オジュウチョウサン物語 第6章5「2頭の王者」

 

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 レース中盤を過ぎてもペースを緩める気配の無いアップトゥデイトだが、オジュウチョウサンもまた道中ジリジリと少しずつ追い上げを図る。向こう正面の障害地点までで差を10馬身程度にまで詰めると、最終3コーナーのバンケットを登りきった直後、遂にオジュウチョウサンがスパートをかける。差が一気に詰まり始め、4コーナー手前の最終障害を飛越した時にはその差はおよそ5、6馬身。
 
 限界ギリギリのペースで逃げ続けたアップトゥデイトが苦しいことは誰の目にも明らかだ。普段は「雄大」と称するにふさわしい、美しい弧を高く描くアップトゥデイトの飛越が、いつのまにかハードルを超えるギリギリの高さにまで下がっている。ダートコースを横切り最後の直線へと向いた瞬間、これまで一人旅を続けていた林の視界の端に、新緑の芝に差す馬の影が映る。後ろから迫り来る1頭の馬の影だ。
 
(やはり来たか……!)
 
 影の持ち主はどの馬か? 振り返って確かめる必要などもはや無かった。実況席の山本直が叫ぶ。
 
「前王者か! 現王者か!」
 
 約3馬身差で直線入り口にアップトゥデイトオジュウチョウサンの2頭が立ち、遂に最後の追い比べが始まる。
 
 昨年の中山グランドジャンプから前走の東京ハイジャンプまでの丸2年間、オジュウチョウサンはいつでも最後の直線、余裕で前の馬をぶち抜いて完勝を続けてきた。捕まえられない馬など、ただの1頭たりとて存在しなかった。しかし今日ばかりは、前を行く前王者アップトゥデイトとの差が簡単には詰まらない。必死で鞭を振るう鞍上石神深一
 
 アップトゥデイトが2年半前にレコードタイムで同じ直線を駆け抜けたあの日、自分を追う馬など、ただの1頭たりとて存在しなかった。一完歩ごとに後ろを置き去りに差を広げていたはずが、今は1歳下の現王者オジュウチョウサンが猛然と自分を追い詰める。まるで祈るかのように頭を伏せて手綱をしごく鞍上林満明
 
 短い中山の直線が2頭と2人だけの世界となる。急坂を登る2頭の差が2馬身、1馬身と縮まり、遂に馬体が重なる。2頭が揃ってゴール板の前を駆け抜けた瞬間、観客の目に映っていたのは、アップトゥデイトに僅か半馬身先んじたオジュウチョウサンの姿であった。

 勝敗は決した。

 スタンドからの割れるような歓声が響く。変則マッチレースを半馬身0.1秒差で制したのは、現王者オジュウチョウサンだった。
 2頭の後ろ、3着ルペールノエルまではおよそ20馬身弱。タイムは4分36秒1。掲示板に表示されたタイムの上に赤く光る「レコード」の4文字に、今一度スタンドからどよめきの声が上がる。
 2頭が叩き出したこのタイムは、1991年のシンボリモントルーが保持していたレコードタイムを1秒1をも上回るものだった。当時シンボリモントルーの背負っていた斤量は59kg。別定戦から定量戦に変更され、63kgを背負わされる現在の中山大障害では、もう永劫破られることがないとまで思われていた記録だった。
 
 林はコースから引き上げるさなか、アップトゥデイトの馬上で「あれしか無かったんだ……!」と口にしたと言う。レース後のインタビューでは「時代を間違えた」と記者に告げた。
 オジュウチョウサン相手に2度目のJGI2着。しかも今回は25年以上破られなかったレコードタイムを更新し、後続に20馬身以上を引き離しての敗戦である。まさに「時代を間違えた」としか言いようが無いだろう。
 
 しかし、だ。この歴史的名レースを生んだのが、オジュウチョウサンに勝つことだけを考えた前王者の捨て身の戦法にあったのは誰の目からも明らかだ。レース前は脇役、引き立て役に過ぎないと見なされていたアップトゥデイトだが、レースが終わった後に同じように思う観客など皆無であった。
 もはやどちらが勝ち馬かなど関係無い。全てを足し尽くし死闘を演じた2頭の王者に、スタンドの観客から惜しみない賞賛の拍手が送られた。
 
 こうして第140回中山大障害は、世紀の名勝負の記憶を観客達の心に深く深く刻みつけ、その幕を閉じた。

 

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