ガンダム Gのレコンギスタ 第四話感想その2 富野が全天周モニターを使う理由

という訳でその2。ちょっと見出しに軽く情報入れてみた。

【戦闘の立体感】

 今話では立体的空間的な多対多の戦闘シーンが余す所無く描かれる。
 戦闘開始直後に、まずは低空から迫るエフラグ一機とカットシー一機を早くも撃破するクリム・ニックモンテーロに、対してGセルフのベルリは低空の編隊は陽動と看破し上空からの敵を捉える。一方カットシー部隊側のデレンセンは、エフラグの影に隠れてのビームライフルにて海賊側のフライングユニット、フライスコープを撃墜。
 初手で名前有りのキャラ3人にそれぞれ見せ場を与えると同時に、空中戦という三次元的な戦場において、3人の位置関係についてあくまで「それぞれの立場から」しっかり説明している。


 富野アニメのメカ戦は、こうした空間的な立体性が他のロボットアニメに対して段違いに高い。そしてそれでいて各視点の位置関係に関して、特に混乱せずに見ていられる。
 こうした空間的立体性の演出において強く役立っているのが、何を隠そう「全天周モニター」の存在だ。コクピットの内壁が360°全てモニターとなっている全天周モニターは、富野監督のアイディアによって1984年の「重戦機エルガイム」において初めて登場して以降、富野アニメの定番となっている。ガンダムシリーズにおいてもZ以降のほとんどの機体で採用されており、例外的に全天周式ではないタイプのMSも、少なくともパイロットの上半身を覆う半天周分はモニター化されている場合がほとんどだ。
 この全天周モニター、実際の工学的リアリズムのみを考えれば、ハッキリ言ってかなり意味性の薄いテクノロジーだ。現実性のみ考えるのであれば、ヘルメットに直接モニターをつけて、パイロットの首の動きに合わせてカメラが切り替わるようにする方が、よっぽど理に適っている。
 では全天周モニターの意義とは何か?と言えば、それは演出側の要請と考えるべきだ。例えば今回の戦闘において、Gセルフが3機のカットシーに囲まれる直前の数カットを見てみよう。



 第一カットにおいて、デレンセンが「抵抗するならここで落とすぞ!」と凄んだ表情をする後方で、カットシーが左から右へと動いているのがコクピット内部のモニターから見える。次のカットでは画面の右後方から左前方へと、先と同じ方向で動くカットシー。そして次のカットでは目の前のカットシーがデレンセン教官の機体である事を確認するベルリの表情が写り、カメラの「方向」が反転した事が分かる。そしてそれと同時にベルリの背後のモニターに、またも右から現れるカットシーが映される。それに驚くベルリ。
 この一連のシーンでは最重要情報としてコクピット内部のデレンセンとベルリの台詞と表情が描写されつつも、それと同時にモニターを通じて「別のカットシーがデレンセン機の後方からGセルフの背後へと回り込んだ」という、戦場における他の機体の動きが同時に分かるようになっている。
 以上のように、全天周モニターにはパイロットの表情と同時に、画面の「奥行き」を利用する事で同一カット内で戦場の状況説明を行う事が出来るという利点があるのだ。そしてそれにより、キャラクターの感情描写と、戦場における機体の3次元的な動きを同時に進行させる事が出来るのである。

 今回はあくまで一例として、全天周モニターの活用の仕方を挙げてみたが、それ以外にも富野アニメの戦闘シーンが如何に空間的かつ論理的に描写されているか、今話に限らずお気に入りの戦闘シーンがあれば改めてそうした点に注目して見直してみて欲しい。きっと驚く程に多くの発見があるはずだ。

【人はみんな嘘をつく】

 戦闘が始まる直前、海賊側には「人質を解放しなければ、MS部隊の攻撃をかける」という、キャピタル側の警告が入っていた。この「警告」に対して、人質解放で事が済むなら3人を解放しようと提言するアイーダに、この場所が知られた以上そんな事しても無駄だと返す艦長。元々キャピタルアーミィの人質救出は、軍事行動を起こす為の口実に過ぎない訳で、そこで正直に相手の要求を信じるアイーダと、その裏の意図まで瞬時に察知する艦長との差が見て取れる。
 こういったキナ臭い政治的駆け引きに限らず、人は人に嘘をつく。それも極めて日常的にだ。
 冒頭の帰還シーンでのアイーダの涙について上の節で言及したが、ここでもアイーダ、ベルリ、クリムの3人が、三者三様の「嘘」をついている。
 アイーダは自分を救出に来たクリムに対して、素直に労いとお礼の言葉を向ける。前回は「私を利用しようとしている」とクリムに対して警戒心丸出しにしていたにも関わらず、だ。それに続き、ベルリに意地悪しておいて「スマン!」と笑顔で謝るクリム君。ベルリもクリムの笑顔が嘘だと分かっていながら、表面上は笑顔で接する。

 こうなると、泣き出すアイーダを宥める艦長さんも、アイーダら到着時の「やれやれ…」の台詞から考えると、内心では「小娘が仕方ねえな」くらいには、ひょっとしたら思っているのかも知れないなと、予想できなくもない。

 こうした「腹芸」は富野アニメの特徴の1つと言われるが、普通の人間だって嫌いな相手にも愛想だけは良くするのは極々普通の事なのだ。人はみんな嘘をつく。このGレコ感想において私は度々「当然」や「普通」といった単語を使っている。「エキセントリック」だとか「濃い」だとか言われがちな富野アニメだが、その内のかなりの割合は、実際には単に「普通の」「当然の」人間描写をしているに過ぎないのだと、私は思っている。

短くするとか言いつつ結局3分割。その3へ続く。