ガンダム Gのレコンギスタ 第八話感想その2 マスクの本音とノレドとの対比

その2ー。

【ルインはマスク大尉】

 前話と今話はGレコでは実質的に初めて前後編の形をとった構成となっているが、その主軸としてベルリらメガファウナ部隊とマスク部隊の交戦があり、もう1つの流れとしてウィルミットのキャピタルタワーからの脱走劇があった。すなわち表の主人公としてベルリ、裏の主人公としてウィルミットが配置されていた事となる。そしてこの2つの物語の軸が交差する8話中盤が、この前後編のクライマックスとして描かれた訳だ。
 こうして見ると構成としてかなりよく出来ている事が分かる。しかし、この2人が物語の軸として機能している事は確かだが、そこにもう1人見落としてはならない重要人物が存在する事を忘れてはならない。謎の男マスクだ。そもそも前話と今話のサブタイトルが「強襲!マスク部隊」「父と母とマスクと」なのだ。
 マスク自身はこの2話の最中ほとんど単なる敵キャラとして描かれており、その内面に強く焦点が当たっていたとは言いづらい。しかしながら、数少ないマスクというキャラクターを読み解く重要なシーンが7話冒頭と8話の終盤に配置されており、この前後編は実はマスクのシーンでサンドされた構成になっているのだ。
 5話で突如登場した謎の男マスクはその正体こそバレバレだったが、逆に言うと実は正体以外は一切不明だった。唐突に登場して気がつけば毎話のやられ役的ポジションに居座っていたが、その実、当の正体であるルインがマスク大尉となるに至った経緯や動機についてはほとんど描かれないままだった。突然名前も性格も変えてしまったルインはマスクのマスクの下で一体何を考えていたのか?
 前話冒頭ではマスク率いる部隊全員がクンタラである事が示され、クンタラの地位向上を目指している事がマスクの口から語られた。しかしその時点ではまだマスクが本音で喋っているという確証は無く、視聴者の立場では彼の真の意図が何なのかは宙ぶらりんのままであった。5話以前の描写でも、ルインはベルリに対しては普通に「気さくで気の良い先輩」をやっており、そこまでルサンチマンを溜め込んでいるようには思えなかった。だからこそ突如狂人のように振る舞うマスクの姿が我々には異様に映ったし、前話冒頭の発言もどこまで本気で言っているのかがイマイチ分からなかったのだ。
 しかしそれが今話終盤のシーンで、ようやく彼の「本音」が見えて来る。今話でマスクは敗戦の将として無様に母艦に帰還する。その姿に「所詮クンタラ」と陰口を叩かれ、上官からは焦りを嗜められる。1人になった所でマスクは自分の境遇に対するやり場のない怒りの吐露を叫ぶ。この一連のシーンがマニィの視点から描かれる訳だ。ルインの姿の際には一貫して好青年として描かれていたが、その実心の奥底ではクンタラとしてのコンプレックスに塗れていた訳だ。
 ルインの「クンタラとしてのコンプレックス」を読み解く上で重要なのは、マニィの存在だ。今話でこちらも唐突にショートカット姿となって現れたマニィだが、彼女もまたルインと同様にクンタラであるという事実が始めて明かされる。彼氏彼女の関係として仲睦まじい姿を見せてきたルインとマニィだが、2人が揃ってクンタラであるのなら、これまでのいくつかのシーンも大きく意味合いが変化しかねない。
 例えば3話の冒頭、ルインがクンタラである事に含みを持った言い方をした上官に対して、隣にいたマニィは「そんなに汚らわしいですか?」と敵対心をあらわにする。マニィがクンタラである事が伏せられたままであれば、このシーンは差別的な物言いから恋人を守ろうとする健気さとして映るが、マニィ自身がクンタラもまたクンタラであるのなら、このシーンはクンタラとしての防衛の意味が込められる。
 語弊を恐れず言うのであれば、ルインとマニィの関係性は外部からは「差別民族同士の傷の舐め合い」のような関係に見えかねないのだ。そしてそれは外部からの目線である以上に、自分達自身が「外部からどう見られているか」という意識として育っていくのではないだろうか。ルインにとってマニィの存在は、心の支えであると同時に、自分のクンタラコンプレックスを刺激する材料ともなっていたのではないかと想像ができる。
 そしてそれと対比する形で浮かび上がってくるのが、劇中におけるもう1人のクンタラであるノレドである。ノレドとルインのクンタラに対する意識は非常に対照的だ。ルインがクンタラと呼ばれる事に対してストレートな怒りを見せる一方で、ノレドは外部からのクンタラの揶揄に対して、何でも無いかのように適当に受け流す。ここに2人のクンタラコンプレックスの差が見て取れる訳だ。(この点に関しては3話感想にて以前にも少し触れている。http://d.hatena.ne.jp/adenoi_today/20141019/1413718352
 この2人を対比させて考えて見ると、次に見えてくるのがノレドとベルリの関係性である。ベルリは自身が成績優秀な飛び級性であるだけでなく、運行長官という国のお偉方を母に持つ生粋のエリートだ。そんなベルリが自然体でノレドが隣にいる事を良しとしている。クンタラ同士でくっついているルインとマニィの関係性とはこれまた対照的だ。ノレドはそんなベルリの態度のおかげで、自身がクンタラである事に対する引け目を感じずに済んでいるのかも知れない。今後ノレドの出自について劇中でどこまで掘り下げられるのかは何とも予測できない所であるが、少なくとも現段階では、ノレドとルインのクンタラとしてのキャラクターをこのように対比させる事が出来る。
 ところで、Gレコに対して度々投げかけられる批判の1つに「ベルリの目的意識がよく分からない」といったものがある。確かにベルリの思惑についてはそこまで明示的に描かれていないし、ベルリ自身もまた確定的な1つの目的があるという訳ではなさそうだ。どこか状況の変化に上手く乗っかているという印象がある。有り体に言ってしまえばベルリは主人公らしくは無いのである。
 それに比べると今話の描写におけるマスクは、自分の出自という困難があり、それを乗り越えて周囲を見返そうという強い目的意識があり、そしてその目標を共有してくれるヒロインとのロマンスもあり、といった具合で、ハッキリ言ってベルリよりもよっぽど主人公的な描かれ方がなされているのだ。
 こうしたある種の逆転現象は、どう受け止めて良いかはさておきGレコの複雑さ、一筋縄ではいかなさを強く感じさせる。とにもかくにも色んな意味でその「正体」が明かされたマスク大尉だ。今後どういうった活躍を見せるのかが楽しみである。

