「この世界の片隅に」は決して既存の戦争ものやヒロシマものに対するカウンター作品などではない

注:以下には漫画「夕凪の街 桜の国」の全編ネタバレが詳細に含まれています

たった今、上の文章を「ネタバレ注意とかしゃらくせえんだよ!大体ネタバレ程度で魅力落ちるような軟弱な漫画じゃねえからこれ!ばーかばーか!」とかいう気分でタイプしました。
まあそれは置いといて。

どうも。クラウドファンディングの出資者のくせして未だに「この世界の片隅に」見に行ってないあでのいです。
本当は映画見に行ってからこの記事をあげようと思っていたんですが、最寄り映画館での公開が2月以降なのでもう面倒くさくなってあげてしまいます。
別に「西野記事がいつまでもトップにあるのあんまり良くないな」とか思った訳ではありません。

中身は「この世界の片隅に」のムーブメントにかこつけた「夕凪の街 桜の国」のお話ですのでご留意ください。


この世界の片隅に」について、以下のような内容の感想を度々見かける。


このツイートに限らず、「この世界の片隅に」に対しては「これまでの戦争映画と違う」「こんな原爆に対する向かい方があったとは」とその新奇性に多くの称賛が浴びせられた。なるほど確かに「この世界の片隅に」は見た人の多くの心に、既存の戦争映画や原爆映画へのカウンターとして実質的に機能したのは間違いないようだ。

が、極めて個人的な所見だけ言わせて貰えば、(映画は未見であるため言及はできないが少なくとも原作漫画に限って言えば)「この世界の片隅に」は既存の戦争物やいわゆるヒロシマ物に対するカウンター作品では決してない。
カウンターとはそもそも相手の攻撃が先行して存在し、その威力を利用したり隙を突くことで相手に効果的なダメージを与える攻撃方法を指して言う。すなわち「カウンター」作品とは既存の先行作品の存在がなければ意味をなさない作品であることを意味する。
この世界の片隅に」ははたしてそんな作品か? いや違う。この作品は単独で相手のK.O.を十分狙える作品だ。既存の先行作品の存在を必ずしも必要とはしていない。
そして、だ。実は作者のこうの史代は、すでに一度クリティカルなカウンターを放っており、それこそが「この世界の片隅に」に先行して発表された「夕凪の街 桜の国」なのである。

という訳で本記事では「夕凪の街 桜の国」がどのような作品か、いかなる意味でカウンター作品であるかについて解説する。
夕凪の街 桜の国」は「夕凪の街」「桜の国(一)」「桜の国(ニ)」の全3部で構成される。それぞれの内容を順々に見ていこう。

夕凪の街

「夕凪の街」は終戦10年後の広島、すなわち原爆投下から10年後の広島を舞台にしている。
主人公である平野皆実は少女時代に8月6日の広島を体験し、そのまま広島市内に残り今も相生通りのボロ屋街、いわゆる原爆スラムで暮らす女性だ。
彼女が過ごす広島の町にはそこかしこに「原爆の傷跡」が残され、彼女を含めた町の人々はその光景を視界の端に入れながら、どこか見て見ぬ振りをしながら生きている。

それを皆実は「ぜんたい、この街の人は不自然だ」と言う。もちろんその言葉は皆実自身に対しても向けられる。
皆実は繰り返し「わたしが忘れてしまえばすむことだ」と言う。しかし皆実は「忘れられない」ことに苦しめらる。

皆実には、打越という名の気になる男の人がいる。打越の方も皆実に好意を抱いている。というより打越の方から皆実にアプローチをかけているというのが正確な表現だ。
しかし皆実は彼の気持ちに応えることができずにいる。何故か。それは原爆の記憶があるからだ。

彼女は原爆投下後の地獄のような惨状の街の中で、何人もの友人を見殺しにし、死体から物を盗み、なんとかかんとか生き延びた。そして、そうやって自分一人が生き延びてしまったことに対する罪の意識に、生き延びた後もずっとずっと苦しめられている。彼女は言う。

「そっちではない、お前の住む世界はそっちではないと誰かが言っている」
「しあわせだと思うたび、美しいと思うたび、愛しかった都市のすべてを、人のすべてを思い出し、すべて失った日に引きずり戻される」
「お前の住む世界はここではないと誰かの声がする」


