ガンダム Gのレコンギスタ 第三話感想その2

という訳でその2

【今日も地球は回る】

 前回の終わりに、ベルリとアイーダの間には「カーヒルの死」という憎しみの種が蒔かれた。そしてそれはベルリにとっては「初めての人殺し」という苦悩の種でもある。
 しかし意外(?)にもそんな不穏な空気は今話ではほとんど引き継がれずに話が進む。ベルリとアイーダは、別にドロドロと憎悪をぶつけ合うような間柄になってない。精々アイーダの方が多少ベルリに当たりが強めな程度だ。
 何故そうならずに済んでるかのかと言えば、二人ともそんな事をしてる場合じゃないかれで、周囲が二人でゆっくりと話をさせてなんかくれないからだ。アイーダの方は調査部に連れてかれるし、そうなればベルリも家に帰らなくてはならない。二人だけで二人の間の感情のわだかまりを悠長に話している暇などないのだ。
 そしてそれが何故なのかと言えば、結局のところ世の中というのは二人だけで回っちゃいないからなのだ。大佐が席を外しノレドがラライヤの面倒を見ている僅かな時間に、ベルリとアイーダはようやく昨夜の続きを始めるが、そこには昨夜ほどの感情の昂りは見られない。また、加熱しそうになった所で大佐が横から話をすり替える。それも別に二人の間を取り持った訳では無く、あくまで自分の都合が理由だ。
 世の中別に二人のためだけに動いている訳じゃないんだから、二人の都合に関係無く、他者が平気で顔をつっこんでくる。でもだからこそ二人は遮断された世界の中でドロドロと感情のぶつけ合いで深みにはまらずに済んでいる。
 「他者がいるから救われる」というのは、多分こういう事なんじゃないのだろうか。誰かが自分を気遣ってくれるから救われるのでは無い。自分の事なんか気にせずに動く他者がいて、そんな他者と繋がっていられる事が結果的に救いになる。

「親が死のうが腹は減る。何があろうと朝日は昇る」

 これは新訳Zの際の富野監督の言葉だが、今話のベルリとアイーダの間に流れる空気感は、そうした人間哲学めいたものを感じさせてくれる。

クンタラ

 クンタラは富野監督の口から「はるか昔に“食料”となった人たちのこと」と解説されているが、それと同時に「そうした設定は劇中では描きません」とも明言されているし、実際公式HPの用語集でもクンタラは「下級階層の人々」としか説明されていない。では実際の劇中の描写からは一体どのような事が読み取れるだろうか。
 まずクンタラが被差別階級民を意味する事は1話Aパートの時点でほとんどの人に分かる内容だろう。次に法王様がノレドに愛想良くしている事から、差別感情が宗教的な由来を持たない事が予想できる。また、ルインがおそらくエリートであるだろうキャピタル・ガードパイロット候補生をやっている事から、少なくとも公的な形であらわな差別を受けている訳ではなさそうだ、という事が予想される。(もちろんあくまで予想にすぎない)
 では公的にはそうだとして、私的なレベルでの差別意識は? というとこれが面白い。何が面白いのかと言えばその多様性だ。
 ベルリはノレドに対して差別意識を見せるような事はしていないし、チアガール達だってノレドを仲間の一員として当たり前のように受け入れている。一方でベルリと同期の候補生の中にはいちいちクンタラについて突っ掛かって来る嫌みな奴がいるし、キャピタルアーミィの1人はクンタラを理由に女の子を平気で足蹴にだってする。
 で、かと思えば今話の冒頭で登場したレッカー大尉は、クンタラへの差別意識を強く持っているふうな発言をしながらも、自分の「テスト」をクリアしたルインに対しては「期待できる生徒だな」と涼しい顔をしてその実力を認めたりもする。

 いろいろな性格の人間がいるのだから、その差別意識だって千差万別なのは当然だ。その当然の個人差がGレコではしっかりと描かれる。
 そしてその「個人差」は差別される側に対しても当然示される。
 今の所登場しているクンタラはノレドとルインの二人だけだが、クンタラとして馬鹿にされる事にストレートな怒りを見せるルインだが、一方ノレドの方は自身への差別的発言に対して、まるでさも聞こえなかったかのように、いや、どうでも良い事かのようにさらりと受け流す。平気なフリをしているだけかも知れない。が、少なくとも今の段階ではノレドはクンタラとして差別している事なんて気にも止めずに楽しそうに強かに生きているように見える。

 同じ被差別民だとしても、自身の出自を気にする者や気にも止めない者と、その意識は千差万別だ。別にルインとノレド、どちらが上等な生き方をしているかとか、そういう話では無い。皆その中でそれぞれ別のスタンスでもって一生懸命に生きている。クンタラという重苦しい設定を描きながらも、こうした多様性に溢れた作劇は、どこか「生きる」事への優しいまなざしが感じられはしないだろうか。

