ガンダム Gのレコンギスタ 第六話感想その2 戦争を誰も止められない

という訳でその2ー。

【リアルは地獄】

 前話において、第一話で海賊達がクラウンを襲った理由が、キャピタル・タワーを占拠してアメリア軍の宇宙基地として利用する為であった事が明かされたが、今話では軌道エレベーターの停留駅の1つであるアンダーナットが、既にキャピタル・アーミィら自身の手によって軍事基地化されている様が描かれる。
 視聴者からすると「いつの間に」といった感じだが、この「いつの間にか」という所が恐ろしい。アンダーナットの軍事基地化に限らず、アーミィ設立やタブーの侵犯、アーミィ色に染められるクラウンなど、このアニメではキャピタルの軍備増強に関わるシーンは、全て視聴者に対して事後報告的に描かれる。そこには「何となく」「知らないうちに」「いつの間にか」自分の国が戦争の準備を着々と進めているという、ゾッとするリアリズムが潜んでいる。
 そしてさらに恐ろしいのは、そんなキャピタル全体の流れに対して、一般市民らは薄らと不満や嫌悪感を持っているらしいという所だ。それの何が恐ろしいのか? 一般市民が反発的な感情を持っているにも関わらず、キャピタルの軍備増強に対してそんな市民感情は何の障壁にもなっていない。それが恐い。彼らは自分達の街に現れたアーミィの人間に、陰口を叩き、スプーンを投げつけるが、実際にはアーミィ設立記念式典は大々的に行われ、MS部隊が「人質救出」の名目の元に幾度と無く発進する。4話の段階ではアーミィの存在に不満気だったはずのマニィが、次の話では平気でチアガール姿でアーミィを応援する。皆戦争の雰囲気に薄らとした抵抗感を示しながらも、その程度の薄らとした民意は何となく流され、さらに無力なレベルへと拡散してゆく。
 「リアルは地獄」とはGレコのEDテーマ「Gの閃光」の2番目の歌詞に出てくるフレーズの1つだ。Gレコファンの間では「元気のG」と並んで、Gレコの世界観を象徴する代表的なキャッチフレーズとして使用されている。劇中においてヒッソリと、しかし確実に構築されていく戦争状態は、まさしく地獄なリアルそのものと言って良い。しかし、その地獄が自分達の住む世界の真横まで近づいているにも関わらず、人々はその事に気付こうとはしない。やもすれば、それを客観的な立場から見ているはずの視聴者ですら、地獄の存在をウッカリ見落としそうになってしまう。
 そしてそれは主人公であるベルリにしても似たような事が言える。ネットなどではこれまでのベルリの行動について、状況に流されているだけと見る向きも多いようだが、おそらくそれは微妙に違う。ベルリは状況に流されているのではない、状況に乗っているのだ。より正確に言えば「乗れているつもりになっている」。
 ベルリはクンパ大佐の思惑に利用された形で海賊と行動を共にするが、彼自身は海賊の内部からアメリア軍の情報をスパイしようという彼なりの思惑があったようで、今回はまんまと重要情報の奪取に成功する。またベルリにとって海賊側に身を置く事は、気になる女の子とも一緒にいれるし、気に入らないキャピタル・アーミィには組せずに済むという旨味もある。実はベルリにとって海賊船でMSパイロットをやっている今の状況はこの上無く都合の良い状況なのである。
 が、しかしそれも所詮は隣接した地獄に気付かぬ浅はかさでもある。ベルリは自分自身は上手くやれていると思っている内に、実は地獄への道を邁進している事に気付いていない。今話でデレンセンはミノフスキー粒子越しに届かぬ台詞を叫ぶ

「貴様は何人の戦友を殺してきたのか分かっているのか!」

 そういう意味で今話は、ここまでずっと隣り合わせだったはずの地獄にリアリティを持たないまま来てしまったベルリが、遂に「リアルは地獄」を目の当たりにしてしまったのだと言える。そしてそれは我々視聴者にとっても、だ。
 さてこれからどうなる事やら。ここからが本当の「元気のG」の始まりなのか、それとも…。

