ガンダム Gのレコンギスタ 第一話感想その2

という訳で続き

【説明台詞】

 ここまでではGレコが如何に「絵」の力を利用して、世界観設定の説明やキャラクター紹介を巧みに行ってきたか述べたが、その上で今度は逆に「台詞」による説明についても注目しよう。
 元来SFやファンタジー作品で「世界観設定の説明」をキャラクター同士の会話の中で成立させるのは非常に困難だ。キャラクター達は元からその世界の住人であるのだから、「世の中の仕組み」という常識なんかをわざわざ口に出す事は本来無い。日常会話の中で「この国の教育制度は小中の9年間が義務として存在し、その後に高大と…」といきなり解説を始めるような人間がどこにいるというのか。
 となると勢い世界観設定なんてナレーションや主人公のモノローグで前もって全て喋らせてしまえ、となってしまうのもよく分かる話であり、実際そういった手法に頼った作りのフィクションは非常に多い。
 それに対して富野アニメではそうした「説明の為の時間」を映像の中に組み込む手法は出来る限り避ける傾向にあり、特にブレンパワード以降はナレーションを殆ど排した作りになっている。
 そんな富野アニメの「拘り」を知っていた私は、「教師と生徒のやりとり」というベタな手法で「設定語り」を始めたGレコに対して、初見時に少なからず驚かされた。が、そこはそこ富野アニメ。一筋縄ではいかない。
 教官のデレンセンから説明を請われるベルリはまず「そんなつまらない質問」と拒否。それでもデレンセンから「教科書通りで良いから答えてくれ」と言われると渋々説明を始める。しかしベルリが話し始めると思えば「そこは良い」とすぐに遮られる。
 説明シーンであってもそれがキャラクターの「台詞」である以上、あくまでキャラクター同士の会話でなくてはいけない。であればそう簡単に長々と説明するだけの台詞が垂れ流される事は無いはずだ。説明しろと言われても不満があれば反抗してみせるし、望む説明が得られなければ話を遮る。
 「説明台詞」とは物語側からのキャラクター側に対する要請によって生まれる台詞だ。だがしかし、このように説明台詞であっても単調にならないような工夫を施す事で事で、あくまで彼等自身の内面から発せられた台詞として劇中にて成立し得る訳だ。
 そしてそうする事で、キャラクター達は「物語の駒」などではなく、この世界で生きる生身の人間としての、活き活きとした質感、血肉を持ったリアリティを獲得するのである。

【この世には男と女がいる】

 富野アニメでは男女の性別がハッキリと描かれるのが特徴だ。その特徴はこの第一話においても実に色濃く描かれている。
 今話で特に「性別」が絵的に強く描かれるシーンと言えば、何と言っても主人公達の講習中にヒロイン達が一斉に現れて場をかき乱す一連のシーンだろう。彼女らはチアガール姿に身を包み、男達に自分らの可愛さを惜しげも無くアピールする。
 注目したいのは「女子共を引っ捕らえろ!」と教官に命じられてチアガール達を追いかけようと立ち上がる実習生達の姿だ。

 彼等の表情の何と楽しそうな事。可愛い女の子達を追いかけられるのだから、それは嬉しい。楽しい。あわよくばどさくさで抱きついたりもできるかも知れない。そうした異性に対するストレートな欲望を彼らはちっとも隠そうとはしない。そんな彼らの姿が、どこか心地よくすら感じられないだろうか。
 またその一方で女性陣もただ鑑賞されるだけの「可愛い女」ではない。彼女らがベルリ達の実習訓練の場にチアガール姿で現れた理由が「未来の亭主探し」である事が、その後のシーンにおけるモブキャラとの会話で明かされる。要は彼女達も彼女達でシビアに「男の品定め」をしているのである。
 彼女らはMSパイロット候補生というエリート達のハレの舞台に乱入し、男が喜びそうなコスチュームを身にまとって惜しげも無く生足を振り上げるが、それは明確に「誰に見せるか」という事を計算した上での行動なのだ。
 最近のアニメは〜、と語れる程に私がちゃんと「最近のアニメ」を見ているのかと言えば全くそんな事は無いし、そもそもここまでジャンルが多様化した文化に対して「最近の」と一括りにする事自体が乱暴ではあるのだが、その上である種の作品群におけるここ数年の傾向として「無性化」というキーワードは当てはまるのではないかと思う。キャラクターの性差や性的な関係を極端に「脱臭」した作品がどうも近年のアニメにおける主流の1つのようである。
 そうした風潮に対する価値判断はともかくとして、それが近年の風潮であるとするなら、Gレコは確実にその流れとは反した所にある。しかしながら、Gレコのそんな時代に反した男女の描き方が妙に気持ち良い。
 可愛い女の子達と追いかけっこできるのだから楽しいに決まってる。そんな当たり前の事が当たり前のように描かれるのがGレコだ。男が女のセックスアピールに対し邪な気分を抱くのも、女が男の将来性をソロバン弾いて品定めするのも、紛れも無く充実した生の謳歌なのだ。
 この世界には男と女が存在する。やもすればジェンダー論やポリティカルコレクトネスに照らし合わせた時に問題のある描写、と見られるかも知れない。しかしながら、そうした我々の性の姿、男と女の存在を真正面から、活き活きと、楽しそうに描くGレコを、私は強く肯定したい。

【当然のリアクション】

 座学講習を受けた後、ベルリらは宇宙実習訓練へと移る。ここで遂に主人公が(アニメ中で)初めてMSに乗り込む訳だが、その際のちょっとしたやりとりが実に振るっている。
 クラウンの外壁部分のキャリアに搭載されている作業用MS(レクテン)に乗り込むため、主人公らは宇宙用ヘルメットを被り外へ通じるハッチの扉を開ける。そこでMSの向きを見てベルリが一言。
「何でコクピットが外に向いてるんだ?」
 レクテンが外側を向けて搭載されている為に、コクピットに乗り込む際わざわざ回り込まなくてはいけなくなってしまっているのだ。
 ベルリの素朴な疑問に対して同じく候補生のルイン・リーは「生徒イジメが実習なんだから仕方無いだろ」と答える。しかし劇中ではそのように解答されてはいるものの、あくまで視聴者の立場で考えるならその答えは十中八九「絵の要請」に他ならない。 
 ここで彼らが宇宙に出る直前のカットにてクラウンにレクテンが搭載されている事が既に描かれている点に注目しよう。

 これは「この軌道エレベーターにはMSが載っていますよ」という説明シーンとして我々視聴者にとっては機能する。すなわち、レクテンが外側を向いて搭載されているのは我々視聴者への説明の為なのである。しかしそんな事情は知ったこっちゃないベルリは当然文句を言う。なぜMSをわざわざ乗り込みにくい方向を向かせているのか、と。この「当然のリアクション」が実に素晴らしい。
 絵の要請や物語の要請とは所詮「作り手の都合」に過ぎない。そんな都合で不利益を被るのであればキャラクター達は当然理不尽さに不満を持つはずだ。作り手の都合に対して従順に従うようなキャラクターが「生きている」はずがないのだ。
 何気ないシーンではあるが、こうした「当然」の積み重ねこそがキャラクター達に血肉のリアリズムを与えているのである。

その3に続く。