打越から告白を受けた次の日の朝、皆実は打越にこう伝える

教えて下さい。うちはこの世におってもええんじゃと教えて下さい

凄惨な日のトラウマを打越に打ち明け、彼女はそこで初めて赦しを得たように感じて息をつく。
「生きていてくれてありがとう」と言う打越の手を握り、彼女は笑みを浮かべる。

が、この「ハッピーエンド」への予感は次のコマで一瞬にして砕け散る。
次のページ以降、読者はただただ皆実が衰弱していく様だけを読ませられる。
脚も立たなくなり、物も食べられなくなり、血を吐き、目も見えなくなる。そして死んでいく。そのプロセスがごく淡々と描かれる。
これが原爆の後遺症、すなわち被曝障害であることは明らかだ。
皆実は死の淵で、心の中でだけつぶやく。

「ひどいなあ。てっきりわたしは死なずにすんだ人かと思ってたのに」

つまり、端的に「夕凪の街」の内容を要約すれば、以下のようになる。
原爆の被害を受け、そのトラウマを抱えながらも戦後の生活を営んでいた女性が、何とかかんとかちっぽけな幸せを見つけ、そしてそのちっぽけな幸せが被曝障害によって無残に散らされる、というひどくひどく悲しいお話だ。

語弊をおそれず言うならば、直接的な原爆描写こそないものの「夕凪の街」は極めて典型的な「ヒロシマ」漫画なのである。

桜の国(一)

さて2章目の「桜の国(一)」である。こちらは一転、ヒロシマどころか広島とも何ら関係のない、昭和の終わり頃の東京が舞台の物語だ。
お転婆な野球少女の石川七波と、物静かでお淑やかな利根東子の仲良し小学生女子2人が、七海の弟のお見舞いに隣町の病院へ行くという、ごくごく他愛無いお話だ。

「その年の秋に七波が転校して別れ別れになった」という内容の最後の1ページさえ無ければ、このままいわゆる日常マンガの第一話にしてしまっても十分成立する内容だ。次回からは4コマ漫画になっていたとしても驚きはない。

ここで初めてこの漫画を読んだ人は多少困惑する。「夕凪の街」と「桜の国」の間にあまりに繋がりがなさすぎるからだ。実際、初めて私が読んだ時も「単なる短編連作か?」とこの時点では訝しんだものだった。
が、そうではなかった。この2作の間には実は非常に大きな繋がりがあり、それどころか、むしろ一見した際の「繋がりの無さ」こそが最も重要であったことが、最終章の「桜の国(ニ)」で判明する。

桜の国(ニ)

「桜の国(ニ)」はタイトルが示す通り、前章の直接の続編だ。主人公は変わらず石川七波がつとめる。「桜の国(一)」から17年後のお話だ。

最近素行に疑問のある父が散歩と言って夜に家を出るのを見て、七波はひっそりとそのあとを追いかける。その最中に幼馴染の東子と久方ぶりに再会し、一緒に父の尾行をしていたら、あれよあれよという間に広島行きの夜行バスにまで乗ってしまう。というのが「桜の国(ニ)」のお話。


広島に着いて分かったのは、七波の父が広島の親戚の家を訪ね廻っているということだ。
この物語の中で、度々挿入される断片的な過去のシーンにより、七波の父の石川旭が「夕凪の街」の平野皆実の実弟であること、すなわち七波が皆実の姪にあたることが我々読者に明かされる。
血縁関係による「夕凪の街」と「桜の国」の繋がりがこれで分かった。ではそれは物語として一体どのような意味を持つか。それは以下の通りだ。

せっかく17年ぶりの幼馴染との再会にもかかわらず、七波は心の中で「あいたくなかった」と零す。何故?