【親子関係は良好?】

 今話ではベルリの母親との会話シーンが描かれているが、ここで見られる随分と良好な親子関係は、富野アニメにおいてはイレギュラーだ。ベルリの母はベルリからも充分好かれているようであり、良い母親をできているのだなと一見感じられる。が、細かい描写について考えていくと、多少違和感を覚えなくも無い。
 今回我々視聴者は、ノレドがベルリの母とは初対面である事から「あ、ノレドとベルリって幼馴染じゃなかったんだ」と知る事ができた。しかしここまで描かれたノレドとベルリとの距離感からは、そうは言ってもかなり長い付き合いであるのではないかとは予想がつく。と言う事は、ノレドの存在を知らなかった程度には、ベルリと母との関係性には希薄さがあるのではないだろうか。

 ベルリの指の怪我をベルリ母が気遣う事に、ベルリはちょっと嬉しそうな顔を見せる。しかしこの歳にもなればかすり傷程度に親が強く心配するのを、むしろ多少鬱陶しく感じるのが普通ではないだろうか。ここでベルリが嬉しそうにするのは、裏を返せば普段は構ってもらえていないという証拠ではないだろうか。
 お互いちゃんと愛情を持っている事は分かるものの、このシーンからはその裏返しの少し寂しい親子関係が多少見えなくもない。この時点では彼ら親子がどのようなドラマを見せるかはまだまだ予想すらつかないが、今話での穏当な関係に安心(?)するのはまだ早そうだ。

クリム・ニック

 今週の新キャラ、と言ってもまだ3話なのでむしろ毎回毎回数人ずつ新キャラが出て来るGレコなのだが、そこを差っ引いてもクリム・ニックは今話の主役キャラと言って良いだろう。登場1分で怒濤のキャラ立てが行われているが、その人物描写はなかなか深みがあって面白い。
 ラテン調の軽快なBGMと共にMSのコクピットという「高所」から登場。イロイロとご高説を打ってる所に「落ちます! 下がって!」「天才と煽てられて、調子に乗っていませんか!」と言われる。年上のオッサンキャラから敬語を使われる所からもそれなりに高い身分の人間である事も分かり、傲慢な凄腕MS乗りで周りは迷惑気味、という印象がまず発生する。
 で、その印象が定着しかけた所に、優し気な笑顔で整備士らに「ジャベリン、ありがとね!」だ。この台詞1つがある事によって、クリムの印象がただのイヤな奴でなく、愛嬌もあって憎めない奴へと一気に変化する。キャピタルタワーへと移動中のワンシーンにおける間抜けな表情も、クリムのちょっとアホっぽくて憎めないキャラクター性に拍車をかけている。

 こうしたキャラクターの積み重ねがあるからこそ、MS戦の際の、高笑いをしながらの「私は天才なのだよ!」という台詞も、そこだけ切り取れば傲慢なキャラがサディスティックに酔っているかのようなシーンだが、視聴者にとってはアホの子のお調子ノリ、くらいの印象となり、嫌悪感は少ない。

 また、今話でのクリム・ニックが面白いのは本人のキャラクターだけでなく、そこから照らし返された海賊側の人間関係だ。
 前回戦死したカーヒル大尉だが、その人物像はというと、直接画面上ではほとんど描かれてはいない。あくまで我々にはアイーダからの「素晴らしい人間」という人物評でしかこの男については知れなかった。そこにようやくカーヒルを知る別の人間が現れた訳だが、クリム・ニックは「あの歳でふざけているから!」と前話におけるカーヒルの行動をバッサリ切り捨てる。アイーダにとっては自分を救いに来たカーヒルは「王子様」としか見えないが、それがクリムの立場からは軽卒な行動としか見えなかった訳だ。
 そんな訳だから、アイーダによる「能天気な青年」「MS大好き男」というクリム・ニック評も、どこまで信じて良いかなんて分かったものではない。確かにクリムは自身を天才と自称するお調子者ではあるが、それと同時にキャピタル側の思惑や戦力を冷静に分析できる狡猾さもまた兼ね揃えており、そういったクリムの狡猾さをアイーダは認識する事ができていないとも取れる。
 この2人のどちらが正しい認識なのかという話ではなく、そもそも人間の認識なんてものは立場によって変化するのが当然なのだ。第一、カーヒルの軽率さを愚痴るクリム・ニックもまた、母艦の人間からは今回の行動を軽卒思われている訳だ。
 キャラクターが「AはBだ」と言ったからといって、それが必ずしも真実という訳では無い。今話のクリム君は、本人のキャラクター性だけでなく、1話2話まででは一枚岩的にしか見えなかった海賊側の人間模様に、複雑な立体性を与えてくれたのである。

以上三話感想でしたー。ここまでは先行上映で見て来たので、こっから先が遂に未知の領域。
「見たく無くても、見る!」らしいけど、見たくてしょうがないので見る!のだ!