という訳で遂に始まった富野由悠季監督最新作「ガンダム Gのレコンギスタ」。まずは今一話でのストーリーの大まかな粗筋を概観してみよう。
まず前半Aパートでは今作の中心的な舞台装置である「軌道エレベーター」に乗って主人公らが地球から宇宙に出るまでを描き、それと平行する形で世界観の説明やキャラクター紹介を同時に行う。次に後半Bパートでは、一転してMS同士の戦闘シーンに終始しながら、第一話において最も重要であろう「ボーイ・ミーツ・ガール・アンド・ロボット」を消化している。
こうして粗筋のみを追ってみると、「ロボットアニメの第一話」としては極めてオーソドックスな作りと言えるのではないだろうか。ヒロインが搭乗する主人公機が敵として現れ、それを主人公の乗る量産機が応戦する、という構図は若干王道から外れていると言えなくはないが、それにしても2014年の今となっては「異端」とまで言える程に大した特殊性は無いだろう。
という訳でストーリー性についての評価や言及はとりあえず次話以降へと後回しにして、今話の所はシーンを時系列順に追いかけて演出や作劇についてイロイロと言及していこうと思う。
【イキナリ始まる】
MS戦の途中から始まるという冒頭シーン。まず第一に注目すべきはその「イキナリ」っぷりだ。映像作品において冒頭から戦闘シーンを説明無しで始めるという手法自体はそこまで珍しいものでは無い。カーチェイスやスポーツの試合など、同様のパターンも多い。しかしながらGレコの場合はその中でもかなり特殊だ。
その特殊さはこのファーストカットが物語っている。
通常、物語冒頭でいきなり戦闘シーンから物語を始めるにしても、まずは引きの絵からゆっくりキャラクター達に近づいて行ったり、もしくはコクピットの中のコンソールから始まって、ゆっくりとパイロットの顔へとパンしていったりと、一度情報量の少ないカットから始めてから、徐々にキャラクターや状況の説明を始めるのが定石だ。それがこのGレコではそんな定石は無視し、まるで番組放送中にチャンネルを切り替えた時かと思うくらいに「イキナリ」の絵から始まる。
そもそも、情報量の少ないカットから物語を始めるという手法は、お語の導入部である事を強調する為に用いられている。要はそのカット自体が「これから物語が始まります」という宣言になっている訳だ。
そこをGレコでは「イキナリ」「途中」から始める。「そんな親切な事しなくても分かるでしょ」「そんな事してる暇なんてないんだよ」と言わんばかりに。
このスタートから全開フルスロットルっぷりの作劇に唐突さを感じてしまい違和感を覚える視聴者も勿論いるかも知れない。しかし、少なくとも1つ言える事はこれこそが富野流の意図的な情報圧縮術だという事だ。
【ロボットが巨大だ】
さてファーストカットからやたらに長々と語ってしまったが、冒頭戦闘シーンはそれ以外にも上手下手論やパイロットのカットインなど、お馴染みの富野演出が数多く見られる。中でも個人的に強く注目して欲しいのは「ロボット(MS)の大きさ」についてだ。
ある程度のガンダムファンなら最初の戦闘シーンを見た段階で「ん?今回のMSちょっと小さめかな?」と感じるのではないだろうか。何故そう感じるのかと言えば、既にこの時点でちゃんとMSの大きさを感じさせるカットを入れているからだ。
そんなの当たり前の話に思われるかも知れないが、その当たり前をちゃんとやれているロボットアニメは驚く程少ない。「ロボットアニメなんだから巨大ロボットが出てきているのは当たり前だろう」といった態度でロボットの大きさを伝えようとしないロボットアニメは意外なくらい多い。
ロボットの大きさを伝える最も単純かつ強力な方法は「人との対比」だ。富野アニメ程にロボットと人間を同一カット内に収めた絵をちゃんと自然に挿入しているアニメはなかなか無い。特に20m前後のサイズのロボットを人間と自然に絡ませるアニメは富野アニメ以外には皆無に等しいと言って良い。
(本当に皆無という訳では無いんだが、酷いのになると結局最後まで見ても「どこにコクピットがあったのかいまいち覚えてない」って作品すらある)
こちらは冒頭戦闘シーンより、今作の主人公機Gセルフのコクピットから謎の少女が身を投げ出し、Gセルフを追跡していた白いMSカットシーがその少女をMSのマニピュレーターで捕まえるシーンだ。
ロボットと人間の絡みの中でも、特に「人間がロボットの手に握られる。手のひらの上に乗る」は最も効果の高い演出の1つだ。初代ガンダムにおいても、ザクのパイロットがコクピットから出てきて手のひらの上に立つ事で劇中初めてMSが巨大ロボットである事が示される。
この両絵を比較すると、MSカットシーがザクと比べて少し小さめのサイズである事が分かる。このように、既に1話のアバンタイトルが始まる前からGレコでは「このアニメのロボットはこれくらいの大きさですよ」という説明が終わっているのである。この情報量!
おそらく今後もロボットと人との絡みがGレコにおける画面の魅力の1つになるだろうと予想される。Gレコを見る際には是非その点に注目して欲しい。
(とは言え演出の都合によってロボットの大きさが「良い加減」に変化するのもまた富野アニメの特徴なので、このワンシーンだけでMSの大きさを断ずるのは早計ではある。要は「巨大な人型の機械」という絵空事にリアリズムを与える上で人との対比が非常に重要なんですよという話)
(というか改めて見比べてみると実はあんまり差は無いか?)