「この人の服といい髪といい、あの桜並木の町の陽だまりの匂いがする」

東子と共に行動する中で、七波は2人の人のことを思い起こす。母と祖母の記憶だ。

七波にとって、東子と共に過ごした町の思い出は、母の死と祖母の死を思い出させる嫌な記憶、すべて忘れてしまいたい記憶になってしまっていたのだ。
そしてその母と祖母の死には、「原爆」の2文字が色濃く刻まれている。

少し乱暴にまとめれば、「桜の国」で描かれた七波の美しい少女時代の思い出は、「(一)」から「(ニ)」の間に流れた時間のうちに、「夕凪の街」で描かれたような「ヒロシマ」の物語に、すっかり侵食されてしまっていたのだ。一見繋がりが無いかのように見えた「夕凪の街」と「桜の国」は、いつのまにか「ヒロシマ」を通して歪に結びつけられてしまっていたのである。
そして七波はさらに、弟の凪生が今もまだ「ヒロシマ」に追いかけ回されていることを知る。

他のこうの史代作品がそうであるように、この漫画で描かれる世界には柔らかで優しい雰囲気が常に流れている。しかし一度ベールをめくって中を覗きこめば、「いつまで私たちは『ヒロシマ』に捉われ続けなくちゃならないんだ! どうして『ヒロシマ』に追いかけ続けられなきゃならないんだ!」という叫び声が奥から奥から聞こえてくる。
つまり、だ。(多少乱暴な切り取り方であることは自覚した上で述べると)「夕凪の街 桜の国」とは「ヒロシマ」から如何に抜け出すかをテーマにした漫画なのだ。
広島からの帰りのバスの中で、七波は隣の席で眠る東子に語りかける。


「桜の国(ニ)」では、誰かによる過去の回想により、七波と凪生の父と母がどのように出会い、どうやって愛を育んできたのかが描かれる。一体何のために?

おそらくこの漫画は、そうすることで「夕凪の街」と「桜の国」の間を「ヒロシマ」を介することなく繋げ直そうとしているのだ。皆実と七波の繋がりは決して「ヒロシマ」だけではない。皆実と七波の間には、紛れもなく旭と京花の愛の物語が紡がれていたはずだ。それを我々に伝えようとしている。

東京に戻った七波は、父と母が暮らし、自分自身が生まれ育った町並みの中をゆっくりと歩き回る。
七波は、母と祖母の死の記憶から逃げるため、そして「ヒロシマ」から逃れるために、父と母と自身と東子の美しかった思い出まで一緒に捨てようとしていた。
しかしそれは七波自身が言うように、原爆の負の記憶を「ヒロシマ」として広島に(そして長崎に)押し付けることと同じことだ。
七波は、桜並木の町を歩き、若き父と母の姿を「思い出し」ながら言う。

母からいつか聞いたのかもしれない。けれどこんな風景をわたしは知っていた。
生まれる前、そう、あの時わたしはふたりを見ていた。
そして確かに、このふたりを選んで生まれてこようと決めたのだ。

こうして七波は、忘れたい過去の記憶と和解するにいたったのだ。

夕凪の街 桜の国」にはあとがきにてこのような記述がある。

「広島の話を描いてみない」と言われたのは、一昨年の夏、編集さんに連載の原稿を渡して、帰省したとかしないとか他愛のない話をしていた時のことでした。やった、思う存分広島弁が使える! と一瞬喜んだけれど、編集さんの「広島」が「ヒロシマ」という意味であることに気付いて、すぐしまったと思いました。
〜〜〜〜(中略)〜〜〜〜〜〜
でもやっぱり描いてみようと決めたのは、そういう問題と全く無縁でいた、いや無縁でいようとしていた自分を、不自然で無責任だと心のどこかでずっと感じていたからなのでしょう。

夕凪の街 桜の国」は「ヒロシマ」から如何に抜け出すかを描いた漫画である。そして「ヒロシマ」と如何に和解するかを描いた漫画である。
そしておそらく、この漫画があったからこそ「この世界の片隅に」が生まれた。

上で、「夕凪の街 桜の国」からは「いつまで私たちは『ヒロシマ』に捉われ続けなくちゃならないんだ!」という叫び声が聞こえて来るかのようだと書いた。それに対して「この世界の片隅に」は、叫び終えた後を描いた作品のように思う。
夕凪の街 桜の国」が「ヒロシマ」から自由になるために描かれた漫画だとすれば、「この世界の片隅に」は自由を謳歌している漫画だ。ひとしきり叫んでスッキリした後に、大の字に寝転んで青空見上げてアハハハと笑ってる。「この世界の片隅に」は私にとってそんな感じの漫画だった。

だから、「この世界の片隅に」は断じてカウンター作品などではないのである。
私がそう決めたのだから、そうなのだ。