オジュウチョウサン物語 第6章3「20馬身差のマッチレース」

 

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 アップトゥデイトの主戦を務める林満明は、昨年の中山大障害と今年春の中山グランドジャンプ、JGIでの2度の敗戦騎乗をこの1年悔やみ続けてきた。
 アップトゥデイトが最も得意とするレースは、無尽蔵のスタミナにものを言わせたハイペースの消耗戦だ。しかし一方で、アップには先頭に立つと集中力を切らしてしまう悪いクセがあった。
 障害デビュー戦で2着に惜敗したのもそれが理由だった。3コーナーで余裕の手応え。圧勝だなと思って先頭に立つと、最終障害で物見をし始めてしまったのだ。
 そのためアップトゥデイトにとっては、自分自身は好位に控えて前の馬にハイペースでレースを引っ張ってもらい、レース終盤で抜き去るという展開が理想となる。
 レコードタイムで圧勝した2015年の中山グランドジャンプがまさにそういったレースだった。
 
 しかし、オジュウチョウサンとの3度の敗戦では、いずれも先行馬はペースを控える形であった。結果的にレース全体はスローペースとなり、決め手は終盤のスピード勝負となってしまった。
 先頭に立ってどれだけ集中力が維持されるかに不安のあった林は、自分から動くことができず、結果的にオジュウチョウサンが競りかけてくるのを待ってしまったのだ。結果は惨敗である。オジュウチョウサン相手にスピード勝負では分が悪い。そのことは分かっていたはずなのに、アップを信じきれずに消極的な騎乗をしてしまった。相棒に申し訳が無かった。
 
 中山大障害の戦前、調教師の佐々木は林満明に繰り返しこう伝えていた。
 
「ボロ負けしても構わないから今度は行くだけ行って、サバイバルゲームみたいなレースをしようや」
 
 オジュウチョウサンが他馬を圧倒しているのは、何と言っても平地での末脚だ。最後の直線入り口で同じ位置にいるようでは、残りのスタミナ分と持ち前のキレ味でほぼ確実に差し切られてしまう。
 であれば、一昨年の中山グランドジャンプをレコードで制した時にすらまだ底を見せなかった無尽蔵のスタミナでもって、ギリギリの消耗戦に持ち込むしかアップトゥデイトに残された勝利の道はない。
 
 林が佐々木の言葉に腹を決めたのは、前走阪神ジャンプステークスでの勝利があったからだ。このレースでは押し出される形で序盤からアップトゥデイトが先頭に立つが、最後まで集中力を切らすことなく逃げ切ることに成功した。アップもいつの間にか成長していた。
 これならやれる。林にも覚悟が決まった。元王者の見栄もプライドもかなぐり捨てた自滅覚悟の大逃げ。それがアップトゥデイト陣営の選択だった。
 
 アップトゥデイト林満明は4100mという長丁場の中山大障害を、1ハロン13秒台前半という破滅的なラップを刻みながら逃げ続ける。
 
(3つ目! ……4つ目!)
 
 障害を1つまた1つと飛越するたび、林の集中力は研ぎ澄まされていった。自分のペースを堅持することだけに全神経を集中させる林の脳裏からは、後続との差のことなどはとっくに消えていた。
 
 この時、どよめきの広がるスタンドにて観客の何名かが、1人の男が放つ、枯れるような大声の声援を耳にしている。
 
「満明ー! 良いぞー! そのままだー!」
「頑張れぇ! みつあきー!」
 
 まるでこの展開を知っていたかのような内容の大声が、スタンドの片隅に響き渡っていた。

 声の主は誰あろう、調教師佐々木晶三だった。元来調教師にとって、馬と騎手に出来ることはあくまでレースの準備であり、一度レースが始まってしまえば出来ることは何も無い。それが調教師という人間の立場である。しかし、この時の佐々木は間違いなく林と、そしてアップトゥデイトと一心同体だった。アップトゥデイト陣営の全員が、一丸となっての渾身の大逃げであった。
 
 オジュウチョウサンにとって、奇襲大逃げは前走で既に打ち破った戦法ではある。しかし今回の相手はその時とは格が1つも2つも上のアップトゥデイトだ。
 去年の暮れからアップトゥデイト相手に3戦完勝を続けてきたオジュウである。本来なら不安に思うことなど1つも無い所だった。しかし、鞍上の石神の心の片隅にはずっと「ハイペースの時計勝負になったら、もしかしたらアップに敵わないんじゃないか」という小さな不安がひっそりと残っていた。その不安が目の前に現実となって襲いかかって来たのだ。
 
 大逃げで先頭をひた走るアップトゥデイトに対し、オジュウチョウサンもまたいつでも追い出しができるよう後続集団の先頭に立ち、実質的に馬群を引っ張る立場に出る。
 途中でバテれば惨敗必至のアップトゥデイトは元より、オジュウも自分から動いて捕まえに行く立場を選んだ以上、20馬身を超える差を自分1人で埋めなくてはならないのだ。追い出しのタイミングとペース配分を間違えれば、脚を無くして後続に飲まれかねない。石神もまた覚悟を決めたのだった。
 
 アップトゥデイトが仕掛け、オジュウチョウサンが応える形になったこのレース。両馬ともに一歩間違えれば自滅覚悟。もしも2頭が揃って着外へと飛ぼうものなら、その時点で馬連万馬券確実。3連単に至っては最低でも30万馬券を超える*1
 とんでもない状況に突入したレースに対し、スタンドから上がる声は歓声か、はたまた悲鳴か。新旧王者が演じる20馬身差の変則マッチレースは、2頭以外を置き去りにして淡々と時計を刻んでいった。

 

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*こぼれ話*
 林騎手がレースを悔いていたって話はnetkeibaで企画された石神騎手との対談(下記URL)で「前の年(2016年)の大障害で自信のない乗り方をしてしまった」というコメントから汲んだものだけど、何がどう「自信のない乗り方」かは特に語られていないので、詳細はあくまで筆者の独自判断。素人目にはレースを見る限り一番消極的に乗ってたのはむしろ17年の中山グランドジャンプの方なので、実は記憶違いか言い間違いだったのではと疑っている。
https://news.netkeiba.com/?pid=column_view&cid=40010

*1:シンキングダンサーとマイネルフィエスタの馬連121.7倍、シンキングダンサー→マイネルフィエスタ→スズカプレストの3連単3010.9倍がそれぞれオジュウとアップ抜きの最安値馬券。