ガンダム Gのレコンギスタ 第二話感想その2

という訳で続き

【世界は断片的にしか見えない】

 TwitterでGレコの感想を眺めていると「場面と場面の間が飛んでてダイジェスト見ている気がする」という反応が少なからずあった。実際Gレコを見ているとどこか「飛んだ」印象を受けるカットとカットの繋ぎが多い。
 状況の「途中」からイキナリ話を始める手法は第一話の冒頭シーンやベルリの登場シーンでも述べたように、富野流の情報圧縮術の1つではあるのだが、この手法は単に時間あたりの情報量を高めるだけではなく、もう1つの側面があるのだと私は思っている。
 Gレコで場面が「飛んでいる」と感じるのだとすれば、それは状況が、事態がリアルタイムに進んでいくからだ。カメラに映らない場所でも話はドンドン進む。今話でそれが象徴的なのは、囚人の塔から抜け出す途中のベルリとアイーダの口論シーンだ。



 ベルリとアイーダが口論をしている最中にカメラは外のMS戦を数秒映す。そして視点がベルリらの元へと戻ってきたかと思えば、アイーダがベルリの頬を殴る。ベルリのどんな発言が切っ掛けとなったのかは我々にはハッキリとは分からない。カメラがよそ見をしている間に、二人の口論は手が出る程に拗れてしまったのだ。
 これを不親切と感じる人も多いかも知れない。でもよくよく考えてみてれば、世の中って元々そんなもんじゃないのだろうか。我々は元から世界を断片的にしか見れないはずだ。
 では視界にとらえきれない部分はどうするか? 想像すれば良い。我々一人一人の視界の外側向こう側に、視界に映るよりずっとずっと膨大な世界が広がっている。それを想像できるから世界は豊かになる。歩いていてふと振り返ったら知り合いの男の子と女の子が喧嘩を始めてた。そんな時に「なんで怒っているんだろう?」「どっちから始めたんだろう?」と想像するのが人間なのだ。
 Gレコはそんな我々一人一人の想像力を信頼しているのではないだろうか。信頼しているからこそ、勇気をもって場面を「飛ばす」事が出来る。
 Gレコは状況の全てを見渡せる「神の視点」を、視聴者たる我々にすら与えてくれない。あくまでこの世界の1キャラクターと同等の視点で物語を見る事を強制してくる。だが、だからこそ我々もまたこのアニメを、この世界の一当事者として楽しめるのではないだろうか。
 Gレコのこうした作劇は、「不親切」で「説明不足」であると同時に、我々視聴者に対する「信頼」の証、そして取りも直さず、Gレコの世界への「招待券」であるのだ。

【ロボット・バトル・アクション!】

 前エントリーで述べたように、今回のGセルフグリモアの戦闘シーンは短いながら本当に素晴らしい内容だ。
 今話でGセルフは二機のグリモアを撃破する。一機目に対しては相手のマシンガンを防ぎ切った上で、反撃の頭部バルカンで一瞬で撃破。この戦闘シーンによりGセルフが性能的にはグリモアを圧倒する能力を持っている事が印象づけられる。また、この際にグリモアのマシンガンの薬莢が街灯に打ち当たるカットを一瞬サラッと入れているのも実に巧い。流れの中で良いアクセントになると同時に、生身の一般人にとってMS戦がどれ程危険なのかが直感的に実感できる効果もある。

 次にGセルフと交戦するのがカーヒルの乗るグリモア。ここでグリモアが繰り出す連続パンチは、Twitter2chなどでは「グリモア百烈拳」と早速名前がつけられていたが、それ程までに強烈な個性を発揮している。

 この連続パンチはグリモアのずんぐりむっくりとした体型とも絶妙にマッチしており、このシーンの持つ絵的なパワーは本当に強烈かつ鮮烈だ。今後「グリモアの戦闘シーンと言えば?」と聞かれれば、誰もがこのシーンを鮮やかに脳内再生できるに違いない。それだけ印象的なのだ。おそらく今後Gレコがスパロボ入りした際にはグリモアの戦闘アニメーションにこの連続パンチが採用されるのはほぼ確実と言って良いだろう。
 またこの連続パンチの描写によって、巨大な機械がここまで俊敏な動作を可能としている事や、その衝撃に耐えうるだけの間接強度を誇っている事までがこのシーンから伝わる。単なるアクションの格好良さだけでなく、メカ描写としてMSの性能説明も兼ねている訳で、見事と言うしかない。
 さらに言うなれば、恐るべき事に単なる連続パンチにすぎないはずのこのシーンだが、今までに同一のシーンを見た記憶がほとんど無い。もし今後なんらかのロボットアニメで今回と同じ構図で高速連続パンチの描写が現れたとしたら、今話のGレコを見た人間なら十中八九「あ、グリモア百烈拳のオマージュだ」と感想を持つはずだ。
 「ロボットの格好良い戦闘描写」と言うと「サンライズパース」や「板野サーカス」、最近では「種ポーズ」と呼ばれる「定番」があるが、これら定番に安易に則る事で、見ている間は格好良いと思えても、見終わった後に内容をほとんど思い出せない、という戦闘シーンを描いてしまっているロボットアニメは非常に多い。
(もちろんそうした「定番」を効果的に使用できているロボットアニメも沢山ある。)
 レクテン程ではないにしろ、素立ちのデザインだけではなかなか「格好良い」とは言い難いデザインのグリモアだが、今回の「百烈拳」のおかげで、ロボットとして一気にキャラクターが立った感がある。このようなデザインそのものと本編描写との相互作用こそがロボットアニメの醍醐味と言えよう。

その3へ続く。