悪い事は重なるもので、翌年2005年は1月早々から落馬による左鎖骨骨折で一時戦線離脱。さらには所属厩舎が解散したことにより騎乗数も減少。結局石神騎手は2年連続の1桁勝利に甘んじる結果となる。
当時、自身の現状に焦りを感じていた石神騎手に声をかけたのが5歳年上の美浦の先輩、山本康志騎手だった。
「障害に乗りたいなら教えてやる、馬も回してやるぞ」
引退も考えていた石神騎手だったが、この先輩の言葉によって障害競走に現役続行の活路を見出すようになる。
しかし勿論障害転向の道もまた平坦では決してない。1年目の2007年は障害競走18鞍で未勝利に終わり、次年以降少しずつ勝ち星を上げるようにはなるも、勝利数は精々一桁台前半が関の山。2011年には平地競走も含め年間0勝というドン底を経験する。
しかしそれでも石神騎手は馬に乗り続けた。約束通り山本騎手からの騎乗紹介もあり障害競走の騎乗数は年々増加。2013年には新潟ジャンプステークスアサティスボーイで制し、念願の重賞初勝利を手に入れた。デビュー13年目、あの飲酒運転事故から9年目のことだった。

そんな石神騎手がオジュウチョウサンに初めて騎乗したのは2015年の東京ジャンプステークスだった。和田厩舎に転厩後、当初オジュウチョウサンの主戦騎手を勤めていたのは、実は石神騎手に障害転向を決意させたあの山本康志騎手だった。山本騎手が同じレースに出走するコスモソユーズの騎乗が決まっていたため、空いたオジュウチョウサンの鞍上が石神騎手の方に転がってきたのだ。
このレースの結果こそ4着の敗戦だったが、石神騎手はこの騎乗でオジュウチョウサンに惚れ込むと和田調教師に直談判。「大きなタイトルを獲れる馬です」と熱弁する石神騎手の熱意に押された和田調教師は、これを機に主戦を石神騎手に託すと、毎日の調教騎乗も全て任せるようになった。以降今に至るまでオジュウチョウサンのレースは全て石神騎手が鞍上を務めている。

しかしそこまで石神騎手が惚れ込むほどのオジュウチョウサンだが、前述の通りこの時点での成績はせいぜい「そこそこやれる2線級」程度。スタミナもあり体幹も抜群、スピード能力も申し分無いはずのオジュウチョウサンが今ひとつ勝てない理由は、ステイゴールド産駒の宿命である気性の悪さにあった。石神騎手もそのこと自体はよく分かっており、初騎乗時に身体的なポテンシャルには惚れ込んだものの、一方でレースに全く意欲を見せないオジュウチョウサンに呆れ返ってもいたと言う。
障害戦は短いレースでも3分以上かかる上に、中山大障害コースともなれば5分近くの長丁場である。馬の気性の悪さは成績にダイレクトに響く。レースに集中できない馬が勝てるほど障害レースは甘いものではないのだ。石神騎手が「走るのも嫌、飛ぶのも嫌、競馬でも出来れば走りたくない、全てが嫌々」と語るほどのオジュウチョウサンは、気性の悪さで自身の潜在能力を持て余している状態だった。

そんなオジュウチョウサンに石神騎手は毎日のように乗り込み、ゆっくりと競馬を教えていく。上手くできたら目一杯褒めて、悪さをしたらしっかり怒り、機嫌を損ねて暴れ出せば必死で宥めすかす。飽きっぽいオジュウチョウサンのために日ごとに調教メニューを変えるといった工夫もこらした。和田調教師も石神騎手がなるべくオジュウチョウサンに時間を割けるように調教予定を組むようになった。
そんな石神騎手はじめ厩舎の努力が開花したのは、中山グランドジャンプの前哨戦として選んだ障害OP戦だ。このレースで陣営は転厩以来レースでずっとつけていたメンコの耳覆いを外すことを決める。手綱どころか鞭にすらほとんど反応しないオジュウチョウサンに対し、最後の手段として舌鼓(ぜっこ。舌打ちによる馬への命令方法)による制動を試みたのだ。
元々耳覆いは音に敏感なオジュウチョウサンがレースに集中できるようにと付けられていたため、陣営としてはイチかバチかの選択だったが、効果は絶大だった。兼ねてから敗戦の大きな原因となっていたスタートの出遅れ癖と道中の反応性の悪さが劇的に改善されたのだ。馬具の変更による気性改善の例は古くから多く知られているが、ここまで極端な例も珍しいのではないだろうか。
このレースでは結果こそ負けたものの、前評判の高かったニホンピロバロンに惜しい2着。「敗因は自分の位置取りだけ。自分が上手く乗りさえすればサナシオン相手でも良い勝負ができる」石神騎手は強い手応えを感じていた。

レース本番、予想通りスタート直後からハナを切り先頭で逃げるサナシオンオジュウチョウサンは3番手の好位につけて前を行くサナシオンをマーク。レースはサナシオンの勝ちパターンで特に波乱の無いまま進んでいくが、最後から2番目の障害を越えて最終コーナーに差し掛かったあたりでレースが動き始める。オジュウチョウサンが持ったまま抜群の手応えで外からサナシオンに競りかかってきたのだ。じりじりと差は詰まってゆき、最終障害を飛越した所で2頭の差は半馬身ほど。直線に入り最後の追い比べが始まると、そこからは脚色が違った。石神騎手が追えば追うほどぐんぐんと伸びるオジュウチョウサンは直線半ばでサナシオンを捕まえると、そのままあっさり抜き去り先頭でゴールイン。最後は3馬身半の差をつけての完勝だった。

一時は未勝利引退も覚悟しなくてはならなかったはずの馬が、ほんの1年ちょっとでG1馬にまで成長するとは誰が予想したであろうか。石神騎手をはじめとした陣営の不断の努力により才能を花開かせたオジュウチョウサンが、遂に障害王者の称号を手に入れた瞬間だった。
G1タイトルはオジュウチョウサン本人だけでなく、鞍上の石神騎手、厩舎の和田調教師、オーナーの長山氏、生産牧場である坂東牧場にとっても揃って初めてのことだった。落ちこぼれの馬が運んできてくれた栄光に陣営は大喜びだった。
しかし、この勝利がこれから始まる快進撃の単なる序曲に過ぎなかったことを知る者は、この段階ではファンも含めて皆無だった。


石神騎手初騎乗

覚醒の契機

中山グランドジャンプ