【人生最大のミステイク】

 既に多くの人が指摘しているが、Gセルフエルフ・ブルを撃破するまでの一連のシーンは、戦闘描写としてはかなり違和感がある。というのも、明らかに場面が飛んでいるのだ。Gセルフエルフ・ブルの位置関係にせよ、エルフ・ブルの消えた下半身にせよ、カットとカットがどうも繋がっていない。
 これについては公式情報からも分かるが、実際に没になったカットがあるようだ。その内のいくつかがOPアニメに転用されており、それらを巧く繋いだ動画がニコニコに上がっていたので紹介しておく。

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 確かにこちらの方がアクションとしてはかなり自然になっている。では何故このカットが没になったのだろうか? 単なる尺の問題と見なす事もできなくもないが、おそらくそれは正解では無い。この「完全版」ではGセルフが余りにも好戦的すぎる、というのが没の理由ではないだろうかと個人的には思う。本編バージョンでは直前のシーンはクリムを助ける動作である事もあり、エルフ・ブルの撃墜はあくまでドサクサの中でウッカリ殺してしまうといった印象だ。反面「完全版」では積極的に敵を追いかけており、最後のビームライフルにも、どこか明確な殺意が感じられてしまう。それを嫌って、アクションの整合性を犠牲にしても「ミステイク」の印象を優先したのだとしたら、結構納得できる話だ。
(とは言え、やっぱりそれならそれで描き直し欲しかったよなあ。ドラマが「飛ぶ」のは良いけど、アクションが「飛ぶ」のは個人的にはちょっと。)

【デレンセンの真意は?】

 今回海賊側がベルリの扱いに対して多層的な思惑を見せた事は前エントリーで言及したが、その一方でキャピタル側もどこまで一枚岩と見て良いのかはイマイチ分からない。特に分からないのが今話の主役である所のデレンセン教官殿だ。「人質救出」がキャピタル・アーミィの軍備増強の口実である事は主要人物らにとってはほとんど公然の事実であると言って良い。しかしそれがデレンセンにとってもそうであるのかというと、そこがどうにも分からない。少なくとも今話の彼はあくまでベルリ救出を最上の目的としている。
 では彼がそうした腹芸や政治事に疎い、悪く言えば鈍感な人間であるのかと言うと、それも微妙に違うように思う。4話のアーミィ設立式典時、自分の出撃を見送る大勢の人間を見ながら彼がつぶやいた

「よくもまあ、お祭り騒ぎにしやがって」

という皮肉そうな台詞からは、自分自身もまたピエロである事の自覚が感じられないだろうか。

 少なくとも彼はこれ見よがしな英雄扱いに対して調子に乗れる程、単純な人間では無い。そう考えると、今話で彼がウィルミットに伝えた

「長官殿! ご子息は必ず取り戻してみせますから」

という茶番じみた台詞にも、そのやり取りが茶番である事を自覚しながら敢えてそれを演じているようにも見えなくない。

 ただ、デレンセンが自分のピエロさに自覚的にせよ無自覚にせよ、彼が「ベルリを助け出す」という目的を本気で果たそうとしていた事だけは確かな事だろう。そんな彼の性格は、我々視聴者には痛い程よく分かるのだが、しかしおそらくウィルミットの視点からはそうしたデレンセンの真摯さは伝わる事は無いだろうなとも予想がつく。息子を出汁に使われている事に忸怩たる思いのあるウィルミットにとって、デレンセンによる「茶番」はむしろ神経を逆撫でかねないはずだ。ウィルミットとデレンセンの劇中唯一の会話シーンだが、そうした両者の視点の差を思うと、なんとも切ないシーンではないか。

という訳で、ベルリ周りの悲劇の爆薬が一気に炸裂した今回だったが、次回も次回でウィルミットが予告画面で何やら不穏な笑い顔。今回の決め台詞では「どうなるか見たいでしょ?」と言われたが、そんな事言われなくても当然見たいので、次回も見る!のだ。