オジュウチョウサン物語 第4章3「障害騎手、石神深一」

 

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 障害騎手としての道もまた決して平坦ではなかった。
 練習で初めて障害コースを回った時には飛越の際の余りのスピードに「これは恐っかねえ!」と衝撃を受けたと言う。小学5年生の頃から乗馬を嗜んでいた石神は、中学2年時には障害馬術で関東大会優勝も経験しているが、障害競走で飛ぶのは乗馬とは全くの別物だった。
 しかしだからと言って諦める気持ちにもならなかった。これでレースに乗らなきゃ根性無しと思われる。むしろ逆に燃える気持ちが湧き上がってきた。負けず嫌いの男なのだ。
 
 とは言え気持ちだけではどうにもならないのがレースである。
 4月の東京競馬場で障害競走に初騎乗した石神だが*1、完走するのが精一杯だった。3つ目の障害飛越でバランスを崩した挙句にステッキを落としてしまったのだ。そこからは頭が真っ白で、ひたすら馬にしがみついているだけだった。結果は10着に大敗しているが、落馬しなかったのが不思議なくらいだった。
 レース後は心が折れそうにすらなった。
 
 初戦の結果が石神のその後をも象徴していた。1年目の2007年は障害競走18鞍に乗って未勝利に終わる。
 ようやく初勝利を上げたのは翌年の7月。障害競走43戦目、初騎乗から1年2ヶ月目のことだった。しかし初勝利こそ上げたが、この年は合計42鞍乗って結局この1勝が唯一の勝利となった。
 以降は少しずつ勝ち星を上げるようにはなるも、勝利数は精々1桁台前半が関の山。2011年には平地競走も含め年間0勝というドン底を経験する。
 
 当時子供もできたばかりだったこともあり、家族のためにも危険も少なく安定した収入が見込める調教助手の道を選ぶ方が良いのでは無いかとも考えた。
 しかし、そんな石神を騎手という立場に繋ぎ止めてくれたのは、最愛の妻だった。

「辞めない方がいいよ。辞めたら後悔するから続けた方がいいんじゃない」

 普段あまり仕事のことには口を出さない妻の言葉に石神は驚いた。こうまで言われて騎手人生を諦める訳にはいかない。 
 石神は馬に乗り続けた。約束通り先輩山本からの騎乗紹介もあり障害競走の騎乗数は年々増加。2013年には新潟ジャンプステークス(JGIII)をアサティスボーイで制し、念願の重賞初勝利を手に入れた。デビュー13年目、あの飲酒運転事故から9年目のことだった。
 
 この翌年以降、石神の騎乗選択に明らかな変化が現れ始めている。2013年までは概ね同数程度だった平地と障害の騎乗数が、明らかに障害競走に偏りだしたのだ。
 以下は2007年から2016年までにおける、平地、障害競走それぞれの騎乗数である。
 
 07年 平地138 障害18
 08年 平地 85 障害42
 09年 平地 63 障害41
 10年 平地 49 障害53
 11年 平地 44 障害48
 12年 平地100 障害70
 13年 平地 60 障害61
 14年 平地 28 障害74
 15年 平地 11 障害73
 16年 平地  8 障害93
 
 元々石神にとって障害騎乗は、騎手を続けていくための苦肉の手段だった。「障害も乗れる騎手」なら平地だけでやっていくより食っていそうだと思って始めたはずだった。
 しかしいつしか石神は、障害競走そのものの魅力にとりつかれていった。
 
 最初に障害レースに乗った時は恐怖に心が折れそうにすらなったが、慣れてしまえばその恐怖こそがある種の麻薬的快感となった。とある雑誌記事*2の中で石神は少々剣呑とも言えるコメントを残している。
 
「ボクたちね、障害レース中毒ですから。一度でもあのスリル、ドキドキ感を味わったらやめられなくなる。障害レースにおける恐怖感が、もうボクたちの生き甲斐というか。レースを完走しただけでとてつもない達成感がある。勝てばなおさら」
 
 最初はあくまで食っていくため、妻子を養うために始めたことだった。しかし結果的にそれが天職に繋がった。
 いつの間にか石神は、純然たる「障害騎手」となっていた。

 

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*こぼれ話*
 石神騎手の障害競走初挑戦後の感想について本文中では「心が折れそうにすらなった」と書いているが、これもメディアによっては「負けず嫌いなので逆に『やってやる』と燃えた」と言ってる時もあり、人間の思い出語りの難しさを感じる。

*1:2007年4月29日東京競馬場4レース障害4歳以上未勝利。12番人気ジンデンバリューに騎乗。

*2:『競馬最強の法則』2018年2月号