【世界観を絵で説明】
「謎のモビルスーツ」というタイトルコールの後に映し出されたのは、教会での説法から今作の世界観の核となる軌道エレベーターの発進シーンまでだ。1分程度の短いシーンではあるが、上から下、左から右、下から上、という自然なカメラワークの中で、ここでも驚く程の情報が詰め込まれている。
まずは教会内のシーンにおける神父様だか司教様だかのお説法。この説法の内容から、まず我々は「この世界では地球の人達は宇宙からの何らかの供給により生活できているんだな」「その社会状況の正当性を宗教の形で民衆に信じ込ませようとしているんだな」という事が分かる。ここで読み取れる情報はおそらく今後重要になっていく要素のはずだ。
そしてさらに注目すべきは教会に集まっている民衆のシーンだ。席に座っている人々の服装は色もガラもバラバラで、明らかに私服である事が分かる。空席も目立ち、明らかに前列を避けて座っている人達が多い事からも、彼らが熱心な信徒とはとても思えない。
また、奥の方では扉の近くで立ったまま話を聞いている人達もいる。観光客の物見遊山か、暇だしちょっと覗いてみよう、程度の人達だろう。扉が開きっ放しである点から、教会側もそうした興味本位の見物客を拒んでいない事が察せられる。
いかがだろうか。この一枚の絵からだけで、この世界観の中で教会と人々とがどのような距離感を持っているのかが何となく伝わって来ないだろうか。
SFやファンタジーなどのフィクションにおいて架空の宗教が登場した場合、その教義については説明がなされるものの、その宗教が社会の中でどのように受容されているのか、宗教と民衆とはどういった距離感であるのかについて適切に説明がなされる事はことのほか少ない。
それをGレコでは、長々とした台詞での説明でなく、感覚的に「大体こんなもん」と分かるようにワンカットの絵でもって説明をしてしまっているのである。
次に描かれるのが軌道エレベーターの離陸シーン。ここで注目したいのは、軌道エレベーターの球体型ブロック(劇中ではクラウンと呼称)が連結する際、職員と思しきキャラクターが手旗で合図している所だ。
Gレコの世界では科学技術の開発が禁止されており、文明の発展発達はストップしている。軌道エレベーターやMSを始めとした超未来的な技術は基本的に過去の遺産でしかない。そうした設定が監督のインタビューなどから放送前に既に明かされてはいるが、一方で劇中においては、少なくとも1話の段階ではそういった込み入った世界観設定がハッキリと台詞やナレーションで説明される事は無い。
言葉での説明は無いのだが、そこを「多重連結式の軌道エレベーター」という超未来的なSFガジェットを「手旗で合図を送る職員」という人力手段でもって運用しているシーンをさらりと挿入する事によって、細かい設定などは分からずとも「超技術とアナログ感が同居した世界観なのだな」という印象を持たせている訳だ。
ここでもまた世界観をあくまで「絵」で説明しているのだ。
こうした「世界観の説明」について、ここまで詳しく言語化して理解できていなくとも、似たような印象を何となくは持てていた、という人は多いのではないだろうか。その「何となくの印象」で物語の進行と設定の説明を同時に進める事が出来る事こそ「映像の力」なのだ。
【キャラクターの自己紹介】
ここから主人公であるベルリ始めとした主要な登場人物が次々と現れるのだが、ここでもキャラクターの人物像が物語の経過とともに高密度に圧縮されて説明される。
まずイキナリ「主人公が鞭を避ける」というシーンから始まるが、ここで「何故主人公は鞭で叩かれるような事になったのか」という事への説明は一切なされない。が、視聴者はその後の数秒の主人公と教官のやりとりを見れば、そこに違和感を持たなくて済むようになっている。
「なんで避けたんだ!」
「常日頃、臨機応変に対応しろとは大尉殿の教えであります!」
明らかに主人公のベルリは教官であるデレンセンをおちょくっている。そして直後、苛立った口調で再び鞭を振るうデレンセンに対して、鞭をかい潜りながら懐に飛び込みニヤッと笑うベルリ。
この数秒のやりとりだけで、ベルリが周囲に比べて飛び抜けて優秀な生徒であり、身体的にも身のこなしが軽やかで、そしてその能力を活用して他人をおちょくって面白がる奔放な性格のキャラクターである事などが自然と分かる。それが分かる事によって、最初の鞭のシーンも「何か教官をからかって怒られているのだな」という事が何となく予想がつく。それさえ分かれば最初のシーンは途中からでも問題無い、という訳だ。この情報圧縮術。
また、ベルリとデレンセンとの直接的なやり取りは勿論だが、それを見ている他の生徒達のカットについてもさらに注目しておきたい。
ここで彼らはベルリとデレンセンの小競り合いを楽しそうに眺めており、このカットがある事によって、ベルリのこうした態度が彼等にとっては「いつもの風景」である事が理解出来る。
また、デレンセンについても、このワンカットがあるおかげで彼が決して一辺倒なスパルタキャラなのではなく、お調子者の生徒にからかわれる姿を他の生徒から微笑ましく見られる程度には、生徒らとフレンドリーな関係性を築いている事が分かる。
デレンセンに関してはこうした生徒側のリアクションに加えて、今話終盤における「俺の可愛い生徒」発言などによって、かなり「良い大人」をやっている印象が持てる。単独の描写としては誰かを怒鳴りつけているシーンが大半であるにも関わらず、だ。今話におけるデレンセンの見事なキャラ造形を見せられると、「良い大人」を描く上で、必ずしも直接的に子供を助けたり守ったり、子供達に理解を示すシーンが必要という訳ではないという事がよく分かる。
今回登場した全てのキャラクターについて解説する事は流石にできないが、ともかくこの第1話ではこのように高度な情報圧縮の中でキャラクターの性格説明がなされている訳だ。
自分でも思いのほか長くなったので3分割。その2へ続く。