【半歩分の意外性】

 今話の冒頭では前回から戦闘が続いていたのも意外だったが、もう1つ意外だったのがMAアーマーザガンだ。前話ではビグロやグラブロのような大型MAだと思っていたアーマーザガンが、実は通常のMSより1、2周り大きい程度のサイズだった事が判明する。また、小回りが効いて俊敏な動きを見せるのも意外だった。
 おそらくアーマーザガンに対するこうした思い違いをしていたのは私だけではない。と言うのも、前回のアーマーザガン登場時の描写は、明確にサイズの分かる対比物こそないものの、明らかに巨大感を演出しようという意思で描かれているからだ。

となればこうした前話と今話での印象のギャップもまた、制作者の意図通りという事だろう。
 アーマーザガンだけでなく、そのパイロットであるミック・ジャックもまた、初見の印象からは少し外れた意外性を今話で見せる。5話での初登場時にはノレドらに比べてどこか大人びた印象を受けたし、今話でもベルリに「坊や」と呼びかける事で、ミック・ジャックの年上感が視聴者にはアピールされている。「補給部隊の年上のお姉さん」と言うと、当然ガンダムファンとしては1人の女性の名前が連想される所だ。
 一方で、パイロットスーツを脱いで私服に着替えた彼女の姿は、フワッとしたワンピースに頭の上の大きなリボンと、グッと少女感が増している。今話前半までの「年上のお姉さん」然としたイメージからは微妙に外れた印象を与えている。

 Gレコではこうしたキャラクターの初期イメージに対する微妙な違和感・意外性が、かなり多くのキャラクターにおいて描かれている。アイーダ姫さまのポンコツっぷりはともかく(彼女もミック・ジャック動揺、最初は「年上のお姉さん」イメージで登場したはずなのだ…)、クリムは最初の登場シーンではどこか傲慢で嫌な奴といったイメージだったが、同話中ですぐさまコメディリリーフとしての役割を持たされ、その後はラライヤに対しても面倒見の良い所を見せる。
 こうしたGレコキャラの意外な一面は、明確にギャップと呼べる程の大きなものではなく、言うなれば既存イメージから半歩分だけズレた程度に描かれる。また、劇中でもそうした意外性が強調して描かれるのではなく、むしろ自然当然のように描写される。何故強調して描かれないのかといえば、それはおそらく、そもそも意外性を与える事自体を目的としていないからだろう。
 そもそもここで述べている「既存イメージ」とは何なのかと改めて考えてみると、それは劇中描写そのものから来るイメージと言うより、結局は視聴者の脳内で組み立てられたステロタイプの人物像ではないだろうか。「大統領の息子で自称天才MSパイロット」という設定から、我々は即座に「傲慢で鼻持ちならない嫌な奴」「その内主人公に鼻っ柱を折られる」といったステロタイプなキャラ像や物語展開を想像する。もしくは「年上の奇麗なお姉さん」というキャラが現れれば、大人びた私服を想像する。
 しかし勿論そうした想像は、キャラクターをステロタイプな定番描写の枠に当てはめているにすぎない。そうしたステロタイプに収まらないキャラクター描写が、結果的に我々には「半歩分の意外性」として感じられるのではないだろうか。
 ステロタイプには収まらないキャラクター達の性格や仕草や服装が、あくまで自然のままに描かれる。それによって、彼らは画面の中の見せ物としてのキャラクターではなく、リギルド・センチュリーという世界の中で生きている、血肉を持った人間達として我々の目に映し出されるのだ。

遂に「Aパートで物語進行、Bパートで戦闘」のパターンが崩された第八話。キャラクターもかなり出揃い、次回からは一気に物語が動きそうな気配がジリジリと感じられてくる。見ないと人生暗いらしいが、今私の人生の相当を割いているのがGレコなので、暗かろうが明るかろうが次回も見る以外にないのだ。