Gのレコンギスタ備忘録 第2話

以下の内容は2015年刊行の同人誌「Gのレコンギスタ備忘録」の内容の再掲です。

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【人は自分の立場からしか喋れない】

ベルリ 「あれー?」
アイーダ「何です?」
ベルリ 「……」
アイーダ「何です!?」
ベルリ 「僕が出て時のまんまの格好なんですよ、これ」
アイーダGセルフです」
ベルリ 「何で?」
アイーダ「私がつけた呼び名です」

 以上はGセルフの元へと辿り着いたベルリとアイーダが、Gセルフを見上げながら交わした会話だ。ここでは二人の伝えたい事、聞きたい事が見事にすれ違っており、すれ違ったまま訂正される事なく会話が進んでいる。
 わざわざ説明するまでもないかも知れないが、ベルリはGセルフが動いていない事に疑問を持つが、アイーダはベルリの「これ」という言葉に反応し、MSの名前を教える。しかしベルリは自分の疑問が解消されないままなので重ねて「何で?」と尋ねるが、アイーダGセルフの名前について聞かれたのだと勘違いし「私がつけた呼び名です」と、少し自慢げに答える。
アイーダが「何です?」とベルリに尋ねるも、ベルリが特に反応せずに黙っているので、強めの口調でもう一度同じ台詞を繰り返す部分も、「人間同士の会話」という感じがして面白い)
 ここでベルリとアイーダの二人は、基本的に自分のしたい話しかしておらず、相手が何の話をしようとしているかを察する事をしないままに会話をしている。はたから見れば間抜けなシーンだが、案外人間、雑談時の会話なんてこんなもので、尋ねられた事に対して微妙にズレた返答を返している場合というのは思ったよりも多い。
(試しに友人との雑談を1時間ほど録音しておいて、後で文字起こししてみると良い。驚く程噛み合ない会話を噛み合ないまま流している事に気付くから)
 何故会話がすれ違うのかと言えば、それは結局人間は自分の立場からしか物を見る事も、何かを発する事も出来ないからだ。このシーンにおけるベルリとアイーダのチグハグな会話は、コミカルでありながらも、Gレコにおける群像劇的な作りの象徴でもあるのだ。

 このシーンのみであれば、ベルリとアイーダのすれ違いは、単にちょっとクスリとくるだけのコメディで終わるが、Gレコにおけるこうした群像劇的な作劇は、シリアスで残酷なシーンにおいても容赦無く機能する。
 今話ラスト付近、カーヒルグリモアコクピットを撃ち抜いたベルリに対し、アイーダは錯乱した様子で泣きわめきながら「カーヒル大尉を生き返らせて私に返してください!」と胸ぐらを掴み詰め寄る。しかし想い人を殺されて錯乱状態のアイーダに対し、当のベルリは自分が人殺しをした実感を持てないまま困惑しているようだ。ルインの言う「ベルは彼女を庇ってやったって言ってます」という台詞からも、ベルリは自分の行為をむしろ純粋にアイーダを守る行為として認識している事が分かる。ベルリにとって生身の姿を知るアイーダと、顔どころか声すら聞いた事の無いカーヒルとの間では、人としての現実感に大きな隔たりを感じざるを得ないのだ。
 それ以上にさらに現実感を持たないのがルイン先輩の方であり、ケルベス教官に向けて言った「一発でしょ?」という台詞には、どこか後輩の活躍を自慢するかのような雰囲気すら感じられる。それに対しケルベスの方はどこかお互いの心情を察しつつ物を見てる印象があり、この場の最年長者として「大人」をやっている。
 ルインとケルベスよりさらに遠巻きに状況を眺めるのがノレドとマニィ。この二人は一様にベルリの肩を持ち、アイーダに対して憤慨しているようだが、その中でも微妙に二人の立ち位置には差がある。
 ノレドの方は「ベルが人殺しする訳ない!」と全面的にベルリを擁護してみせるが、一方マニィの方は「そう! 自分で仕掛けた結果なのに!」と、「殺しはしたけど正当防衛のはずだ」くらいのトーンで、ノレドに比べると若干温度差がある。作業をしながら、というのもコントラストを際立たせている。この二人の反応の差は、そのままベルリに対する距離感の差と考えて良いだろう。
 「カーヒルの戦死」という同じ事象に対しても、キャラクターの立場によってそのリアクションはここまで大きく変化する。このような作劇を支えるのは「人は自分の立場からしか物事を見れない。喋れない」という当たり前の認識であり、それこそが血肉を持ったキャラクターらによる群像劇を成立させているのだ。 

 

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