ガンダム Gのレコンギスタ 第七話感想その2 ミノフスキー粒子下のコミュニケーション論

その2ー。

【人は人と触れ合いたがる】

 今話の本編は、出撃前のマスク部隊が円陣を組み鬨を上げるというシーンから始まる。特に1人ずつ手を重ねるカットなどは、モブキャラらが戦争をしにいく直前のシーンとしてはかなり異質で、強く印象に残る。本シーンに限らず、「Gのレコンギスタ」というアニメでは人と人とが物理的に接触する事、触れ合う事が強く重視されている。もっと正確に言えば、触れ合う事で生まれる人と人とのコミュニケーションの形が非常に丹念に描かれている。
 劇中での彼ら、または彼女らは、時に大胆に、時に自然体で、他者の体に触れる事でコミュニケーションを図る。


 この程度の「接触」を作品の特徴と言ってしまう事に奇妙さを感じる人もいるかも知れないが、他のアニメの世界を注意深く観察すると、身体的接触がGレコ程に多用されている作品は意外なくらい少ない事に気付くはずだ。
 Gレコにおける身体的・物理的接触の重視は人間同士のコミュニケーションだけに留まらない。それがSF設定にまで表出しているのが、他でもない「ミノフスキー粒子」と「接触回線」の劇中設定だ。
 ミノフスキー粒子の設定は、初代ガンダムにおいて宇宙戦艦同士が目視距離で戦闘を行う事への理由付け、ひいてはMSの存在そのものに対する理由付けに使われ、それ以降も宇宙世紀世界において定番のキーワードとなっている。接触回線もそれに付随してしばしば使用されてきた設定だ。
 しかしながら、Gレコの作劇におけるこの2つのSF設定は、従来のガンダムシリーズにおけるそれとは一線を画す。これまでのガンダムシリーズでこれらはあくまで、「分かっておくと台詞が理解しやすい」程度の裏設定レベルに過ぎなかったが、Gレコにおいては、ミノフスキー粒子による通信遮断および接触回線による通信回復の両方が、物語の軸となるドラマの起点にまで昇華されているのである。
 そうした作劇の特徴が最も強く描かれたのが前話のベルリとデレンセンの悲劇だ。ミノフスキー粒子による通信障害の為、ベルリにとってのエルフ・ブル、デレンセンにとってのGセルフは、単なる得体の知れない敵MSとしてしか認識されない。そして命の取り合いの最中に、相手の機体に触れたビームライフル銃口を通して、彼らは一瞬だけ相手の声を聞いてしまう。
 よくよく考えてみると、そもそも敵機と味方機、機銃やビームが飛び交う戦場の中で、自分の声を誰にも届ける事ができない、誰の声も聞く事ができないという状況は、パイロットにとっては極めて恐ろしい状況だろう。ミノフスキー粒子の霧の中では、パイロットは常に孤独を強いられている訳だ。
 そして逆に、接触回線により通信が繋がる事により、パイロットはようやく孤独から開放される。劇中でベルリは、接触回線により他者の声を聞いた瞬間、いつも少し安堵した表情を浮かべる。ミノフスキー粒子が散布された戦場では、相手と物理的に触れ合う事によって、はじめてコミュニケーションがとれるのだ。
 Gレコ世界の住人らが、とかく身体的接触をとりたがるのは、そうする事で相手とコミュニケーションをとる為だ。触れ合う事で初めて他者とコミュニケーションがとれる、Gレコの世界とはそういう世界なのだろう。そしてそれは、我々が生きる現実世界でも、同じ事なのかも知れない。
 今話では、もう1シーン非常に印象的な「物理的接触」を描いたカットが存在する。メガファウナに補給物資を届けにきたジャハナムと、メガファウナグリモアが、擦れ違い様MS同士の手のひらでタッチをする。




 ここではミノフスキー粒子などはもはや関係無い。ジャハナムグリモアの両パイロットらは、普通に無線で会話をしているはずだ。では何故彼らはわざわざ意味の無いタッチをMSにさせたのか。その答えは、おそらく極々簡単なものだ。彼らはただ、相手と触れ合いたかった。それだけなのだろう。

【ウィルミットは何故笑った?】

 彼女は着々と進むアンダーナットの軍事基地化に不満を露にするが、そうした事態の推移に対して、決定的に無力な存在でしかない事が前話から引き続き、今話でもまざまざと描かれる。そして自室で1人になった瞬間に、突然の高笑い。

直後のカバの剥製のカットも相まって、非常に印象的なシーンだ。
 個人的にこのシーン、強烈に胸に来た。というのも、私自身非常にしんどかった時期に全く同じ笑い方を何度もしたからだ。しんどい状況で、それもしんどいはずなのにちゃんと頑張れなかった日などに、自室に戻って1人になった瞬間声上げて笑うという行為を何度となく、した。本当は泣きたいんだけど、泣く代わりに笑うというか。なのでこのシーンのウィルミットの心情が、このワンシーンだけで痛い程共感できてしまったのだ。
 が、一方でこのシーンに「何で急に笑い出したの?」と疑問を持った人も多いようだ。確かに私もそうした「経験」が無ければ、ここまで胸打たれる事は無かったかもしれない。こうした「伝わらない人もいるかも知れない」というシーンを平気で挿入する所は、良くも悪くも富野アニメの特徴だが、逆にもしこのシーンのウィルミットの心境を、より分かりやすい表現で描いたとしたら、ここまで私がウィルミットに共感するような事も無かっただろう。
 このシーンがある事によって、その後のウィルミットの大胆な行動が非常に自然に繋がる訳だ(少なくとも私にとっては)。
(ちなみにこのシーンを元にGレコの「笑う」「泣く」シーンについて面白い論考をしていた方がいたので紹介しとく。http://spankpunk.exblog.jp/23277976/

という訳で、マスク部隊がどうこう言ってた割にはむしろ明らかに主役はウィルミットママンだった今回。次回予告では「歩きながら見るなよ!」とスマホ配信中のコンテンツとは思えない決め台詞。私はそもそもスマホとか持ってないので、そんな事は関係無しに次回も見るのだ。